「…ぅい、たいたいた痛いっ」
薄ぼんやり開いた視界の中でわららのくっきりな笑顔が…というか激痛が、俺の目を覚まさせた。
「おはよーすずきー♪」
わららはのんびり挨拶を口ずさみながら、俺の前髪をにぎり掴んで全力で引っ張っている。このゲームは音声と映像が合っていない。
「やめて、痛っ、抜け…」
「抜けるのっ? よし抜いちゃえ!」
「いや違っ…前髪って、抜けると死ぬんだ」
「へ!そーなの?」
「そうだ、髪は…髪は命だ」
「ふーん。じゃあ切ろ☆」
「切るのもだめだ切ると死ぬっ…いや、フツーに切るのはセーフなんだけど、その、例えばおでこのマッシュマンが見えるくらい短く切ったら死ぬ、即死ぬ」
「あっじゃあさ、せーはつりょーで髪ふわってしよ。おでこ全開で!」
そう言いながら嬉しそうに液体のりをにぎりしめるわららを全力で阻止し、阻止し切れず、前髪が液体のりの餌食となり、洗面所で流しまくり、髪が濡れたせいで細く束まり、隙間からマッシュマンがちょっと見え、余計面白いことになったまま学校へ向かう羽目になった。
「っびゅあっはははははは! ちょ、マッ…マんチラ、おでぃこったははたとーぅっ、チララんばひゃ、ばあこっほどみて…にすふふき隙っ間から、ち、チラっ見がはー」
頭に裏返しのカッターシャツを引っかけたまま、宮部は教室の床にぶっ倒れた。
「あの、みやべい」
制服のままの和渕が、けいれん爆笑中の宮部を覗き込む。
「うおっ、何だいわっちくん?」
「今日体育休む…あ、先生には言ってるから。でも一応」
「おっけい了解!かんぺき!」
これでも、これでも一応体育委員をやっている宮部は自信満々に答える。
「あれ? でも2組のたいくいーんに言わねーの?」
「いや、もう先グランド行っちゃってて」
「え、早っ! すげーな」
「俺たちが遅いんだよ。ほらあと2分」
「え、やばっ!」
宮部は急にスピードアップし、なぜか着替える前からすでに砂まみれの体操服をかぶる。
「すずき、教室の席どこだっけ?」
無駄にあわあわと着替える宮部の横で、和渕が聞いてきた。
「え、窓際の…えっとこの教室で言うと、そこかな」
誰かの脱ぎ散らかした制服がてんこ盛りになっている机を指差す。
「わかった、ありがと」
「うん」
何でそんなこと聞くのか、あと何で体育休むのかも気になったけど、今はとりあえずグランドまでの階段を死ぬ気でちまちま駆け下りた。
他のチームがコート使ってる間、俺は昨日見つけた買いレス(買い物カートレース2)の隠しルートを和渕に伝授するつもりだった。が、今日は仕方なく真面目にボールで暇つぶししていた。
入口の傍の机でちまちまボタンをつけていたら、突然がらがらっとドアが開いた。
「すずき、制服が消えちゃった!」
わららはぽわっと目を開いて叫ぶ。
「あのね、体操服に着替えて、机の上に積んでたの。でも帰ってきたら無かったの」
「机から落ちてたりとか…」
言いながらそうではないと何となく感じていたけど、
「そーかも! 探してみる~」
わららはまたくるっと一組の方へとんでった。
「誰―?」
割と耳元で宮部が聞く。
「誰って…誰が?」
「さっきの女子」
「え、わららじゃん」
「わららー?」
宮部はアホっぽ…とても不思議そうに斜め上を見て首をかしげる。何がざわざわした予感のまま、すぐ背中側の壁に貼ってある掃除当番表で、わららを探す。
「あ、れ…」
自分でも聞こえないほどの声で呟いた。振り向いて男子まみれの教室を見回す。座席表、委員と係一覧、後ろの黒板の掲示物…目が悪いから壁際まで近づいて、ボタン2つくらい空いたままぱたぱたと見ていく。人の教室を駆け回って、自分と同じ名字を探している。一つがだめなら次もだめだろうに、俺は字という字をたどって、そして分かってしまう。
わららはこの学校に、存在しなかったことになっていた。
6時間目なのに起きていた。しかも体育からの6時間目だ。(わららにいきなり首を絞められた日でさえ俺は大人しく睡魔に従っていたのに)
遅すぎる長い針がやっと「12」の所へ到達したとき、俺はチャイムの中教室から飛び出しかけて、一瞬後にSTと掃除の存在を思い出した。4階の上の踊り場で、体操服姿のままのわららを待たせていた。
「帰ろっか」
やっと終わって、白くて丸い背中に声をかける。振り返ったわららの肩で、三つ編みの束がたゆむ。
「帰るおうちがあるのかな~?」
わららはにやと口角を広げ、童謡みたいに口ずさんだ。
何となく辺りを見回しながら帰宅する。おうち自体は、とりあえず消えずにそこにあった。
「あれ…」
「どーしたの?」
「鍵がない」
かばんのポケットに入っていたひも付き鍵は、ひもごとなくなっていた。…これもワクチンの影響か?
