検出編!

 

「ぎぃっ…!」

 

 突然頭のてっぺんから痛みが鈍く突き刺さる。ってぇぇぇぇぇぇ…とかすれた悲鳴の続きを吐きながら、俺は解きかけの数学ワークにそのまま顔を埋めた。

 

「きゅふふふふぅー♪ いたかった? のーない出血した? のーさいぼー何匹死んだっ?」

 

 割れたようにじんじん鳴る頭がいこつの後ろから、わららの幼い歓声が畳み掛ける。

 

「ろ、ろくじゅう、はちまんびき…」

 

 両手を脳天にかざしたまま全く動けない俺は、生き残った脳細胞と口だけ適当に動かした。

 

「じゃあえっと、えぇっと、あと32万匹殺そっと☆」

 

「ぃやめてっ」

 

 死の危機を感じ一瞬で振り返ると、わららは大きくて四角い何か(鈍器)を高く振りかざしたところだった。

 

「き聞いてください、人間の脳細胞は、えっとじゅうま…じゃなくて百万びき死ぬと、死ぬんだって、本体が、ね、だから、えと、一回で68万やったら、次は…ひゃくに、ひゃく3じゅうよ…じゃなぃろ、く?万死ぬから、アウトだ、百まっですね、はい、」

 

 痛む頭を腕で頼りなくガードしつつ、その腕をわやわや動かして必死に説明する。脳細胞の単位が匹なのも気になるが、とにかく今は生命優先、安全第一、平和主義、家内安全――

 

「そっかぁー、じゃやめとこ♪」 

 

 わららがちゃんと騙されてくれたのを確認して、俺は安心して再び机につっぷした。

 

 

 

 

 

 これはこのごろ俺がよく使う作戦だ。わららの目的はゲームの中の俺を苦しめることで、このゲームのプレイヤーを自殺に追い込むこと。俺そのものは殺されないから安心安心よかった~…と油断するのは甘い。わららは普通の人体がどんな事で苦しむのか、どれくらいダメージを与えたら死ぬのか、全く常識を知らないのだ。このまま放っておいたら「苦しめてあげるー♪」とか言ってにこにこ殺しかねない。

 

 だから俺はそれを逆手にとって、ああしたら死ぬこうしたら死ぬと人間は何てもろい生き物なんだーと洗脳する。するとわららも「そっかあー♪」とか言って、これ以上の被害を防ぐことが出来るのだ。敵の弱点をつく、我ながらなかなかテクい戦法だな。

 

 わららは振りかざしていた四角い何かを、自分の背中側にひゅいっと下ろして隠した。

 

「すずき、あるば…あぶらむしって10回いって!」

 

 なるほど凶器はアルバムか。

 

「あぶらむしあぶらむしあぶらむし…」

 

 俺は頭に乗せていた手を下ろし、噛みそうになりながらリズムよく指を折っていった。8回目くらいで息継ぎして、9、10言い終えると、わららは広げっぱの数学ワークを潰すように、水色の四角い凶器を上からどふっと置いた。

 

「これはっ?」

 

「アルバ…あぶら、む?」

 

「ぶぶー!」

 

 期待通りの笑顔で口を突き出すわらら。幼稚園児の遊び相手でもしてる気分だ。

 

「正解は~、アルバムでした!」

 

 10回クイズのやり方がビミョーに違う気がするが、まあいいや。

 

 どっから引っ張り出してきたのか、こんな丁度いい重さの凶器さっさとどけて、ワークの続きを提出日(あさって)までに間に合わせる…のがエラいんだろけど、やっぱテスト前に限ってどうでもいいことがしたくなるのがサガなんだよなぁ…。――というわけで、アルバムの真ん中らへんを適当にぱかっと開いてみた。

 

 隙間を空けるのがもったいないのか、一つのページに10枚弱の写真たちが重ね重ねに並んでいた。俺の面影のなくもない男の子の隣には、案の定おんなじ顔のちっちゃい女の子が写っている。こんな細かいところまで、データは書き換えられていたのか。

 

 静電気か何かでくっついた正方形のページを、後ろからぱたぱためくってタイムスリップする。うちわを握りしめて嬉しそうに振るわららと、這いつくばってカーテンを食おうとする俺。何かのサンプル写真みたいな子どもらしい横顔のわららと、机の足にしがみついて食おうとする俺。――全く身に覚えが無い…のは俺もちっこかったから当然だけど、母ちゃんや父ちゃんにとっては、こんな昔の記憶にも、わららが上書きされているんだろうな。

