あれから何年の月日が経ったのだろう。
男は、その疑問をいつも頭の片隅においていた、あの行いを開かれることのないだろう記憶の扉にしまいながら。もう思い出したくなかったのかもしれない。忘れようとしていたのかもしれない。はたまた、思い出す勇気がなかったのかもしれない。いずれにしろ、その記憶に対して無意識に目をそむけていたのだ。たとえ、その記憶を呼び起こさせる大きな大きな欠片が目の前にあったとしても。別にその疑問の答えを知りたいわけではなかった。知ろうと思えば簡単に調べられるし、知ったところでなにもならない。だから、気にも留めなかった。しかし、心のどこかにもやもやしたものを抱えながら、男は子供と生活していた。
ある日、男は朝を迎えた。空は、重い灰色の雲に覆われて今にも雨が降りそうだった。いつものように顔を洗い、朝食の準備をした。ちょうど作り終えたところに正人が起きてきた。テレビのニュース番組を見ながら一緒に朝食を食べる。外は雨が少し降ってきて窓にぽつぽつと当たっていた。正人はテレビに夢中になっていたのか、ひじの近くにあったコップを倒してしまい中身がこぼれてしまった。男は、冷静に叱ることもなく何も言わずに布巾で拭いていた。その時、ふとテレビからニュースが流れてきた。
「続いてのニュースです。十年前におきた世田谷区夫婦殺人事件で殺された夫婦二人の遺族らが、事件の情報提供を街頭でよびかけました。この事件は、いまだ犯人が捕まっておらず、また、夫婦の子供であった当時生後八ヵ月の赤ちゃんも行方不明のままです。十年経過したにもかかわらず、何の進展もなく状況を少しでも打開しようと行動を起こしたそうです。」
男は、聞いた途端に表情がこわばり、拭いていた手を止めテレビをじっと凝視した。正人は下を向きしょんぼりしていた。
「ごめんなさい――」
「お前が謝ってどうする。」
男は語勢を強めて言った。
ニュースが終わったあともずっとあの事件が頭から離れない。というより、それ以外考えられなくなってしまったのだ。心の奥底にしまいこんだはずの憎しみ、高揚感、そして後悔、あの時の高ぶった気持ちがじわじわと体じゅうに伝わり、蘇ってきた。さらには鳥肌が立ち始め、震えが止まらず顔が青ざめていった。男は何かに気を取られたようなまま、正人を送り出した。外はすでに大雨であった。
男が虚を突かれたのは言うまでもなく、完全に動揺が表に出ていた。なにしろ、一気に様々な感情に襲われたのだ。驚き、罪悪感、不安、恐怖、絶望などが複雑に入り混じってどっと押し寄せてくる感じで全く味わったことがなかった。また、十年という年月が過ぎたことがわかったのも男にとっては計り知れないほどの害があったに違いない。忘れたい一心でいつも思い浮かぶ疑問を考えることを避けてきたのに、唐突に最も知りたくなかった答えを突き付けられたからだ。男は送り出したあと、そのまま玄関に座り込み少し放心状態になっていたが、時間が経ち雨の止み始めた頃には、いくらか正気を取り戻し、自然とあの事件を思い出していた。
「ただいまー」
この声であの憎んでも憎みきれない過去の回想から目覚めた。そして、目の前には学校から帰ってきて無邪気に笑う正人の姿があった。その瞬間、男は純白で清らかな何かが体のなかを通っていくような感覚に襲われた。なぜだろう。こんな感覚に襲われることなど、ただの一度もなかったのだ。もちろん、正人の笑顔は何度も見たことはあるが、今日のようなことはなかった。正人を意識しすぎたのかもしれない。確かに、正人を代わりに育てることで許されるはずのないものを、少しでも許してもらおうとした。事件のことを否が応でも思い出させる正人を身近において共に生活をした。そして、これを一種の償いとし、自ら重荷を背負わした。だが、自分で自分を追い込んだにもかかわらず、二人の過去のことに対しても未来のことに対しても真剣に向き合わず逃げてきたのだ。ここで、ふと、ある疑問がでてくる。
「正しい人生を歩んでいるのだろうか」
この問いの答えを今まさに正人が示し、どうするかはお前しだいだ、と言われているような気がする。
男は立ち上がると、すぐさま荷物の整理を始めた。ずいぶん体が軽かった。何かが剥がれ落ちて吹っ切れた感じだった。外はもう、先ほどまで雨が降っていたのが嘘のような雲一つない青空であった。
翌朝、男はいつもと同じ時間に起き、いつも通り顔を洗い朝食の準備をした。いつも通りテレビをつけ、正人と朝食を食べた。そして、いつも通り正人を送り出した。送り出したあと、男はしばらく立ち止まっていたが、歩き出すと電話のほうへ向かった。電話をかけ終わると、何も持たず玄関の扉を開け、とぼとぼと歩きだしていった。