ほんのりと赤い素肌を隠しつつ、なびくウェアを追いかける

 

「ユメ、誰のことが好きなのー?」

 

「教えなさいよー」

 

春江と梨夏が詰め寄る。

 

「こんな電車のなかで言えるわけないよー」

 

「言えるわけないってことは、やっぱりいるんだ。早く教えてよ。」

 

梨夏がさらに追い詰め、ユメは顔が赤くなる。

 

「もしかして、ユメも憲先輩のことが好きなの?先輩だったらやめといた方がいいよ。だって先輩、陸上部はもちろん、学校中でも人気できっと敵が多いから。」

 

「勝手に憲先輩って決めつけないでよね。」

 

「じゃあ、誰が好きなの?」

 

ユメは、返答に困った。

 

「それは・・・」

 

「もうやめてあげようよ。ユメを追い詰めるのは。ここ電車だし、ユメ困っちゃったし。」

 

ユメを助けたのは心だった。心は明るく、誰とでも分け隔てなく接することができて皆にすかれていた。また、行動力があり、物事をはっきりと言えることができて、それは、ユメが心に憧れている理由の一つであった。

 

「それもそうだね。ごめんね、困らせちゃって。」

 

「私もごめんなさい。」

 

そうして、三人は途中の駅で降りてユメは電車に残った。三人が降りた駅は降りる人が多かったので空席ができた。ユメは安堵の表情を浮かべながらその一つに腰を下ろす。電車がスムーズに走り出し、目の前に広がる大きな窓に太陽に照らされた風景画を描きだした。

 

――私は何考えてるんだろう?

 

ユメは、熱くなったその体を冷ますのに必死だ。誰かに見られてたら恥ずかしい、そう思い、隠すのに精一杯だった。確かに先輩はみんなから人気で好かれている。誰かが先輩のことが好きでもおかしくない。もしかしたら、もう誰かが告白しているかもしれない。そう思うと心が苦しかった。しかし、同時に諦めの念が湧いてきた。もう考えるのはよそう、みっともない。ユメはその潤んだ瞼を閉じにかかった。

 

その瞼を開いたのは三人が降りた駅のいくつか後だった。ドアが開いてこの時期しか味わえないしびれるような冷たい風が入ってきたからだ。その風と一緒に一人の老人がはいってきた。その老人はゆっくりと辺りを見渡し、やがてユメの近くに立った。いつの間にか電車は、冷めきったその体を縮め震えている人でたくさんだった。ユメは老人に席を譲ろうと席を立とうとした。が、立てなかった。どうしても立つことができなかった。そのかわりにユメの隣に座っていた女性が席を譲った。

 

「まただ・・・」

 

席を代わろうとしたら、まだそんな年じゃないって怒られないかな?

 

席を代わっても、周りにいい人に思われたいから譲ったんじゃないかって思われないかな?

 

そんな疑念が頭によぎって体が動かなくなる。目をそらしてしまう。知らんぷりしてしまう。ユメは人の目を気にしすぎてしまうのだ。だから善意の心を持っていても、それを行動におこすことができず、体が固まってしまう。ユメはそんな自分の性格を毛嫌いしていたが、直すことができなかった、いや、直すことさえ諦めていたのかもしれない。結局、先輩のことも行動をおこせずじまいなんだろう、最終的にそう感じ始めていた。先ほどまで風景画を描いていた電車は、すでにトンネルの中に入っていた。

 

 

 

 

 

翌日、いつものようにユメは放課後グラウンドで体を動かしていた。ユメは陸上部でレギュラーだ。練習前はウォーミングアップのためトラックを軽く走っていた。しかし今日は違う。何かが違う。

 

いつも校舎のほうから聞こえてくる吹奏楽部の演奏も、いつも肌で感じる身に染みるような寒さも、さらにはいつも見ている景色でさえも違うように見えた。だが、ユメにはその原因がわかっていた。陸上部恒例、一〇〇〇〇メートルだ。このレースは、ユメの陸上部、全員が一斉に走る重要なレースだった。このレースは大会に向けての選手選考に大きく関わってくる。それだけに、仲間たちからも並々ならぬ緊張感がひしひしと伝わってくる。ユメも自分の体が自分の体ではないように感じていた。