 

「どうして俺の記憶は書き換えなかったんだ?」

 

 あ、忘れてた~。今から書き換えてあげるー♪ …なんて言われなきゃいいけど。

 

「だってね、本人が記憶いじってもいいよーって言わなきゃ、記憶いじっちゃだめなんだよ」

 

「え、じゃあ俺以外の奴らはみんな記憶いじっていいよーって言ったのか?」

 

「けへ、ばっかだねえ~すずき」

 

 わららは敵キャラのように片っぽの口角を上げた。

 

「み~んなただのデータなんだよ、ミヤベちゃんに夢を見せるためのデータ。だから許可証とかいんないの」

 

「許可証、って?」

 

「ふふ、見せてあげよっか? あたしのおでこ、プリンターだから☆」

 

 わららは机のアルバムをぱたんと閉じて抱え、下敷きになっていたワークをぴとっと額に当てた。

 

「ちょっ…そこにプリントすんの?」

 

「だめ?」

 

「え、だってそれ提出するし」

 

「困るの?」

 

「うーん。それプリントしたやつって、どーやったら消えんの?」

 

「消えないよ☆」

 

「…困るな」

 

「ひゅふふぅ。すずきが困ると、あたしは嬉しいの!」

 

 それ人間としてどーよとか言われそうなセリフを、わららはきらきら言い放った。俺も殺人ウイルスと暮らしているうちに人間らしさなんてどっかに消えたんだろう。もはやわららが嬉しいならいーやとか思ってしまう。

 

「はい、どーぞっ」

 

 表彰状みたいに両手で差し出すワークを受け取ると、笑けるくらいびっしり英語が並んでいた。

 

「許可証って、英語なんだ…」

 

「そーよ♪ 28世紀はね、ちゃんとした、ぴしぃっとした文章は英語がフツーなの。だからとーもくんからのお手紙も英語なのよ」

 

 とーもくんの手紙…おでこプリンター第一被害者の理科のノートを思い出す。確か「2×ra」が「ユメトム」に見えるとか見えないとかいう…てかカタカナだったらガッツリ日本語使ってんじゃん。

 

「ちなみに日本語は方言で、遊ぶ用の言葉なの。だからこのゲームの中も、遊ぶ用の日本語なのよ♪」

 

 また一つ未来の豆知識を得意げに説明してくれるわらら。なるほど、28世紀はもはや英語が標準語なのか…。

 

「ごめんせっかく見せてもらったけど…全く読めない」

 

「ふふーん。日本語しか読めないなんて、田舎っ子だね~」

 

 何だその時代の流れを感じさせる発言。

 

「しょーがない、すずきでも分かるように、あたしが訳してあげよっか?」

 

 嬉しそうに上から目線を演じながら、わららは影のように浮き出る記号の羅列を覗き込む。

 

「えーっとねえ、『なんやかんやで記憶いじっちゃうけど、許してねっ☆』」

 

「…そう書いてんの?」

 

「すずきでも分かるように訳したの」

 

 ふふんと笑って見下ろしてくるわらら。…完全に楽しんでるな。

 

「ちなみに、ちゃんと、そのまま訳すとどうなんの?」

 

「えーっとねえ、『許可証、お客様はわが社の登録商品「ユメトム」を使用するにあたり、ゲームのプレイ中はお客様本来の記憶データをわが社の保存庫にバックアップし、ゲーム内の主人公の過去の記憶及び性格などのデータを、新たに脳内にインストールすることを許可します。またウイルス対策ソフトがスムーズに作動するため、プレイ中に多少の記憶の書き換えが必要となる場合がございますので、あらかじめご了承ください。また外部から異物が侵入した場合、対策として…」

 

「あ、ありがと、もういよ」

 

 未来語の羅列に付いてけなくなった俺を、わららはさらにふふふふふんっと勝ち誇って見下す。それから床に座り込んで、さっきから抱えていた水色のアルバムを絵本みたいに広げていた。

 

「ふーん、なるほどねえ~」

 