「じゃーさ、すずき困るね~」
「わららも困るんだよ」
それを聞いた二秒後、わららは息で、は!と言って目と口をまるく開けた。
「うーん…裏口から入るか」
「う・ら・ぐ・ち?」
まるく開けたわららの目に、きらきらマークが映る。
「たぶん、あの入れもんに鍵入れてたと思うから」
「すげーえ☆ あの白っぽい箱の上の茶色い袋にこの家の裏口の鍵が入っててそれを使って侵入できるんだね~っ!」
そんな大きな声ではしゃいたら隠している意味ないんだけどな。
家の中はまだちゃんと、わららの住んでいる設定が残っていた。部屋の中の陣地も消えずに残っていたけど、わららは俺の陣地のせまい床に体操服姿のまま座り込んでいる。
「これ、増殖したの?」
「え増殖?」
溜めに溜めた数学プリント×6と格闘している俺の足元で、わららは散らばったゲームカセットたちを触っていた。
「だって急に倍ぐらいに増えてるよ」
「あれ、そうかな。まあ、半分くらいは和渕に借りたり貰ったりしたやつだけど」
「わぶちって誰?」
「…え」
わららは俺のすぐ下から、その目でくりっと見上げている。
「あのー、わっちくんだよ?」
「わっちくん? わっちくん…」
わららは首を、というか上半身ごとゆらゆらかしげている。――本当に和渕のこと、忘れているのか?
「もしかして、ワクチンの何かで、和渕の記憶消されたとか?」
「うーでもあたしの記憶は操作できないんだよ。侵入者だもん☆」
わららは顔の前で両手をクロスして、手の甲で頬をしゃきんとはさむ。(何の決めポーズだろう)
「じゃあ、何で、忘れてんのかな」
「疑うんだったら、すずきの頭だよ。だって許可証で記憶いじっていいよーって書いてるもん」
自分の記憶…疑う、ってったってどうやって疑うんだ。俺はシャーペンを持ったままの手で、額のマッシュマンに指を当てた。
家の中に変化が起きたのは、次の日の朝だった。いつも通りわららに起こされると、天井が高い、というか天井が見えることに気付いた。
「あたしね、上で寝てたんだけど、起きたら下に落ちてたの」
二段ベッドの上は消え、わららの陣地にあった物は無くなり、部屋は元通り半分広くなっている。…この部屋の設定も消されてしまったらしい。
制服に着替えて一階に下りると、わららの分の朝ごはんが無かった。俺は机に置いていた弁当を持って、また二階に上がる。
わららはパジャマのまま床に座り込んで、片方の髪を三つ編みしていた。
「これでいいかな、これ食べて、朝ごはん。俺学校でパン注文するから」
「うん、食べるー♪」
わららは少し首を傾けたまま返事する。俺は忘れないうちにかばんを開けて、パンを買う小銭をふでばこの中に入れた。
「すずき、ちょっと持ってて」
わららは三つ編みし終わった束を俺の手に持たせて、何やら引き出しの中を探り始める。しばらくして振り返ったその手にはさみをにぎりしめ、嫌な予感がした瞬間わららは俺のネクタイをちょん切った。
「えええええ」
えええええと言い続けてる間に、わららは俺のつまんだ髪の束にその赤い布切れをいそいそちょうちょ結びする。
「似合うー?」
純粋無垢な笑顔。
「…はい」
俺は首にぶら下がる被害者を見下ろして、へたっとうなずいた。
「すずき」
3時間目が終わった休み時間、教室の入り口で和渕が呼んでいた。俺は夢の中で書いたふにゃふにゃ字のノートを閉じて、和渕のいる廊下側に降りた。
「これ、落ちてたんだけど」
「あーっ、まじか。ありがとう」
和渕が持っていたのは、昨日無くした鍵だった。まったく、どんな落とし方したんだろう。
「ネクタイどうしたの?」
「いや、今日わららがさー、三つ編みとめるリボン欲しいからって、いきなりちょん切られたんだよ」
「はは、さすがわららだね」
「ほんとに…」
――おかしい。和渕の目を見る。
「わららを、知ってるのか?」
それを聞いて和渕は少し固まり、それから苦笑いした。何かいい予感もするし、いやな予感もするし、判らない間が数秒続く。
「僕がご主人様とお友達なのは、親近感を持っていただくための設定だったんですけどね…それが裏目に出たでしょうか」
「へ?」
口を開いたと思ったら、いきなり敬語で意味わからんことしゃべり出した。
「まあわざわざ隠し事をするような仲ではない、ということなんでしょう。ねえ、ご主人様」
ご主人様って、誰だ? これ何ごっこなんだ?
