昨年の夏、私は二十一世紀美術館に行った。その中で、興味を引く展示があった。そのタイトルには、「東山魁夷の眼~そのコレクションと川端康成の交流~」と題している。私は思わぬ偶然にはっと驚いてしまった。特別展示を特に調べて行った訳でもなかったが、私が畏敬の念を抱く作家――川端康成――の展示が行われていたのだ。念のためだが、東山魁夷は言わずと知れた日本画家の巨匠で主に風景画を描いた。ちなみに兵庫県育ちでお隣の兵庫高校出身。
さて東山魁夷と川端康成の接点はどこにあったのか。ディレッタントの読者各位などは、もうお察しだろう。そう魁夷が昭和三十六年康成の文化勲章の祝いに「冬の花」を贈ったことがあった。遠方から京都の北山杉を描いた「冬の花」は康成の「古都」の最終章の見出しにちなみ、当初単行本として出版された口絵にも使用された。
私のこの文章は魁夷や康成の全体像を浮き上がらせることを目的としないから、二人についてあまり知らない人は読みにくいかもしれない。
私がこの文章で書きたいのは、「美しさ」についてである。というのも、最近美しいと感じる心の底に妙なものがあるような気がしてならない。それは一語で言えば「悲しみ」である。つまり美しいなと思うとき私の目は熱くなるのである。この現象は「涙」の一語を持って簡単に表現することができる。私の語彙が少ないせいか、もう一つの現象はそう簡単に表現できない。感覚の方面からは「胸が騒ぐ」。これは決して慣用句ではなく字面の意味だけで、「何かを危惧したり」、「期待で少し興奮する」ことでもない。また「胸がすく」も痛快さを感じたりする訳ではなく、「お腹がすく」感覚に近いから胸にも応用してみただけである。意味の方面から考えると、「胸を焦がす」――恋に思い悩む――。これが案外近いかもしれない。「胸が潰れる」。これは少し悲しみが強いような気がする。うーん。分からない。何も慣用句に拘らなくてもよいだろう。
ところで、「美しさ」と共に「悲しみ」を覚えるのは私一人ではないと思う。少なくとも「快さ」と「悲しみ」が同時に来る現象は、「普通によくある。」と日本人ならほとんどが、頷くことだろう。あえて、「日本人」と書いたのは、日本人には昔から「あわれ」を解する心があったからだ。
例えば、日本の音楽は悲しい音楽だという説が定説であるらしい。確かに三味線や琴などを聴くと、納得である。また野球やサッカーの国際試合で選手が試合前に国家を歌うが、日本のそれより暗い感じの歌は聞いたことがない。だから外国人なら「それでも戦う気があるのか」と尋ねたくなるかもしれない。日本人は堂々とそれを歌うだろう。「君が代は千代に八千代に…」。厳かな様子で千年や何千年もの間の繁栄を誓うだろう。なんとけなげだろう。そう「けなげ」。言語学者に金田一春彦氏(国語学者京助の息子)がおられるが、彼の名著「日本語」の中に、「けなげ」について興味深い記述がある。
〈日本人の好きな単語の一つに「けなげ」というものがある。和英辞典をを引いてみると、訳語としてbrave,manlyなどと書いてあるが、筆者に言わせると、braveと「けなげ」は違う。Braveと言うのは、勇ましことである。日本人の「勇敢な」にあたるが、「けなげ」というのは一種の勇敢に違いないが、悲しみがそのなかに感じられる。つまり、自分は到底力が及ばないと知っているが、全力を尽くしてコトにあたる。自分の命を犠牲にしてコトにあたる、そういった気持ちが「けなげ」であって、いかにも日本人好みの単語である。〉
「アメリカ人は映画を笑うために見に行くが、日本人は泣くために見に行く」ということがよく言われたものだった。ここにも日本人の悲しいもの好きの傾向が表れている。
孫引きで申し訳ないが、心理状態をあらわす語彙の中で悲観的なものが多いことを、南博氏は「日本人の心理」の中で、指摘している。
〈英語などでは「喜び」や「楽しさ」を表す語が多い。「喜び」には、joy,gladness,rejoicing,Rapure,exultation,「楽しさ」には、pleasure,Enjoyment,happiness,amusement,comfortと、いくらでもある。が、日本語は、「幸福」「幸せ」「幸甚」などの語は、語彙数も使用頻度も少なく、反対の「悲哀」「不幸」「苦労」「難儀」の類いが、「悲しい」「哀れな」「寂しい」「切ない」などと共に多く使われるという。〉