 わざと大きい声で何か納得してるわらら。俺が気になって覗き込もうとするとぱたんっとアルバムを閉じた。その風圧でわららの短い前髪がふわっと上がる。

 

「すずきは見ちゃだめなの」

 

「…なんで?」

 

 ミヤベ殺しの一環として俺を「気になるー気になるー地獄」へ落とす気なんだろうか。

 

「クイズにしてあげるから! あのね、3月にあるクイズ大会の練習だよ」

 

「ク、イズ大会?」

 

「うん☆ 高校かけてバトるんでしょ」

 

 もしかして…入試のことか。 まあ究極に軽いノリで言えば、「数百名様限定、なんちゃら高校行きチケット3年分」を賞品にみんなでクイズ大会してるようなもんかもしれないけど。

 

「まあすずきはどうせあと半年で死ぬんだから、合格しても高校行けないけどね」

 

「え…あ、そうか」

 

 そうだ、完全に忘れてた。わららが侵入した最初の日、あまりにもぶっとんだ設定が畳み掛けて一つ一つちゃんと覚えていなかったんだ。

 

「このゲームは俺が卒業する日に終わる…んだったっけ?」

 

「そうよ♪ 来年の3月にユメトムを全クリして、プレイヤーのミヤベちゃんは元の世界に戻るの。そしたら夢から覚めたみたいに、この世界ごとすずきも母ちゃんも父ちゃんもすーちゃんもみやべいもわっちくんも、みんなみんな消えちゃうのよ!」

 

 あらまーそりゃ大変だー。頭の中にとりあえず棒読みの反応が流れた。…笑えるほど実感わかねえな。

 

 

 

 

 

  メシ食って、フロ入って、あーこの繰り返しもあと半年、えーっと31日かける…いや、めんどいから30かける半分か月…6、で、さぶろく18の180日、回…残り180回くらいしかない。いや、でもメシは朝昼晩だから180かける3でえっと…まあいいや。余命のカウントダウンより、今はこのあさって提出のワークを何とかしないと。なんやかんやで今日家帰ってからまだ2問しか解いてない。

 

 なんで勉強しなきゃだめなのー? と、宿題サボるたびに小学生の俺はやんわり逆ギレしていた。何となく、勉強しないと高校や大学や仕事に行けない、と聞いた事はあった。が、わり算の筆算なんか計算機のほうがぜったい速いじゃん、と文句ばかり言ってた気がする。

 

 そのころはまだ、少なくとも高校や大学や仕事に行く未来があると、ぼんやりだけど思っていた。今でも、やっぱり何だかそう思ってしまう。でも実際この世界は、あと半年で終わる、らしい。仮に入試で合格したとしても、その高校に通う未来なんて存在しないのに――、

 

「なんで勉強しなきゃだめなの…?」

 

 ぽこぽこ並ぶ直角三角形に向かって、俺はため息のように笑った。

 

 

 

 

 

「いーこと思いついた!」

 

 風呂上りの、髪型だけ大人っぽいバージョンのわららががららっとドアを開けた。

 

「あのね、クイズ大会はどうせすずき死ぬでしょ、でも中間テストなら、まだ生きてるの。だからね、クイズ中会の練習しよっ」

 

 クイズ中会…中途半端な会だな。そこまでクイズにしたいような内容なのか。

 

「じゃあ問題です。じゃーらん♪」

 

 いきなり始まった。

 

「すずきの名前の由来はっ?」

 

 なるほど、アルバムに書いてたのは名前の由来だったのか。

 

「ヒントください」

 

「えっとね~、すずきの「ず」をね、なんか変な字に変えるの」

 

 なんか変な字と言われても…。

 

「んーとね、こんな字」

 

 そう言ってわららは俺の机のど真ん中に、何のちゅうちょも無く落書きをする。鉛筆が部屋の電気を反射して少し見えにくいが、それは確かに「ゞ」に見えた。

 

「これって…前と同じって字の、てんてんバージョン?」

 

「うん。だからこれで「すゞき」だよ♪」

 

 わららはそう言いながら、両側にでっかく「す」と「き」を付けたす。その鉛筆に4Bと書いてるのをちらっと見て、これ消すとき消しゴム真っ黒になるだろうなと思った。

 

「ヒント2欲しい?」

 

「お願いします」

 

 そんなわくわくした表情で言われたら、頂くしかないでしょう。

 