和渕は買いレスで俺を抜いたときと、よく似た笑顔で言い放った。
「僕はウイルスを殺すためにこの世界に潜入した、ワクチンプログラムです」
「…え」
どきっとして、そのまま腹が笑いそうになる。和渕が…?
「そもそもワクチンって、ウイルスを弱めたもののことを言うんですよ。だからゲーム内へのインストール方法や、体の搭載システムも似ているんです。しかしコンピューターの世界でワクチンというのは、ウイルスを駆除するためのプログラムを指します」
「じゃあ、わららの周りのもん消したのって…」
「はい、僕の仕業です」
和渕はさらっと答えて、広告みたいに微笑んだ。――この鍵取ったのも、和渕だよな。昨日体育のとき俺の席聞いたのも、1組の教室から鍵を取るため。それで昨日の夜俺の家に入って、わららに関するもの全部消したんだろ、とか、言えなかった。もうちょっと疑っていたかった。けど和渕の言葉は止まってくれたりしない。
「まあ正確に言えば僕は報告係で、実際にデータを消すのは本部なんですけどね。言わば僕なんて下っ端ですから、規則もいろいろ厳しくて」
「…わららの記憶を消したのも、和渕なのか?」
「ウイルスの記憶は、僕らには消せません。むしろ記憶は、増えたんですよ」
「増えた?」
「ええ、ご主人様の頭の中にある、僕の記憶です」
完全にぽかんとしている俺の前で、和渕は聞き覚えのあるせりふを喋り出した。
「二日前の午後7時58分、僕はこのユメトムの中に潜入しました。自分を取り巻く人々の記憶を上書きし、3年2組の教室に自分の情報を書き加え、ご主人様のお部屋には、僕がお貸ししたという設定のゲームカセットを置かせていただきました。ただ一点だけ、ウイルスの侵入とは異なる点があります。それは、ご主人様の記憶を上書きしたかどうかということです」
「俺の記憶…」
疑うんだったら、すずきの頭だよ――その意味が解ったのかもしれない。
「そうなんです、今のご主人様にとって、僕は小学校以前からの幼馴染なのでしょう。しかし二日前の午後7時57分以前、和渕なんて人間はどこにも存在しませんでした。今ご主人様が思い浮かべる僕は全て、二日前の午後7時58分、ご主人様の許可証に基づいてインプットさせていただいたデータなんですよ」
朝注文したパンを受け取って袋を開けようとしたとき、家にいるわららの昼飯が無いことを思い出した。俺は袋のパンをそのまま机に置いて、窓の方を向いてでんっと力なく頭を下ろした。右頬をぺったりつぶす机の表面は、何か独特の湿った匂いがする。
何があってもおかしくないって、所詮俺の脳には解りっこないって一人で涼しぶってた…けど。実際にそんなことが起こると、全然涼しいどころじゃない。頭じゃなくて、胸らへんの方だ。何とかして、このつっかえる感じを、何とかして、何とかしたい。
騙されたにせよ、記憶をいじられたにせよ、俺的に言えば和渕は結構長いこと友達で、センギス(戦国ホトトギス)やって、メンバト(免疫バトラーズ)やって、ヤスモン(休み時間モンスター)やって、まあゲームばっかやって、小学校一緒で、中学一緒で、そんで今日いきなりキャラ変わった…というか別人だった。
いや、昨日までの和渕が消えたんじゃない。てかむしろ増えたんだ、事実としては。もともと何もないところから、約10年分の中途半端な記憶と、大量のゲームカセットと、通信データと、かしこまったワクチンを演じる和渕そのものをゲットしたんだ、タダで。おトクだろ? 絶対おトクだ。おトクなはずなんだろうけど…
「すずき食わねーの?」
声を聞いて頭を起こすと、宮部が弁当を持って俺の前の席に引っ越していた。
「うーん、何か腹へってないから」
