嘆息の詞二

 

同名一を読んだ方は、分かられたと思うが、「嘆息の詞」とは「あはれ」というものである。一と二で分けたのは、エッセーを長々と書くと、とんでもなく寄り道をしてしまって、本題に戻って来られなくなるのを恐れたためである。だから、原稿用紙五から十枚をめどに書こうと思っている。

 

さて、文化祭の時に配った部誌の中に拙作の「美について」というものがあった。その内容は、非常に感覚的なもので、文章にするのもためらわれたほどだったので、何を書いたかはっきりは思い出せないが、美しい感情と悲しい感情には、何か深い感情があるのではないか、ということだったと思う。そのことについて新しい発見があったので、今から書きたいと思う。方法は前回に引き続き、本居宣長の思想から考察を進め、悲しい感情をすぐには美しい感情とはつなげず、「もののあはれ」の方面から、安心する感情へと話を進め、それが深い感情であることを確認する。そうすると、悲しい感情は自ずと美しい感情の範疇に入ってくるのではないかということを、今から証明してみたい。

 

一の話に少し戻るが、宣長によると、良いことも悪いことも世の中のことはすべて、神に支配されてなされることだった。だから、人間はその秩序に、道徳などという人為によるもので抵抗してはならなかった。徳という抵抗を持つから、「悪いことは、してはならない」などという我慢などの人間にとってあまり心地の良いものではないことが起こってしまう。(しかし、宣長はそれ自体も、神に抵抗しているのではなく、悪い神がさせているという、いずれにせよ、神の定める秩序からは出ることができないと説いた。)つまり、悲しむべきことを悲しまず、「悲しむまじき道理を考え、悲しまぬ体をみせる」ことは、「人情に背き、まことの道理にかなはぬこと」であった。だから「神に身を任せる」ということは神から与えられた「もののあはれ(個人の感情ではなく、ものに触れて感じるそれぞれのものにはじめから内在する特定の感情。例えば、花が美しいなと思うのではなく、神の秩序に従った「花の美しさ」を認識するということ)をそのまま享受するということである。つまり、悲しく思うべきもの(もののあはれ)には、悲しい感情を素直にもち、うれしく思うべき(もののあはれ)には、そのままうれしい感情を持つということ。それ故、不幸なことに遭遇したとしても、自分は神の秩序の中にあるんだという安心感から、変に悶える必要もない。それを享受した時の嘆息、「ああ」「はれ」―「あはれ」―を人為に富んだ道徳によって、悲しまないようにしようとする姿と比べて、どう思うかは皆さん次第だ。

 

僕の説明も大体終わりだが、明らかであるようなことを一つだけ、ダメ押しのつもりで話そう。それは、僕がなぜ悲しみの感情が、幸福の感情よりも一層美しいと見るかだ。うれしく思うべきもの(もののあはれ)をうれしく思うのはたやすいだろう。したがって、深い感情になりはしない。しかし、悲しいと思うべきもの(もののあはれ)を悲しいと思うのは、難しいことだ。人はつい、道徳というもので悲しく思わないように努力してしまう。よほど、神に身を任せる覚悟がない限り、悲しみをそのまま享受することはできないだろう。したがって、悲しみを享受したとき、その感情は覚悟がしっかりしている分、深く感じられるだろう。言い換えれば、悲しみに浸れるという事実は、神とは言わないまでも絶対的なものに守られているという安心感故に成り立っているのだ。

 

例を挙げると、芥川龍之介の小説に「トロッコ」というものがあるが、あのような暗い夜道を一人で家に向かうという経験は、誰にでもあるだろう。暗い夜道が怖いのに、そこでは泣けず、家に帰ってきて家族に抱かれると、急に涙が出てきてしまう。そんなものだろう。

 

今まで言ってきたことを言い換えると、神や絶対的な存在に、身を任せることは「甘え」だとも思う。僕はこの「甘え」というものが、何か尊く心惹かれるものに思われる。

 

僕に「甘え」というものを大変美しいものに思わせたのは、川端康成だった。僕は康成のことを非常に「甘え」を持った作家だと認めているし、康成の最大の魅力の一つもそれだと思っている。「甘え」の作家、川端康成を紹介したい。

 