「うーんとねえ、ひっくり返すの! でもどの字をひっくり返すかは内緒よ♪」

 

 ひっくり返す、か。俺は角度によっててらてら色を変える4B鉛筆の跡を眺めながら…見つけた。案外早く見つかった。

 

「これ、「べ」になるのか?」

 

「ぴんぽんぴんぽーんっ」

 

 まだヒントの途中なのに、盛大に笑顔をくれるわらら。「ゞ」の上にこれまたでっかく×を書き、嫌がらせとしか思えないほどのサイズで「べ」と書きたくった。

 

「す、べ、き、…」

 

 すべき、するべき、母ちゃん&父ちゃんが考えそうなこと、と言えば…

 

「ゲームの前に宿題をすべき」

 

「ぶーっ」

 

 わららは「ぴんぽんぴんぽーん」のときより盛大に笑う。「ぶ」の口がよく似合う表情だ。

 

「正解は、「すべてのことがすき」、でした~」

 

 全てのことが好き…?

 

「すべてのことがすき、略して「すべ、すき」、も~っと略して、「す、べ、き」!」

 

 わららが自慢げに机の上の三文字をぽんぽこ指差す。誰だ「涼しい気持ち」の略なんじゃねとか言ってたヤツ。

 

 

 

 

 

「ねえすずき」

 

「ん?」

 

ベッドの2階からした声を、俺は左耳で拾った。枕に押し付けた右耳は、足音のような血管の音を聞いている。

 

「すずきはね、すべてのことがすきなんでしょー?」

 

「んー名前の由来はそうだけど…たぶん、実際はそーじゃないと思う。宿題とか」

 

「じゃあきらいなの?」

 

 嫌い、ってゆーか…確かに宿題が好きかと言われたら、まあ、好きじゃないんだろうけど、「嫌いなもの」と言われてぱっと思いつくものは無かった。嫌いな事、嫌いな物、嫌いな人…そういえば俺は何かを「嫌い」と決めた覚えがないな。母ちゃん&父ちゃんも名前の由来にするくらいだから、家であんまり「嫌い」って言葉自体を使わなかったせいかもしれない。

 

「俺、嫌いなもの無いと思う」

 

 自分で言っといて、何かかっこいいセリフに聞こえてしまった。まあ仮に後で何か嫌いなものを思い出しても、それはもともと嫌いじゃなかったというフリをしよう。

 

「じゃあ、お願いね」

 

「…何を?」

 

 実は今日の夜ご飯のニラもやし炒めがすっごく苦手で食べられないから明日のお弁当に入る分を変わりにもらって欲しいと言われたら喜んでお願いされるけど、ってことを一瞬で思って、それは無いなと一瞬で思った。

 

 わららの少し消えそうな声に反応して、とくんと血管が鳴る。

 

「あたしのことも、嫌いにならないで」

 

 見開いても変わらない黒の視界の中で、俺は目を見開いた。初めてわららを、何か弱く感じた。

 

「うん」

 

 何か不安なのかな、とか思って、好きでいるよ、とか言おうとして、それってあの有名な告白用語の進行形じゃね、てなって、結局やめる。

 

「おやすみ」

 

 俺の声だけ聞こえて、返事は無かった。そのまま静かにすると、小さな寝息が聞こえた。すやすやってひらがなをそのまま音にしたような、眠気を誘う寝息。いつも平気で死ぬだの殺すだの言ってるわららでも、人を苦しめて嫌われるような仕事は、いやだと思ったりするんだろうか。

 

 

 

 

 

「よし、じゃあもしすずきがあたしのこと嫌ったら、腕立て伏せ百回の刑ね!」

 

 前言てっかーい。翌朝わららは弱々しさのかけらもない笑顔で脅してきた。異常なほど軽そうにかばんを振り回すわららの後ろで、俺は肩にかけた荷物を背中にまわして、腰に重さをのせたままゆっくり坂を上る。

 

「キノコのキは、「嫌われない」のキなの。もしすずきがあたしのこと嫌いって思ったらね、ワクチンっていうプログラムが発動してね、あたしのことを殺しに来るのよ♪」

 

 そんな嬉しそうな声で言われても。今どんな感情で言ってるんですか。

 

「約束だよ、すずきはあたしのことが好きなの!」

 

「はい」

 

「愛してるの!」

 