そのまま机に置いてたら食べたくなるだろうから、開けてないパンをかばんに入れようとかがんだらぐうううと腹がなった。実は今のは腹がへったからじゃなくて、朝めっちゃ食いすぎたやつを消化する方の音で…とか意味分からん言い訳を作る習性が身についてしまっている。
机ばっかり眺めてた視界に、箸二本に一個ずつ刺したから揚げとミニトマトが入ってきた。
「これ、組み合わせ最っっっ強だから」
宮部はそう言って、自信満々に俺の口の前に持ってくる。二つまとめてぱくつくと、一個一個が思ったよりでかくて口いっぱいになった。ゆっくり一回かむと、トマトの水分が肉ときゅわあと混じる。
「やばおいしーだろっ?」
おいしそうに聞いてくる宮部に、いっぱいの口を手で押さえながらうなずいた。もしかしたらこのトマトから揚げも、俺に親近感をもたせるための設定かもしれないけど…おいしかった。
宮部が次々運んでくるおかずを消費しすぎないように、俺はできるだけ時間をかけてゆっくり噛んだ。それでも3分の1くらい食べてしまって、お礼言おうとしたけど宮部が次々おかずを運んでくるから、食い終わるまで言えなかった。
昼休みになったら2組の教室に行くと、食いながら決めていた。今度は俺が、入り口から和渕を呼ぶ。
「何ですか」
面と向かって聞かれると、わざわざ呼び出して言っても無駄かもしれないと思ってしまう。
「あの、俺…」
でも、言った。
「自分で嫌っといてこんなこと言うのあれだけど、でもやっぱ…頼む、わららを消さないでくれ」
わららのためなんかじゃない。完全に、自分のわがままだ。これは俺の目玉を中心にした、俺のために作られた世界でしかないんだから。
和渕はふっと笑う。次に言うセリフが全く読めないような表情だった。
「残念ですが、僕たちは言葉では動きません。ご主人様のその感情が、ウイルスによって操作されたものかもしれないでしょう?」
「え…」
「双子という最も近い存在、相手を油断させる幼い容姿、全て計算無しの設定とは限りません」
「それでもいいよ」
即答して、ばかみたいだと思った。本当に、俺の感情はウイルスに操作されてるかもしれないと思った。
「自分の頭がどんな風に騙されてるかなんて、今さらどーでもいいだろ。…和渕だって、」
何だか言葉がちゃんと言えない。和渕に対して喋っている感覚が無かった。
「和渕だって、俺と幼馴染なのも、俺と同じゲームが好きなのも、みんな俺を騙すための設定って解っても、俺は記憶の中と同じ和渕だって、やっぱどうしても信じてしまうけど、でももう前までの和渕に、」
喋りながらその内容がさみしくて、これ以上言葉を重ねたらやばいんじゃないかと思った。不意に和渕の手の甲が、俺の額を覆った。
「そんなに思い入れを持ってもらえるなんて、記憶の設定も大成功ですよ」
日陰の砂のように冷えた手。何をしてんのか分からなかったけど、俺はとりあえずじっとしていた。
「記憶を浄化しました」
「え…」
「冗談ですよ」
あまりにも明るく笑うから、本当に全てが冗談なのかと一瞬期待した。
「安心してください。ご主人様は僕が守りますから」
ゲームの中のでしか聞かないようなセリフをさらっと言い残し、和渕はすう教室の中へ帰っていった。
取り残された廊下で、前髪を上げて窓に映してみる。マッシュマンはいなかった。
「ただいま」
返事がない。ぎゅっと気持ち悪く鼓動が一回鳴る。
「ただいまー」
もう一回言ってみる。肩のかばんを滑り落として、階段を急いで上がる。
「わらら…?」
広くなった部屋を見回す。左側で布団がまるく膨らんでいる。俺はふっと息を吐いて、布団越しに肩の辺りをとんとん叩いた。
「ふふうっ」
小さい子みたいな声が布団の中からもれる。何かもっかい聞きたくなって、俺は肩をゆらゆら揺すってみた。
「ひやあ~♪」
くすぐったそうな声と共に、肩の上から足がぴょこっとでる。…肩の上から足?