康成の作品には、彼の生い立ちが多分に影響していると思うので、まずはその部分から触れよう。康成は年少の時に両親を亡くし、親の記憶はほとんどない。その後も、身内と次々に別れ、遂に十代半ばで祖父を亡くし、肉親がこの世にいなくなってしまう。父が亡くなる前に康成に送った書を、美術館で拝見したことがあるが、それは悲しいほど壮絶だった。「要忍耐」。深く重厚な筆づかいでそう書かれていた。「要忍耐」。おいていく父親は残された乳児にどんな思いで書いたのだろう。康成はそれをどう見ていたのだろう。想像を絶する。

 

そのような少年時代を過ごし、やがて一高に入学する。その頃、婚約の成立した人が、急に姿を消してしまう。この直後、伊豆への旅に出かける。この時の踊り子との出会いを美化して書いたものが「伊豆の踊子」である。彼の孤独は、どのような思いだったかはわからないが、それが癒されたのは本当だろう。次に本文を引用する。踊子と別れて、船に乗り込んだ最後の場面である。

 

 

 

海はいつの間に暮れたのかも知らずにいたが、網代や熱海には灯があった。肌が寒く腹が空いた。少年が竹の皮包を開いてくれた。私がそれが人の物であることを忘れたかのように海苔巻のすしなぞを食った。そして、少年の学生マントの中にもぐり込んだ。私はどんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるような美しい空虚な気持だった。明日の朝早く婆さんを上野駅へ連れて行って水戸まで切符を買ってやるのも、至極あたりまえのことだと思っていた。何もかもが一つに溶け合って感じられた。

 

船室の洋燈が消えてしまった。船には積んだ生魚と潮の匂いが強くなった。真暗ななかで少年の体温に温まりながら、私は涙を出委せにしていた。頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった。

 

 

 

読者の中に、「伊豆の踊子」を読んだことのある方がどれくらいおられるかは、分からないが、康成の作品の中では、もっとも有名なもののひとつである。

 

何もかもが一つに溶け合うように感じた「私」には、道理は通用しない。というのも、どんなに親切にされても、気を遣うことは考えられなかったからで、隣に座った少年のものを食べたり、布団に入ることを躊躇しなかった。そして、自分も親切にすることを厭わなかった。

 

この作品には、道理を超えた安心がある。失恋後にこれを読み返して、ぽろぽろと涙したり、理屈にこだわってなぜか人とうまくいかない、そういう人がこれを読んでハッとしたりする。いろいろな人々が各々の境遇に重ね合わせて、共感する。この作品が、多くの人に読まれる所以であろう。

 

さて先ほど、本居宣長は安心の成立条件として、神への帰依を挙げた。(つまり、神の秩序に従って生きることこそが安心をもたらすのだということ)では康成の場合はどうであったか。宣長と同様、神のような絶対的な存在には違いないが、今からもう少し具体的に考察を与えたい。

 

カギとなるのは、「一つに溶け合う」という安心感が、どのようにもたらされるのか、ということだ。(康成の場合、安心というものを「溶け合う」とか「調和する」という表現で表す傾向がある)僕の推測だが、血のつながった家族に早くから離れたことによって、心置きなく話せる相手というものがいなかったのではないかと思う。(決して論拠のない推測ではない。「骨拾い」の中で、祖父が亡くなったとき、周りと自分の決して交わることのないような違いに気付いたというようなことを言っている。)それ故、意識せずとも他人との隔たりがどこかであり、分け隔てなく関われる存在への憧憬の念があったのだろう。それが、「溶け合う」「調和する」などの表現が出てきたと考えるのも、詭弁ではあるまい。

 

もう一つ大切なのは、康成にそういう思考を生じさせたのは、仏教の影響が強いということだ。仏教思想の中でも、文芸評論家などは「輪廻転生」を取り上げている。でも康成の思想とそれは少し違う。康成は、それを「ありがたい抒情詩のけがれ(抒情歌)」と言って、そこから発想を転換させて、全てが同じ「万物一如」であると見ている。

 