「はい」

 

「けっこんしたいの!」

 

「…それ、双子だったらでき」

 

「お味噌汁を毎日腹いっぱい飲みたいの!」

 

「何か、毒入ってそ」

 

「誓いますか?」

 

 光入りのくりっとした目が覗き込んでくる。「嫌い」の反対語を連発する神父に脅迫されて、俺もけっこんしきごっこに付き合ってやった。

 

「誓います」

 

「え、お前たち、結婚すんのかっ?」

 

 大マジにつっこんでくる声に振り向くと、アホっぽ…いや、子どもっぽく目を見開いた宮部だった。

 

「あれ、でももともと家族だったら結婚できないんだったっけ」

 

「え、そーなの?」

 

「だって親戚減ったら、もらえるお年玉少なくなるじゃん」

 

「あ、ほんとだ! すごいねみやべい☆」

 

「はっはー。絶対そーだよ、お年玉って重要だよ」

 

「うん、じゅうよじゅうよ~」

 

 誰にでも騙されるわらら。ていうか、宮部自身もわかってねーのか。

 

「でもすずきとわららは仲いいから、やっぱ夫婦みたいだ」

 

「うーん…」

 

 斜め前をとんとん歩くばってんたすきの背中に、「嫁」という字を当てはめてみ…合わないな。

 

「夫婦っつーか、むしろ娘が出来た的な感じ」

 

「え、娘が出来たのかっ?」

 

「違うって。ムリだろ。自家受粉かよ」

 

 ――沈黙。

 

「…じかじゅふんって何?」

 

「自分で調べろ、いや、調べなくていいから」  

 

 やっぱ昨日の夜からテンションがおかしい。俺は深呼吸とため息を混ぜたような息を吐き、頭の中で自分の頭を抱え込んだ。

 

 

 

 

 

「なあすずき、今日って何の日だと思う?」

 

 教室に入るやいなや、ずっとうずうずしていた宮部がばんっと聞いてきた。さあー、俺の命日かもしれない。

 

「まあ別にたいしたことないんだけど。いや、たいしたことなくないな。失礼だな。あ、でもそんなに考えないでな」

 

「鈴木さんの誕生日とか?」

 

「なっ何でわかったんだよ」

 

 お前のしゃべり口調で。

 

「そんでな、あんまりみんな覚えてなかったらちょっと残念だし、でもそんな時にさりげな~く知ってたら、やっぱちょっと嬉しいかなーとか思ってな。だから隣のクラスでも俺でも何か言って、おめでとーとか自然にいいよな、いいいかな…」

 

 主語も目的語もへったくれもない宮部の脳内まんまな言葉を、俺は笑ってしまわないように道路の隅を眺めて聞き流していた。わららが幼稚園児なら宮部は小学校低学年の男子だな。二人の雰囲気は違うんだけど、どこか似ている気がする。

 

 

 

 

 

 今日はテスト前日だったので、授業の残り時間を宿題片付けタイムにしてくれる先生もいた。…が、とことんギリギリにならないとやる気が出ないのが俺のサガだ。――というわけで、その教科のワークを広げながら、まあ数問ずつは解きながら、飽きてくると夢の世界へ旅立ったり、端っこの余白を使ってわららの名前の由来を考えたりしていた。

 

「鈴木、教室掃除かー。う~ん、終わってからの方がいいかな? でも一言ぐらいすぐだよな…。あーでももうすぐ掃除終わるか、まだかな…?」

 

 放課後、頭の中だけで考え事の出来ない宮部が、2組の廊下前でぶつぶつ呟いていた。昨日もなんやかんやで一緒にわららを待ってくれたので、俺も宮部の隣に並んで、がらがら机の運ばれる掃除中の教室を眺めていた。

 

 それから数分後。2組は掃除が終わったようで、前のドアと後ろのドアからカバンをしょった人が出てくる。鈴木さんは一番最後に、大きなカバンを肩にかけ直しながら後ろのドアから姿を現した。

 

「あ。す、ずき?」

 

 宮部に気付いたようで、鈴木さんがゆっくり振り返る。俺と同じ「す」と「ず」と「き」でも、宮部の口ではここまで発音が違うんだな。

 

「あの、今日たんじょび?」

 

 片言のようにちょろっと首を傾げる宮部。固まったまま動かない鈴木さん。

 

