皆さんは、十六、十七、十八年生きてきた。その中で誰しも、一度や二度は恋をしたことがあるだろう。今まさに恋盛りだという人もいるかもしれない。「恋」は老若男女を問わない関心事である。おじさんやおばさんがそういう話を聞くと、「青春だな」とにやりと笑うし、また学生同士は「恋の話」を「コイバナ」と省略してそれを楽しんでいるのをよく聞く。筆者は初恋の時に「恋」という言葉を国語辞典で引いたことがある。何を考えて引いたかは記憶にないが、とにかくあの時の辞書が『新明解』でよかったと思う。他の辞書でその後引く機会があったけれども、独自の一歩踏み込んだ解釈で知られる『新明解』に比べると、どれもそっけなかった。
〈【恋】特定の異性に深い感情を抱き、その存在を身近に感じられるときは、他のすべてを犠牲にしても惜しくないほどの満足感・充足感に酔って心が昂揚する一方、破局を恐れての不安と焦燥に駆られる心的状態。「恋は思案の外(=恋する人の気持ちや行動は常識や理性では割り切れないものだ)」〉
ところで本題に入ろう。筆を起こしたのは、「恋」の英訳について大変興味深い意見を聞いたからである。皆さんはどう訳すだろうか。普通に考えると「love」だろう。しかし筆者が面白いと思ったのは「miss」だった。だから、「君に恋してる」というのは、「I love you」ではなくて、「I miss you」だという。これを見たとき、「しめた」と思った。筆者が想像していた観念とかなり合致していたからだ。今まで恋が成就したことのない筆者だけの思い込みだと思っていたものが、社会的な共感を得た気がした。今から自分なりに「I miss you」という「恋」の心情を解釈してみたいと思う。
まずは明確なものからしよう。恋が成就しないときは、「いなくて寂しい」の「miss」がぴったりだろう。次に恋が成就した時を考えよう。その場合でも、一日中相手と過ごすわけにはいけない。だから相手がいないときに「会いたいな、寂しいな」と感じるのは「miss」の意味にぴったりだ。
しかし問題は、相手が目の前にいるときに、「君がいなくて寂しい」「I miss you」というときだ。普通に考えるとおかしい。これを言われた彼女は「いや私おるよ。何言うとん。」なんて口にしそうだ。でもこの場合も、「I miss you」で事が済むと思う。相手と離れる間際になって、別れを惜しむ気持ちが生じるのは問題にならないだろう。また幸せの絶頂にいるときでさえも、それでは飽き足らず、何か物足りないものがあるようだ。それはこの幸せの永遠性の保証である。つまり幸せの絶頂のときにも、「これがいつまで続くのか」という不安があり、それ故人々は「幸せすぎて怖い」なんていうことを口にする。この感覚はまさに先ほど引用した「破局を恐れての不安と焦燥に駆られる心的状態」に他ならないだろう。
それにしても、「恋」という語は不思議な語だ。「恋をする、恋をしている」という言葉については、今述べてきたように「miss」に近いものがありそうだ。それに相手(恋人)の有無は問題になりそうにない。一方で「恋しい」という言葉の場合は、相手がいないことに限定される。また「恋愛」が「恋」と同じように使われることがあるが、これらはそもそも別のもので、重なる場合も「恋」が「恋愛」の領域を指し示しているだけで、「恋愛」の語義は二人の関係が成就していることを前提に一貫していると思う。「恋愛」については広辞苑の単に愛する「loveの訳語」という説明がしっくりくる。現在では「恋をしている」とその恋が成就している状態で言っても、おかしくはない。しかし、筆者には「恋」は「恋しい」にもあるように本来は、相手がいないのを嘆き、相手の存在を切望する意味を示しているように思われる。(しかし、これは現代語の「恋」が「恋愛」を指す用法を軽視しているのではなく、「恋」という言葉の本質をできるだけ発生当時の意味でとらえようとする一種の試みである。現代語の「恋」については後述する。)
このことについて、昨年亡くなられた民俗学者の谷川健一さんは、自身の著書『うたと日本人』で、興味深いことを言っている。谷川さんは、万葉集の歌の分類についての基本的な雑歌、相聞(男女間の恋情を歌う歌)、挽歌(招魂・鎮魂)の三つに言及した後、
〈これを見ると、挽歌も相聞も生と死の感情の頂点にある歌であるということができる。しかも古代人は生から死への移行に当たって、死後しばらくは復活する可能性があると信じており、その期間にある死者の魂を呼び戻すことは挽歌の重要な役目であった。いわゆる「魂乞い」の歌であるが、それは死者の魂を乞うだけでなく、男女が相手の魂を自分に引き寄せたいと念願する場合にも適用される。(略)恋の原義は「乞い」であった。〉
と言っている。すなわちそれによると、やはり「恋」は「恋愛」とは異なり、不在の相手を恋しく思うほうが本来の意味だろう。
しかしそれが本義だとしても、現代の国語辞典(広辞苑:一緒に生活できない人や亡くなった人に強く惹かれて、切なく思うこと。また、そのこころ。特に男女間の思慕の情。恋情。恋愛)はおろか、古語辞典(旺文社:目の前にいない人や事物を慕わしく思うこと。また、恋愛。)にさえも「恋」の語の説明に、いくら肩を狭めていても「恋愛」という文字がほとんど必ず入っている事実が、筆者には不思議に思われてならない。それにはやはり深い意味があるように思う。「恋愛」という言葉は相思相愛が成り立っている場合にのみ使う。しかし、その幸せの絶頂にあっても、「恋」と使うのは、相手の存在を気にする思考が働いているためで、「ひょっとすると相手が離れてしまうのではないか」という危惧で、寂しくなるからかもしれない。
「恋」という感情は言ってしまえば、「love」ということだ。しかし、これは二重否定の漢文をそっけなく肯定で訳すと、元のニュアンスが出ず意味が薄くなってしまうのと同様にやってはいけないことだ。今の説明に疑問を抱く人は多いだろう。意味が同じなら良しとする人だ。しかし、「恋」という語には、慕っている相手の現在または未来においての不在を嘆く意味が込められており、単に「love」というだけでは収まらないものがある。また「love」という言葉の後に「君を失いそうで怖い」のようなことを直接くどくど付け足してみても、一フレーズの「恋してる」と言った直後の感慨はもうすでに消滅している。
「love」とは異なった「miss」の意を含んだ言葉―恋―。こういう「破局を恐れての不安と焦燥に駆られる心的状態」を持つ言葉が、日本人の男女間の付き合いをはかない泡沫のように(そしてそれ故美しい)ギリギリの状態で保たせていることを思うと、妙にほほえましく思ってしまう。