私は今この文章を、原稿用紙に書いている。と言っても、彼のような愛用の万年筆ではなく、筆箱の中に入った鉛筆(三本組のうち、一番背の高い末っ子)を使ってだ。
この総集編「鎖」に収録した作品は、大きく分けて小説とエッセイの二種類。丁度折り返し地点に挟んだ「掌の五七五」は、編集の都合上入れるか入れないか悩んだが、ここに登場する一首一首の風景が、彼の小説やエッセイの世界観を支える挿し絵代わりになると思い、掲載時の部誌のデータからそのままコピーして入れさせていただいた。
さて、まずは「小説」について。と言っても本誌に掲載しているのは15ページの「鎖」と、87ページの「鎖」だけである。実はもう一つ、「孤児の揺り籠」という大変世界観の濃い作品があるのだが、作者曰く「あの時の自分は何考えてるんか分からん」そうなので、残念ながら彼の希望通り掲載しないことにした。「孤児の揺り籠」は一年生時に、「鎖」(15ページの方)は二年生時に、それぞれ県の総合文化祭で優良賞・優秀賞を受賞している。(七十人の応募人数のうち、三位・二位という自慢の表彰状だ。)果たしてそのような作品に対して私が何を「解説」できつのか。つたない文章にはなると思うが、本誌の二つの「鎖」について、魅力を感じる理由を私なりに書いていきたい。
まずは、面白いこと。いや、そんな行き詰った読書感想文みたいなこと書くなよと思われるかもしれないが、でも確かにそうだ。だって五巻中三巻が参考文献と作者の紹介だ。字も読めない。言葉も分からない。そんな極端な主人公の描写が妙に生々しくて楽しい。非日常なのに、どこかで自分も同じように感じた気がする。二つ目の「鎖」についても同様だ。こちらには身長三メートルの芸人レポーターは登場しないが、やはりその「日常」をとらえる人物たちの目線は、普段はなかなか描かない思考にまで活字の手を伸ばし、ふっと心地よく触ってくる。それはまた本を閉じた後(私の場合編集の画面を閉じた後)も、その手形を通して世界を見ることができる。私はもう、教卓に立つ先生がチョークを持たせる生徒の背中に、鎖をかけている様子が見える。そしてその黒板の景色から逃げるように、頬杖をついて白い窓を眺める自分を、「あ、下村だ」と笑う。思わず口角が上がっていくような心地よさ。それを描ける舞台を作り出せるのが、やはり作者の魅力だろう。
まずは、と書いてしまったからには二つ目を書かなくてはならない。こんなときヒュヒュっとカーソルを戻して前の段落の字を消せないのは、原稿用紙特有の制約である。しかしその制約があるからこそ、彼の文章はナチュラルな時間軸で、すっと私たちに話しかけてくる。ここからは、彼のエッセイの魅力について語ろうと思う。(こんなことを言って小説の「二つ目」から目をそらそうとしているから、私はまともな文章が書けないのだ。)
先ほども書いたように、彼のエッセイは講演会ではない、教室の隅で、机一つをはさんで座り、時々愛読の小説をポケットから引っ張り出しては、私に向かってパラパラとページをめくり語りかけてくる。問題集の文章みたいに、急に難しい言葉を羅列して私たちを振り落とすようなことをしない。だから普段あまり本を読まない私(文芸部のくせに)でも、素直にその開かれたページを覗き込むことができる。ただ、あんなに「引用が多い」と謝るくらいなら、もっと実体験を入れればいいじゃないか。手の「クチクラ層」について熱く語っていたように、恋のエッセイの引用先だって、絶対一高校生の体験のほうが読者もニヤニヤできるじゃないか。……なんて、一「友人」からの余計な一言だ。(これ以上書くと作者が伏せている内容をさらけてしまいそうなのでやめておく。)
エッセイも小説と同様、これは本を閉じた後も続いていく。「美」「あはれ」「miss」そして「love」。言葉を一つ一つ、優しくかみしめていく彼の文章は、読んだ後の世界の見え方をほんのりと変える。私は彼に出会ってから、悲しい度に美しい。そして美しい度に、授業で習った訳語をつけなくても、嘆息の詞は思い浮かぶ。肯定的な語句に赤線を引っ張り、否定的な語句に青線を引っ張るような現代文の授業も通用しない。肯定も否定もない。生まれてしまった感情をすべて受け止める。これは彼の小説、エッセイ、また途中の俳句についても全てそうだ。
涙を流すように書きたい、と彼は言った。にじんだ感情を青いインクにして、これからもこのマス目に流し続けて欲しい。涙を乾かす北風より、涙を包む雨がいい。私はそれを浴びていたい。もう、これからはどんな感情も怖くない。