「…あんちょび?」

 

 宮部と同じような仕草で首を傾げ返す鈴木さん。今度は逆に固まってしまう宮部。

 

「あんちょび? え、あんちょび? …あーいやいや、たんじょび、誕生日。今日であってるかな?」

 

 鈴木さんがうなずくと、短い髪が頬をさらさら覆う。宮部も安心したように口の表情を緩めた。

 

「ああやっぱり、よかった。いや、あ違う。あんな、えーっと…」

 

 切りそろえた前髪の下から、とろっとした黒い瞳が宮部の口元を見上げる。宮部の目線はどこか鈴木さんの頭より高いところを泳いでいる。

 

「あ、おおめでとうっ」

 

 たった一言、やっと言い終えて初めて宮部は目を合わせた。

 

「ありがとう」

 

 関西弁のアクセントでほんわり口を動かす鈴木さん。これだけの会話が、宮部のちっこい記憶容量をどれだけ占拠するのだろうか。この世界のプレイヤーも、なかなか面白い日常ゲームを選んだもんだな。

 

 その帰り道も当然、宮部の脳内垂れ流し文章を聞き流しながら家に帰るのだった。

 

 

 

 

 

「わらびもち和平協定…なんてどうかな」

 

 家に帰って、俺は考えに考えたベストアンサーをわららに披露する。

 

「ほら、俺と同じように「わらら」を「わらゝ」って書き換えるんだよ。そんでこの「ゝ」を「へ」に変えて…」

 

 プリントの裏(机じゃなくて)に書かれるひらがなと、俺の表情を交互に見るわららの得意げな笑顔が視界にちらつく。

 

「てなわけで、わらびもちをめぐって戦争が起きないよう、同じ数で分けましょうという」

 

「ぶぶーっ」

 

 わららは大人をへりくつで言い負かした小学生みたいに、勝ち誇った表情で俺の解答をさえぎった。

 

「わへいきょうていとか、そんな歴史のテストみたいな名前じゃないもん」

 

 それにね、と、わららはにっこりすてきなえがおをする。

 

「わらびもちは一つのお皿に入れたら、一緒に食べる時間が同じになるんだよ」

 

 

 

 

 

 日が沈み、人が寝て、光も音も少なくなるにつれて、夜はテンションが徐々に暗くなっていきがちだ。俺はこれを人間が夜行性じゃないからだと勝手に分析している。だからこの絶望的な量のワークへの対処は、「むしろこのまま徹夜でも大歓迎~」くらいのノリでやるのがポイントで…

 

「すずき、ちょっと待って!」

 

「え?」

 

 わららは突然俺の机に自分のかばんをひっくり返した。どばどば滑り出す雪崩の中から、くちゃっと折れた範囲表と国語のワークを救出する。

 

「うーんとね~」

 

 わららは自分のワークと俺のワークと範囲表を3つ交互に見てから、突然さっき埋めたばかりの記述問題に消しゴムをかけ出した。

 

「ああっ」

 

 悲痛な声を上げる俺。わららの笑顔が悪魔のようだ。

 

「ふらいんぐだよ、ふらいんぐ。いまからきょーそーするんだから」

 

「競争…?」

 

 わららは悪魔の笑顔をさらににやっと広げる。

 

「早く終わったほうが勝ちなの! すずきとあたしでバトルよ☆」

 

 バトル…という言葉のわくわく感に反応してしまう。テスト前にゲームやったら恐ろしい目に遭うけど、勉強そのものをゲームにしちまえば、母ちゃんも文句ねーよな。

 

42ページから53までと、57ページの漢字と、60ジャストから、えーっとずっといって…75まで!」

 

「りょーかい」

 

 俺はわららの教科書の雪崩をまっすぐ積んで、床に下ろして、42ページを開いて、下敷きをかまして、消しゴムをセットして、シャーペンを2回かちかち鳴らした。

 

「準備OK?」

 

「OK」

 

「ふふい♪ じゃ、よぉ~ぅい…スタートっ!」

 

 わららがいてよかった。なんて、なぜかこのタイミングで思った。

 

 

 

 

 

 次の朝。教室に入ると、入り口近くの宮部がぶつぶつ呟いていた。

 

「こんでんねんでんしゅざいほーこんでんででんちじゃいほーこでんでんででん…」

 

「墾田永年私財法?」

 

「そーだ、こんでんでーね…って、何時代だったっけ。えど?」

 

「いや、えーっと奈良かな」

 

「よし、奈良といえばシカ、シカといえばきつね、きつねと言えばこーん、で、えーねん…」

 

 つっこみどころは多々あるけど、宮部なりに頑張って勉強しているようだ。

 

「あ、そー言えばあれ、理科のワーク出てたな、じゅかずくん!」

 

「じゅかずくん…」

 

 一体誰だそれは?