「えあっ、あ、ごごめん」
自分がわららの腰らへんに触れていたことに気付いて、慌てて手をひっこめた。足だと思っていた方からぱっと布団をめくり、わららが顔を出す。
「おなかすいた!」
「あ~そうだ、パン持って帰ってきたから」
玄関に置きっぱのかばんを取りに行く。階段を早足で下り、早足で上がり、ぺったんこになった袋入りのパンを手渡す。
「どうぞ」
「ありがと♪」
にっこり受け取るやいなや、わららはパンの袋をど真ん中で全開にして、大きな口で頬張りついた。
「はえゆー?」
首をことんとかしげ、一口かじったパンを突き出してくる。
「え、いいのか」
「はってすずひ、おひゆおはんたえてあいでよー?」
「いや、でも宮部がちょっとくれたし…それに俺夜ご飯あるから。わららはそれ、夜と兼用だったら少な」
言葉をパンで塞がれる。口いっぱいに、窒息死させるくらいの勢いで押し込まれた。というか窒息死しそうだ。
「おいひー?」
口がぱんぱんすぎたので、俺は頭を下げた。…正直言うとまだ腹へってたから、ありがたかった。
わららがやっと一口目を飲み込んで、俺の耳元にふあっとパンの香りを寄せる。
「あたしのお口、睡眠薬だから☆」
油断していた。
ベッドの上に並んで座ってひたすらパンを食い続けていると、わららの手が突然細かく震え出した。
「ふぁ、ひふくはんからあっ」
大きな声でそう言うと、わららは高速で口の中のパンを噛み出した。
「手、大丈夫?」
「はいよーぶ、おれおへへへーたい!」
元気に答えてくれたけど、何語か全く解らない。
「んぐ、…もしもしー♪」
急いでのみ込んで、ぴとっと耳と口に手を当てる。なるほど、おててケータイか。わららの右手にそっと耳を近づけると、聞き覚えのある声が聞こえた。
「どう、大ピンチ?」
「うんもうみーんな消えちゃった☆」
「ふふっ、それはピンチね~」
「えーと、滴さん…?」
「あれ、その声はすずくん!」
「あ、はい、そーです」
わららの左手に口元を近づける。と、必然的にわららの口元とも近づいて、喋るのを遠慮してしまう。
「何かわらちゃんが危機っぽいから、電話したの。敵の動き、把握してた方がいいでしょう?」
「え、はい…」
「て言っても、もうほとんど消されちゃった後だけどね♪」
「あー…」
届いてても届いてなくてもどっちでもいいような相づちを呟きながら、俺はもう少し右手の方に耳を寄せた。
「まずゲーム内に潜入したワクチンは、その目で消すべき対象を認識する。その情報を本部に送るの」
「なるほどーう」
わららが一生けんめい何回もうなずく。電話越しだから伝わってないと思うけど。
「それでワクチン本部はその対象のデータを消す。以上!」
「…以上?」
「以上!」
「あ、はい…」
「ただし、ワクチンには破ってはならない三つのキノコがあるの」
「え!ぱくりだよ」
「ぱくりだねー。でもホントは向こうが元で、とーもくんがぱくったんだよ」
「へ~、とーもくんすごいね☆」
何がすごいのやら。
「きのこの「き」は、ご主人様を「傷つけない」。つまりすずくんに直接関わるデータは、自分の手で慎重に消すの」
「あ…だからマッシュマンは手で消したのか」
「マッシュマンって?」
説明しよう。それは数学の教科書に毎ページかかさず登場する、一度見れば二度と忘れられない強烈なインパクトを持つ解説キャラクター。人々は彼をこう呼ぶ、「スーパーゲジゲジマッシュマン」。初めてマッシュマンを目にした者は、その晩98パーセントの確率で夢に見るといわれ(俺もその一人だ)、ノートの隅などに少しでもマッシュマンの落書きをした者は、どんな成績優秀者でもその学期の通知表に「えんとつ」または「あひるさん」がつくという恐ろしい都市伝説もある…とか言ってられないので、とりあえず
「まあ、何か、落書きです」
と答えた。
「きのこの「の」はー?」
わららが一生けんめい首をかしげる。電話越しだから伝わってないと思うけど。
「ウイルスの痕跡を「残さない」。とにかくわらちゃんに関するものはぜ~んぶ消してから、最後にすずくんの記憶を浄化するってわけね。そして最後にきのこの「き」、生き物は「殺さない」!」
…何か、心やさしーな。
「あ、誤解しないでね。「生き物」としての状態のままでデータを消さないってことだから」
ええっと…それはつまり?