その思想の最たるものが、「犠牲の花嫁」である。でもこれは、あまり知られていない。(現在僕の知っている限りでは、どこの出版社からも、これは発行されておらず、僕は中央図書館に全集を借りに行かなければならなかった。こういう作品こそ、文庫にしてほしいと思う。康成に顕著なのは、新感覚派の珠玉の短編小説群がことごとく廃刊の一途を辿っているということだ。同時代に活躍した新感覚派の旗手横光利一の文庫は、岩波、新潮、講談社文芸文庫でほんの数冊だ。戦争に加担したことで、戦後元気をなくした人の一人らしい。しかし、現在、研究の分野で見直されているらしいが、文庫で復刊するのはいつのことになるのやら、ならぬやら…。本当に世の中がわからぬ!いい加減括弧が長いからもう切る。)ある日、主人公が許せない人のことを、村で最も美しい娘に相談しに行く。そこでその娘は、「星も、かたつむりも、鼠も、露草の花も、小石もこの世界にありとあらゆるものの間に、優り劣りなぞないと思って居りました。この世は一つのものでございます。万物が犠牲になり合って形作っている一つのものでございます。ですもの、何かの犠牲になって死んでも、ほんとは死ぬのではございません。」と言っている。つまり犠牲の精神、自己に執着しないことで、自分よりもっと大きなもの―世界―に同一になれるのである。ここから、康成が考える安心の成立条件は「犠牲の精神」だったのではないかと思う。

 

また「岩に菊」では、「この世界に花が咲き、岩がそびえているならば、私の墓などつくるに及ばない。この天地自然のすべても、故郷の女の話も、みな私の墓のようなものであろう。」と言っている。

 

「死んだって平気」とか、「私の墓」とかいうものは、康成の生い立ちが死に近かったからであろう。家族のことを思うには、「思い出す」という方法しかなかった。つまり、家族のことを思うときは、必ず死の隣に居合わせねばならなかった。「死ぬ」ってどういうことだろう。近しい人が死ぬまで、僕は人の死について考えたことはなかった。またそれからも、その人のことを思い出すとき以外に、死について考えることはない。(考えたとしても、興味本位で浅はかなことだ)

 

惜しみのない犠牲、奉仕の精神を尊重していることは、あの「雪国」にも出てくる「美しい徒労」という表現からも、分かることと思う。

 

なお、康成のこういう思想が十分に滲み出ている作品に、もう一つ「美しい日本の私」を挙げたい。これは作品というか、ノーベル文学賞を授与された時のスピーチであるが、活字となった今では、作品同様である。(講談社文芸文庫「一草一花」に収録)その中で僧良寛の辞世をとりあげている。

 

 

 

形見とて何かの残さん春は花夏ほととぎす秋はもみじ葉

 

 

 

康成は「犠牲の精神」を大切にして、安心を求めてきた作家だったのではないか、ということを、本居宣長と対比させて、述べてきた。

 

実生活でも、康成は思いやり、犠牲の精神を大切にしていたらしい。「十六歳の日記」には、盲目の祖父を介護した話が書かれている。それは、康成が「原稿用紙百枚書くと祖父が救われる」ような気がして書いたものであった。やはり世話は大変で、夜中に何度も起こされては排尿の手伝いをしたりしていたから、正直嫌だったこともあるらしい。その上そういったことが何の飾り気もなく、訛りのきつい表現で書かれているから、変に現実味を帯びてくる。また少年時代だけでなく、晩年に、他の作家を惜しみなく世話をしたことなどのエピソードも多い。

 

今まで見てきた本居宣長の神道論にしろ、川端康成にしても、絶対的な安心の中で「何もしない」「あるがまま」「甘え切る」というような姿勢だった。そのような思想と対比させると、現代は「意志」「人為」の時代だろう。そして、まさに現代を生きている私たちがこれらの思想を見るとき、「何もしない」「あるがまま」「甘え切る」というものを頭から首肯することは、難しいだろう。

 

しかし、人間が人為を尽くして行った成果がどれほどのことであったか。「道理」「理屈」名の下に「同情」「共感」が肩を狭めることを余儀なくされている。神から離れて、人間はどこまで行くのだろう。今の社会を見ていて、そうつくづく思う。志賀直哉がこんなことを言っていた。人間は思想とか科学とかを持った一番賢い動物だが、結局は一番バカだった、というふうにならないか。そういうものが、「マンモスの牙」にはならないか。というようなことであった。

 

以上、以前から考えてきた「悲しい感情」について、新しい意見を発する準備が整ったので、それを本論として書いた。

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