 

「ほら、昨日すずきが言ってた、遺伝とこの、何だっけ、あの同じ親から生まれて、」

 

「自家受粉か」

 

「そうそれだっ。そんでそいつらがまた受粉して、孫ができるんだろ?」

 

 めっちゃ得意げに覚えたての知識を披露する宮部。…何か、悪事がバレた気分だ。

 

「はははー、テスト出るかな?」

 

「まあ、ワークが範囲だから」

 

「よっしゃあ、俺今回理科イケるかもしんない。さんきゅーすずき!」

 

「うん…」

 

 ハイテンションな宮部に無駄に感謝される。出たらいいな、自家受粉。

 

「あ、それとさー」

 

 まだあんのかい。俺は肩にかばんをかけたまま、あとちょっと自分の机に行くのを我慢した。

 

「スーパーゲジゲジマッシュマン(注:そう、それは数学の教科書に毎ページかかさず登場する、一度見れば二度と忘れられない強烈なインパクトを持つ解説キャラクター。人々は彼をこう呼ぶ、「スーパーゲジゲジマッシュマン」。初めてマッシュマンを目にした者は、その晩98パーセントの確率で夢に見るといわれ(俺もその一人だ)、ノートの隅などに少しでもマッシュマンの落書きをした者は、どんな成績優秀者でもその学期の通知表に「えんとつ」または「あひるさん」がつくという恐ろしい都市伝説もある…。)って、いからしーよ」

 

「…いからしー、って?」

 

「イカだよイカ、あの白くてすみ吐いて足10本の」

 

「…イカ?」

 

「うん、イカらしーよ」

 

「…え、イカ?」

 

「うん、あのマッシュ部が頭で、ゲジ部が足」

 

「………イカっ?」

 

「うん、テスト出るかな」

 

「出るな」

 

 俺は笑えてくるのをこらえて、そのまま自分の机に向かった。…イカ。イカかよあいつ。どこがだよ。面白すぎだろ。イカて。でゲジ部て。呼び方。やばいツボだ。どーしてくれんだよテスト中思い出したら。そーいや足10本だし。まじであいつイカかよ。イカ…やばい、うける。俺は我慢できなくなって机につっぷし、チャイムが鳴るまで一人で不気味な発作を起こしていた。

 

 

 

 

 

 マッシュマンの衝撃の事実にも2時間目あたりから免疫ができ、一通り埋めた社会の解答用紙はもう見直す気力も無かった。残り10分くらい余ってるから、俺はわららの名前の由来(わらびもち和平協定じゃなくて)でも考えることにした。

 

 備中ぐわの図の上に、短い鉛筆でうすく「わらら」と書いてみる。ただのひらがな、記号三文字だけで、なんとなく、口開けて笑ってる絵文字みたいだなと思った。これだけで十分、名前の由来にぴったりかもしれない。

 

 テスト中にテストと関係ないことをするのが好きだからテストを受ける…なんて不倫発言を思いついて、別にそれでもいっかなと思った。宮部が一生けんめい覚えようとしたのは、別に墾田永年私財法じゃなくてもよかったし、昨日の夜わららとバトったワークは、別に三平方の定理じゃなくても差し支えない。たまたま教育なんちゃら会かどっかが「将来役立つかなー」と選んだから、宮部は奈良でシカできつねでこーんとか言ってるし、わららは♪さんぺっぽ~、さんぺっぽ~♪とか歌ってるし――まあ結局何だっていいんだ。

 

 勉強する理由、それは賞品も無いクイズ大会に参加するくらい、しょうもない理由かもしれない。

 

 

 

 

 

「あのね、今日のテストで、社会でね、めっちゃマイナーなおっちゃんの名前覚えてたんだよ」

 