また春彦氏は、古典文学で習う単語(あじきなし、うし、うたてし、うらめし、つらし、わびし)で悲しいものが多いのを指摘し、こう言う形容詞が多かったことは文学作品に一般に悲しいものが多かったことの証拠である、と説いておられた。
引用が続いてしまい、たいへん失礼だったが、もっと引用したい気もしている。要するに「日本語」は、大変興味深い本だということだ。体系的に学べる言語学入門の名著であるから、未読の方で興味のある方は、読まれたらよいと思う。(岩波新書で図書室にもあったと思う。全二冊。)
さて、ここからが本当の本題。私が感じる「悲しみ」の対象について書こうと思う。四つに絞ってみた。
・東山魁夷の風景画
・川端康成の小説
・自然(花鳥風月など)
・若い女の肌
若い女の肌というのは、まあここで書いてもよいのは「手」位のものである。しかし、「手」というものに私は最も安心し、何よりも執着を持っているのかもしれない。女の手を眺める機会があれば、「手」の芸術に私は見入ってしまう。私の外見は誇れないと端から思っているが、手というものには尚更そうである。そう汗かきと言うわけではないが、手は異常に汗をかく。どういう形容が適切かは心得ないが、手に透明感というものがない。そうだ、クチクラ層とでも言おう!そんなに苦労したわけではないのに…。女は手入れをしているからだろうか。いや違う。一度爪を磨いたことがあったが、なんだか気味が悪かった。男だからではない。男でも手がきれいな者なんてたくさんいる。
それ故私は疎外感を抱くことがあるが、何もこれに限ったことではない。それに私は人との交流を避ける癖がないわけではない。そうすると、一つ一つの動作にぎこちなさを自分でも感じてくるようになった。殊に話すのがどもるときは、気分が悪い。しかしすべてが、ぎこちなくなったかというと、そうでもない。わきを触られてくすぐったく思うのは、赤ん坊の時から変わらないだろう。これで他人と通じ合えるような気がする。
絵にはあまり通じていないから、難しいことは分からないが、絵画というものは、写真のようにそっくりそのままを写実するのが、良い作品になる訳ではない。もし芸術家が、写実を忠実に行うことに専念したのなら、さほど作品に差は現れなくなるだろう。そんな中で他の画家に差を付けようと思うと、描く対象に変化を付けざるを得なくなる。しかし、それによっての差は、他の画家の作品との差を付けられたとしても、現実との差は生まれないだろう。そうなら、これは現実の代物となり得るのか?答えは否だ。それどころか、むしろ現実よりも劣った「偽現実」となるだろう。それは見るに堪えない。こういう結果は、芸術の「非現実(良い意味での)」の側面を失ったものにとって、当然帰着すべき所である。
これに良い解釈を与えてくれるだろうと思われるものに、私は伊藤整著作の「芸の技術と倫理」を挙げたい。彼がその方面に、どれだけ通じているかは知らないが、とにかく上手い具合に秩序のある説明が出来ると思う。
彼が、その中で、扱っている芸術は音楽、絵画、文学である。(今は都合上音楽を省かしていただく。)殊に彼は作家であり、これは文芸部誌なので、本題からそれるかもしれないが、文学の話も採り上げたい。彼が言うには、まず文学の方面から、「作品に感覚の美しさのみ作家」や「自己の時代の秩序動かすべからざる批判すべからざる権威だと意識しながら、自己を受動的な盲目的な逃亡的生活と設定するような告白小説家」。このような作家を、首肯することが出来ないと言う。勿論前者が技術性、後者は倫理性(ここでは括弧つきのリアリズムとでも言おうか)だけを、追い求めて他方を切り捨てた例として挙げている。(私が思うに、彼は前者の象徴を新感覚派、後者の象徴を太宰治等にみたに違いない)
そこで彼は、一見相対しているようにも見える「芸術作品の倫理性と技術性」を本質的に同一のものであるということの証明を試みる。