「ワクチンくんはあたしを殺しにくるのねっ」
「そゆこと☆ 生きてるもんのデータって負担がかかるからねー。まああたしの予想だと生き埋め、もしくは毒殺かな。血が出ちゃうと痕跡が残るから、きのこの「の」に違反だし」
「詳しいすね…」
「たまに検出されて、お世話になるから。いっつもついついヤりすぎちゃって」
てへ♪ってテンションで言ってるつもりなんだろうけど、怖い。
「もしわららが殺されたら、あたしがすずくんとこ侵入してあげよっか」
「…お断り、します」
「あら、断る権利なんか無いのよ」
怖い。
「あ、でも」
「でもあたしが嫌だってゆう理由で、断るわけじゃないでしょう?」
さえぎられているようで、見抜かれているようで、何を受話器に言えばいいのか分からなくなる。
「ふふ、大丈夫。わららが消えても消えなくても、ゲームの主人公はハッピーでいられるように仕組まれてるから」
解るような解らないようなせりふを残して、電話はそこで切れてしまった。
「いいこと思いついた!」
風呂上りの俺を、変わらないパジャマ姿のわららが出迎えた。
「ちょ…っと声大きいかな」
心配しながら、背中側でそっとドアを閉める。
「すずきが学校行ってる間ひまだからね、入れ替わってみたいの」
もしかして、ウイルスにはそんな能力もあるのか?
「あたしがすずきぐらい髪の毛短くしてね、すずきの制服着て学校行くの!」
「…ばれると思うけど」
「ばれないばれない、双子だもん☆」
自信満々に宣言するわらら。
「うーん、でも性別違うし…それにもったいないじゃん」
「何が?」
「え、髪の毛。だってせっかく、長くて」
まとまってて、細かくて、やわらかそうで、光に透けると何か明るい色に縁取られて…
「一緒に寝よ♪」
「えっ?」
突然言われたから、何か変な声が出る。
「だってお布団一個しかないもん」
「ああ…」
たぶん、あんまりたぶんよくないだと思いつつ、でもわららは別によくないとか思ってなく、じゃあ別に、いいんじゃないかな、とか思って
「うん」
とうつむいていた。
俺はわららに真っ背中を向けて壁側に張り付いて両手をグーにしていた。ここに寝転んでちゃいけない気がして、起き上がりこぼしみたいに勝手に起き上がってしまいそうだったけど、同じ布団を共有しているので今さらそれはできなかった。
「あ!もしかしてさ」
めっちゃ耳元で聞こえたからびっくりした。
「死んじゃうから、もったいないんでしょ」
「何が?」
「かみのけ!」
昨日俺がわららに髪を切ったら死ぬって言ってたからわららも俺と入れ替わるために髪を切ったら死ぬと思ったから俺はわららが髪を切るのをもったいないと言ったのかと思ってわららがそう言った、と理解するのに十秒かかった。
「あたしが死ぬのはセーフなのかなあ」
頭の後ろで、わららが呟く。
「セーフ…て?」
「あのね、きのこの「き」は、消えたらだめなんじゃないの。嫌われて、検出されて、とーもくんの情報がばれちゃうのが一番だめ。だからあたしがワクチンで死んじゃっても、ルール違反じゃないんだよ」
頭に直接かかり続ける声を、俺は壁を見つめながらじっと聞いてた。
「でも、すずきが死ぬのはセーフじゃないね。すずきが死んでぶち消しリセットされちゃったら、もっかいやり直さなきゃだめだもん。最初に侵入したときと同じよーに、そのゲームに合わせてまた新しく上書きデータ作るから、効率悪いんだって」
最後まで一通りかけ終わったCDみたいに、わららのしゃべる声はそこで自然に終わった。何も喋らない時間を、時計の音がさくさく増やしていく。俺はあったかい布団をはがさないようゆっくり方向転換して、体ごとわららの方を向いた。
わららはもう寝顔だった。目を閉じてることを五回くらい確認してから、人差し指一本を少しずつ近づけて、そのわらびもちみたいなほっぺにそっと触ってみた。吸い寄せられた一瞬後に、指の腹がじわっとあたたまる。さらさらして何か空気みたいで、でもぬるいお湯みたいな気もして、やっぱりわらびもちだった。――死んでも、全然セーフじゃないから。わららが死んだら、俺がセーフなわけないから。言いたいと思って、口を閉じたままくり返す。至近距離で聞こえる寝息のリズムが、ゆっくり何回もくり返される。
「おやすみ」
やっと開いた口は4文字だけ呟いて、またすぐ閉じてしまった。