 

「あれ?緊張してる?そんな緊張していたらユメを追い抜いてレギュラーを取っちゃうよ!」

 

心が話しかけてきた。心は緊張していないように見えた、というよりむしろ、仲間の緊張を和らげようとしているように見えた。いつも仲間のことを思い、第一に考える心らしいふるまいであった。

 

「絶対今度も負けないからね!」

 

ユメはそう言い放つと心をにらみつけた。しかし、やがてユメがにっこりと笑うと、心も微笑みかえした。

 

心のおかげでいくぶん緊張は和らいだが、まだ体がかたかった。しかし、とうとうスタートの時間がやってきた。ユメはそのままスタートラインに立つ。仲間のみんながいまか、いまかとスタートの合図である号砲を待ち、耳をすます。その静けさが不気味な感じで怖い。今にも飲み込まれそうに感じる。ユメはそれに立ち向かうかのように足下の砂を踏みしめ、ピストルがスタートを告げるであろう、その時を静かに待つ。

 

〝バンッ〟

 

不気味な静けさをそのズシンと重みのある鈍った音が切り裂いた。それまでおとなしかったみんなが、嘘のように元気に走り出した。ユメも負けじとついていく。今日は風がいつも以上に強く、冷たかった。グラウンドの端にある木々も葉を落としてゆく。最初の一周がとても寒かった。

 

ふと、ユメは前にすらりと背の高い憲先輩をみつけた。先輩は一年のときからレギュラーで、もちろん他を寄せ付けず、今では陸上部のエースであった。そんな先輩の走りは力強く、それでいてどこか、しなやかであった。ユメは自然とペースがあがった。まるで先輩を追いかけるように。ユメにとって先輩の背中が頼もしく感じたのかもしれない。ユメは不思議と体が軽かった。永遠と走れるような感じさえした。今日のユメにとって先輩についていくことはそう難しくはなかった。

 

ユメは先輩にぴたりとくっつき、少しも離れることのないまま終盤をむかえていた。ユメは先輩以外に視界に入らなかった。先輩にだけユメの視線が注がれていたのだ。しかし、そんな熱い視線を遮り、追い抜いていくものが現れた。心だった。その瞬間、ユメは全身の力が抜けていくような感覚に襲われた。みるみるペースが落ちていく。挽回しようと力を振り絞るが、うまく力が入らない。先輩と心はどんどんとユメを突き放してゆく。結局、心に抜かされたままレースを終えた。

 

ユメはその場に倒れこんだ。空が青くとても美しかった。ユメはなぜか嬉しかった。悔しさはなく、爽快感がユメにはあった。先輩に少しついていけたし、心には鮮やかにぬかされたし、なにより抜かされるのが心でよかった。ユメがそう感じていると、先輩が近寄ってきてユメに声をかけた。

 

「とても速くて驚いたよ。成長したな。」

 

この言葉はユメのほんのりと赤かった頬を一層赤らめた。

 

 

 

 

 

ユメは陸上部の仲間たちと帰りの電車を待っていた。恒例の行事のあとはみんなで帰ることになっている。先ほど、ユメを突き放した先輩と心もいる。ホームに入ってきた電車に乗り込むとユメたちは座席の一角に陣取った。座るやいなや、冬実が口を開く。

 

「それにしても、心とユメは速かったね。だって憲先輩についていっちゃうもん!私なんかスタートしてすぐに置いていかれちゃったし・・・」

 

「そうだねー、二人を抜かすのはもう無理違う?」

 

梨夏が賛同すると二人は照れた。

 

「私が二人を抜かして見せるわ!練習さえ参加すれば、二人を抜くなんて楽勝だったのに。」

 

春江が大口を叩いた。

 

「練習をサボってたからやろっ!」

 

すかさず、愁花がつっこむ。

 

電車がトンネルに入り、車内が一層明るく感じた。みんなあれこれと言いつつ盛り上がっていると、途中の駅で一人の老人が乗ってきた。この時間帯は乗客が多く、老人はそのまま立ち尽くしていた。ユメはその老人を見つけると、席を譲ろうとした。が、立てなかった。また、立つことができなかった。

 

――みんなは話に盛り上がっていて、誰も気づいていない。どうしよう?また、いらないことばかり考えてる。このままだと自分は一生変われないかもしれない。このままだと認めてもらえないかもしれない。先輩にせっかく「成長したな。」って言われたのに。私自身がそれを証明しなくちゃならないのに。成長した私ならできる。絶対できる。ほんのちょっとの勇気で見える景色は変わるんだ!