まず物語の構造は、「芸術的感興を呼ぶための手段の一部」と考える。そして、その中に、作者が社会で日頃感じる雑多な感情(喜びや悲しみ)を、具合よく配置して、作者が表現しようとする感興を作り出す。社会に対して持つ作者の感情には、「倫理性」が、それらを物語構造に、自然と違和感のないように組み込む作業には、「技術性」が、介入しているのである。
絵画の場合についても同様の論理。文学作品における物語構造は絵の描く対象(例えば木、石)であり、画布に描く際に、倫理や技術の介入が行われる。絵画の場合、その作業が複雑なので、伊藤の言葉を借りたい。
「作者は自己の生活から得た所の、また自己の性格の持っている、心的傾向や思想に照応するものとして、色と線のリズムや破調や調和や平衡感を見出し、それ等のものを画布に表現し、それによって芸術としての観光を作り出す。」
なかなかおもしろい論だと思う。ここでヒントをもらった「芸の技術と倫理」は「小説の認識(岩波文庫)」に収録されている。伊藤は、近代文学の整理において、非常に大きな功績を遺したと思う。明治、大正、昭和の小説を読む方などには、「小説の方法」(小説の認識の前編)「小説の認識」を勧める。文壇内の事情や、文学の果たす役割、文学から見えてくる社会の秩序、またそれとの人間の関係等々に、新たな知識を与えてくれるだろう。
さて、東山魁夷のことだが、彼は先程説いた、感じたこと(倫理の介入)から、芸術への移転(技術の介入)が、極めてスムーズに行われているのだろう。換言すると、自己の感情を完全に消化し、それをイデア化するということである。その際、具体的に魁夷の風景画に、何が起きているのか。私はそれに、誰もが、故郷を思い、郷愁の念を抱かせる「普遍性」。それと、しかし誰もが思い出せても、それぞれ違った故郷の思い出を、鮮明に呼び起させるという「具体性」。この二つを感じる。何もかも忘れる私も、自然を懐かしむ心は、失っていない。
次に、川端康成の「雪国」についての発見が、時代背景の認識の重要さを教えてくれたので、それについて少し書こうと思う。
私は康成が日本の伝統の美を、はじめから、書きとめようとした作家だと思っていた。実際はそうではなかったのだが、その早計にも理由がある。まず、康成は本因坊秀哉名人の引退後の対局を観戦し、「名人」を書き上げ、自身も碁をたしなんだ。また、彼はお茶にも通じ、その世界を「千羽鶴」に執筆した。前者は良いが、後者の理解は大方間違っていたみたいだ。彼はお茶の通俗化を嘆いて書いたらしい。
若い頃は日本の伝統美に否定的な言葉も残している。しかし、雪国の連載と共に自身の考えも固まっていったようだ。
「私の作品のうちでこの『雪国』は(中略)日本の国の外で日本人に読まれた時に懐郷の情を一入そそるらしいということを戦争中に知った。これは私の自覚を深めた。」
また「天授の子」の中にも
「人工の明かりをまったく失って、私は昔の人が月光に感じたものを思った。(中略)空襲の為の見廻りの私は夜寒の道に立ちどまって、自分のかなしみと日本のかなしみとのとけあうのを感じた。古い日本が私を流れて通った。私は生きなければならないと涙が出た。自分が死ねばほろびる美があるように思った。私の生命は自分一人のものではない。日本の美の伝統のために生きようと考えた。」と書いている。
それともう一つ、あの有名な「雪国」の中に、私の気を引く場面がある。それは、葉子が声を発する時である。と言うのも、その後に、しばしば「悲しいほど美しい声だった。何処かから木魂して来そうだった。」のような葉子の声の形容が、続くからである。そう葉子の声が「悲しいほど美しい」のである。やはり「悲しみ」と「美しさ」は同時に感じることが出来るのである。
古典の授業で教わったが、元来「かなし」は、「愛し」と「悲し」の両方の字をあてた。同音語であるため、使用頻度の多い「悲し」が、現代語に「悲しい」と残ったのではないか。前述したように、日本語の「悲しみ」は、そんなに悪い意味ではない。
そのようなことで、芸術品、殊に悲しみを覚えるものを、命の糧にして生きて行きたいと思う。