次の朝もまた朝ごはん代わりに弁当を渡し、昼ごはん用にカップラーメンを渡し、夜ごはん用に学校でパンを買うと言った。また宮部の弁当をあさるのも悪いので、自分の昼飯も合わせて二人分パンを注文する。これで何日持つか(お小遣いとカップラーメンが)分からないけど、何日でも持つような気がしていた。消えてもかまわないウイルスを、消えてもかまわなくないと思っている、俺のやることは最初っから、全然正しくない。だと余計に、何日でも持たせてやろうと思ってしまう。
「わっちくん休みかなー」
頭から体操服をかぶりながら、宮部が教室をぐるぐる見回す。
「え、和渕休みなの?」
「うーん、ぽいな。ここいねえし、前も体育休んでたし」
回りを見回す。鼓動が鳴り出す。その鼓動が耳に聞こえるくらいになったとき、このままここにいるのは無理だと思った。
「宮部、俺今日、体育サボる」
「へ?何で」
「って先生に言っといて」
外しかけのボタンの上から無理やりネクタイをつけ直して、俺は教室を走り出た。階段を駆け下り、外にとび出し、一番近い通用門までまっすぐ走る。聞かれる前に、止められる前に、一度決め付けてしまったらもう走りきるしかなかった。
ずっと続く下り坂は、足元でどんどん後ろに流れる。走らない理由が無かった。ゲームの移動もよっぽど落とし穴まみれのフィールドじゃなければ、ずっと走りっぱだ。学校から遠ざかるにつれて周りが静かになっていく。自分の息と足音だけがずっとつきまとっていた。
やっと家まで着いて、ドアの取っ手にとびつく。鍵は開いていた。靴を脱いで駆け込む。靴下で転びそうになって、慌てて壁をつかんだ。自分の息ばっか聞こえる。どこにいるか分からない。とりあえずそのままドアを開け、テレビの部屋に駆け込んで――
カーテンのぼんやりした暗い逆光の中で、和渕がわららに口を重ねていた。
白いパジャマの膝がかくんと折れる。わららの両膝が床に落ちて、そのまま上半身もばたりと倒れ込んだ。
「わらら!」
駆け寄ったわららは苦しそうに両手で喉を押さえている。
「はああっ、はああ…」
消えそうな声が泣いている小さい子みたいに切羽詰ったテンポでくり返す。
「鍵もかけないなんて、無防備で助かりますよ」
座り込んだまま和渕を見上げる。わららの姿が見えていないかのように、俺だけを見て微笑んでいた。
「ウイルスの唾液は睡眠薬、もちろんワクチンも同様です。自分の唾液で自分が死ぬなんて事はありません。しかし他人の睡眠薬が体内に入ると、ご覧のように拒絶反応を起こしてしまい」
「どうしたらいい、どうやったら戻る、何か方法ないか?」
「ありませんよ。あと一分もすれば、確実に動かなくなります」
「頼む、ちょっとでも、何かあったら、わららが、」
異常に早い呼吸を聞くにつれ、自分で焦っているのが分かる。和渕の声はやたらゆっくり聞こえた。
「もう手遅れですよ」
「…どーしてもか?」
「どーしてもです」
それを聞いて、わららを見て、うつむいて息を吐き切った。それからTシャツ脱いで水かぶって扇風機の前でアイス一気食いして腹こわしたときの苦痛を、全力で思い出した。
「俺、今やば苦しいから。まじで、近くいるとわららの苦しいのが、ぜんぶ俺にうつるから。痛いのとかもう、飛んでけ~以前に100パー俺に吸収されて、そーゆーシステムなんだよ。だからわららのせいで、俺今やばい、死にそう、これゲーム全クリしたら絶対自殺する、わららのせいだ。うう~痛い、何かあちこち痛い、てかどんどん痛い度増してくやばい。死ぬーぜったい死ぬー、こんな苦しいゲームなら、ぜったい自殺した方がましだっ」
笑って欲しい。笑って欲しいのも、俺のわがままだ。でもそのわがままも、叶って欲しい。笑って欲しかった。
薄く開いた黒目が俺を見る。止まらない息づかいの中で、わららの口角が淡く広がる。
「じゃあもっと、うつしてあげる…」
そう呟いて俺の首元にゆっくり手を伸ばし、熱い手の平で無理やり上半身を引き寄せた。俺はギリギリの体勢で被さる状態になり、わららに体重が乗らないように肘で支えた。左耳にふうーっと息がかかる。あったかいなと思ってそのまま耐えてたら、何度も吹きかけてくるから、痛いのをうつそうとしてるんだとやっと気付いて耳を押さえた。いた、いたい~…と繰り返しうなっている間に、吹きかかってくる息が弱くなる。その手を口に滑らして、咳き込むふりをし続ける。
「あと十秒もしたら消えますよ」
和渕の声を聞いて、わららは口に手をかざし、何かを呟いた。俺はそれを聞き取れないまま、わららはふわっと笑う。口元は覆われていたけど、頬を見ればすぐ分かった。笑い返しそうになって、でも今は苦しんでないといけないから、思い出して、ぎゅっと瞬きしながら、視線を伏せて、焦って、また視線を上げた。