 

「この席・・・座りますか?・・・どうぞ」

 

ユメのその振り絞った声は震えていた。ただ、その声はまっすぐでやさしい声だった。立ったユメは体が熱くなり、冷ますのに必死だった。どこかを動かしていないと落ち着いていられなかった。しかし、ユメの心の中には確かに今まで感じたことがないようにスッキリとし、晴れ晴れしていた。ふと、先輩の方を振り返ると、にっこりと笑い、

 

「偉いな。」

 

ユメは思わず笑みがこぼれた。たった一言だったが、ユメにとってはとても大きいものだった。

 

電車はトンネルを抜け、窓に光り輝く家々を映し出した。いまだ、車内はみんなで盛り上がっていた。ユメは胸の重しが取り除かれたようで、みんなとの会話がとても弾んだ。やがて先輩が降りる駅に近づくと、なぜか心が降りる準備をし始めた。それに気づいた愁花が尋ねる。

 

「心、次の駅で降りるの?」

 

「う、うん・・・買うものがあるから、少し。」

 

「そうなんだ。じゃ、また明日―。」

 

ユメたちは降りていく先輩と心の二人に手を振った。扉が閉まると電車が駅を離れ始め、二人の姿が見えなくなっていった。そしてまた、トンネルの中に入っていくのだった。

 

 

 

 

 

「はいっ。私、やります!」

 

はきはきとしていて威勢のいい声は、クラス中に響いた。ユメが手を挙げたのは幹事の立候補だった。あれからというのも、ユメは何事も恐れず、積極的になり、さらに活発になっていて以前と比べると見違えるほどだった。部活の方では、徐々にタイムを伸ばしていきライバルである心と競い合っていた。二人は共に選手に選ばれ、互いに切磋琢磨していた。実力は伯仲しており、日によって勝ち負けが変わっていた。

 

そんなある日の部活終わりのことだった。片づけも終わり、帰る準備をしていた。選手だけ居残り練習だったため、ユメと心のふたりしかいなかった。ユメは毎日がとても充実していた。少しも恥ずかしがらず人前で行動することができ、以前の生活より楽しいものだったからだ。ただ、そんなユメにも一つだけ心残りがあった。それは、先輩のことだった。先輩は私のことどう思っているんだろう?この想いを先輩に伝えるべきだろうか?このことだけが、胸の奥に引っかかっていて嫌だった。先輩のことになるとどうしても内気な考えにはしってしまう。親友である心に相談すれば解決できるかなと思ったが、やはり言い出せなかった。だが、解決したいという気持ちがとても強かった。そんな気持ちがつい先走ってしまった。

 

「憲先輩って・・・やさしいよね・・・?」

 

「え、えっ?」

 

しまったとユメは思ったが、もう引き下がれなかった。

 

「やさしい・・・よね?・・・ほら・・・練習中にいろいろ思っていることを私たちに伝えてくれてさ・・・。やっぱり、相手に自分の想いを伝えることって大事なのかな?」

 

「――大事だと思うよ。人って相手の思っていることなんてわからないし、相手だって自分が何を思っているのか知りたいだろうし。お互いに想いを伝え合うことが本当の意味でわかりあえてるって感じがする。だから、想いを伝えなきゃ何も始まらないよ。」

 

最初は戸惑っていた心だったが、言葉を進めていくうちに自信を持ち、ユメに言い聞かせているように、そして自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。そんな真っ直ぐな言葉は受け取ったユメの背中を温かく押した。

 

「先輩はまだ、学校に残っているかもしれない!」

二人はすでに、学校から出ようと校門の方へ歩き出していたが、急にユメが立ち止まった。心もそれに気づいて立ち止まる。そして、互いの顔を見合った。一人は笑みを浮かべて、もう一人は動揺の色を浮かべて。やがて、一人は来た道を走り出し、もう一人は校門の方へ歩き出した。歩いた先には、すらりと背の高い影が待っていた。

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