――目の裏から、掴まれたような感覚がした。自分の体重を支えていた腕が急に重く感じる。わららがいた空間に触れないように、横切らないように、ゆっくり身体を起こそうとして…ネクタイの切れ端が、二つ床に落ちていた。
まばたきして目を開くと、赤いちょうちょ結びが縦ににじむ。俺はわららがいない空間に、あきらめて体をうずめた。…苦しい。この苦しさを、わららに伝えたかったな。腹こわしたとき思い出すとか、痛くもないのに咳き込むとか、そんなことしないで、もう、今の苦しさをそのまま伝えたかった。
「可哀相に」
白っぽい視界の中で、和渕が落ちたネクタイの切れ端を拾う。
「毎日こんなひどい事されたら、普通もっと早く嫌うでしょう」
そう言いながらちょうちょ結びをほどくと、何の折り目も付けないまま、切れ端はまっすぐに戻った。
「そしたらこれほど思い入れを持たずに済んだのに」
俺のつけているネクタイに、二つの切れ端合わせる。和渕がつめの先ですっとなぞると、ネクタイは元通りになっていた。…嫌だ、このネクタイの先は、ちぎれて、わららの髪についてないとだめなんだ。俺は立ち上がって、引き出しからはさみを取る。指を入れて、刃を開いて、その手をつかまれた。
「可哀相に」
和渕が微笑んでくり返す。
「安心してください。今の悲しい気持ちなんて、すぐ忘れられますから」
ゆっくりとそう言いながら、もう片方の手の甲を俺の額に寄せる。迫られて何も分からなくて、反射的に目を閉じた。
俺がわららのことを知っていた、最後の一瞬――
じっと目を閉じたまま、十数秒が過ぎる。もう一度目を開けると、和渕は俺の額を見つめて、少し目を見開いていた。
「なるほど」
そう呟いて微笑む。
「あと1ターンで完了だったのに…回復されるのって、いっつもこのタイミングだよね」
「え…」
ピーンポーンが鳴る。どくっと胸が血を送り、俺は玄関に急いだ。内側から鍵をひねってドアを開けようとすると、向こうからがちゃんと押し返された。
「合言葉はっ?」
ドアの窓越しに、まるい影がふわっと傾く。
「…やま?」
まだ、信じちゃだめだと思いつつ、
「もーりっ」
口角が勝手に上がろうとして、
「わら、」
やっぱり、抑えないとって思うけど、
「びぃも~?」
だってもし違うかったら嫌だし、
「ち」
でももう駄目だ、
「ぴんぽんぴんぽーん!」
正解だったから。
「すずき、生きてたんだね☆」
ばーんとドアを放り出すやいなや、わららはとびっきりの笑顔で意味不明発言をする。うん生きてたよ。死ぬかと思ったけど、何か生きてたよ。
「恐らく、彼女はきのこの「こ」を破ったと思い込んだんですよ。自分が移した苦しみによって、ご主人様を殺してしまったんだと」
いつの間にか廊下に立っていた和渕が説明してくれる。
「だからあたしね、おててのケータイでとーもくんに電話したの。ルール破ってごめんなさい、リセットされちゃうから、新しいデータくださいって」
「せっかく僕が消したデータも、また一瞬でインストールし直されてしまったんです」
「でもすずき、ぜ~んぜん死んでなかったんだよ」
交互にしゃべる二人に挟まれ、俺は床に倒れ込んだ。
「大丈夫ですか?」
「い、ひや…れ、しくて…っ」
嬉しくて。笑いが止まらなくなる。やばい、腹つりそう。てかつる、つってる、つりいんぐなう。あー自分が一番意味不明だ。今なら宮部の気持ちがよく解る。爆笑してるのに、泣き崩れたような気分だった。
「ご主人様の記憶を消そうとしたら、昨日消したはずのいたずら書きが、また額に現れていたもので」
「あっ、しょーぅだやははは渕、こっれもっか…もっか消し、くれへへーか?」
これでも真剣にお願い申し上げている。
「すみません、もう僕にそれを消す権限は無いんです。今ご主人様の額に施された落書きは、一応まだ、新たなウイルスとしては未検出ですから」
「ひゃ、でへへえもウぃ、いっルスとぁーチン一ひっ緒だやなははっ。わはっららん手、てへ、へ甲消すっる?」
「消せますけどウイルスのクリーナーは、ワクチンの約20倍危険です。前頭葉ただれますよ」
それに反応して三つ編みの束がぴんっと跳ねる。ふわりと上がる両頬に、満面の悪意を感じた。
「じゃああたしがただれさせてあげるーっ♪」
この笑顔に騙されている限り、俺はウイルスの手の中だ。