 お味噌汁をじゅるじゅるすすりながら、わららは母ちゃんに得意げにしゃべる。生き生き開いた両目がお味噌汁の湯気に直撃して、めがねみたいに曇るんじゃないかと思った。

 

「あとね、おうぎ形で裏ワザ使ったの。♪てーへんかける、たっかさわ・る・にっ♪ を、きゅうううって曲げたバージョンで、♪弧~かける、半径わ・る・にっ♪」

 

 箸におうぎ形のにんじんを刺して、指揮者みたいに振るわらら。いろいろとお行儀が悪いが、中三になっても小一のときのまま義務教育を楽しんでいる所が地味に素晴らしい。てか、わららって実質何歳なんだろう?

 

「今日はあたしがお皿洗う番だから、すずきはお風呂行ってね!」

 

「あー、うん」

 

 まだ半分くらいしかメシ食ってないんだけどな。やたらはきはき命令するわららの様子から、俺はちょっとした危機を感じ取った。

 

 

 

 

 

 予感的中。お湯の中で寝そうになってたら、突然風呂場の扉が開いた。寒い空気が入り込んで、肩と背中を包む。嬉しそうに立っている灰色ワンピースのわららを見て、俺は湯船の中できゅっと体操座りをし浴槽の壁に貼りついた。

 

「どーしたの…?」

 

 全国の十五歳の双子の男女は、こうやって風呂場に侵入し合ったりするんだろうか…いや、わららだけか。

 

「あのね、すーちゃんが言ってたの。ちっちゃいときお風呂でおぼれたら、息が出来なくて苦しかったって…♪」

 

 わららの裸足が濡れた床にぺたっと入る。やばい、無防備なう。文字通り何一つ身に着けてない状態だ。

 

「ゆふふ~、すずきも苦しんでっ」

 

 無邪気な声が水面の上に沈む。首の背中を押さえ込むわららの手。そのまま浴槽の底に鼻を打ち、がばっと空気を肺から放してしまう。だめだ死ぬ、ってことをまたわららに説明しようにも、もう目も耳もお湯に閉じ込められてどうにもできない。ぴちゃぴちゃ鳴る水面の上から、ぴっ、と音がぼんやり耳に届いた。ら、つぶったまぶたの表面に熱いものがかかる。やばい、どうやら指し湯ボタンを押したっぽい。このまままぶたが熱で溶けてしまうんじゃないか。眼球に直撃したら目が火傷で見えなくなるんじゃないか。てかまじで…苦しい。絶望的に苦しい。海底火山で溺れたらこんな感じかななんて脳が考えるための酸素が無い。今回、まじで、死ぬかもしれない。熱くて苦しくて痛くて俺は服さえ着てなくて不恰好で理不尽でいっそもう、わららが、いなくなってしまえば――

 

 やっと首への重圧が離れ、浮力でごぶっと音がする。水面を待ちきれず息をすると空気とお湯が喉に入り込み、げほげほ死ぬ気で咳をした。

 

「あははははっ、めぇちゃ面白い♪ すずき咳してるから、苦しいんだよね、苦しいねっ」

 

 わららが笑っている。笑わないで欲しいって初めて思った。

 

「ぅわ、げふげふっ…らら、ご、これまじ、でぃ…げほっ死んから、」

 

「でも死ななかったでしょ?」

 

「じやっで…ごふごふ、もうぃっが死っ…んだ、ぁ」

 

「でも死ななかったでしょ?」

 

 俺が何言ってるか分からなくて適当に答えてるのか、ちゃんと聞き取ってその返事なのか。着衣水泳みたいにわららの腕にはりつくワンピースの袖から、びとっびととっとリズムよく水が落ちていた。

 

 

 

 

 

 わららが入れ替わりで風呂行ってる間、俺はひたすら「買い物カートレース2」の和渕との通信に備え、買い物に連れて行く息子のレベル強化に専念していた。ベッドの足を背もたれにして、せまい床に足を伸ばす。テストが終わった反動で、大量の自由を手に入れた気分だった。

 

 イヤホンでレースのBGMを聞いていたから、風呂上ったわららが俺に話しかけていることに一瞬気付かなかった。

 

「ごめん、もっかい言って」

 

 イヤホンを外してわららを見上げる。…何か、おかしい。

 

「お風呂でね、滴ちゃんから電話があったの」

 

 わららが笑ってない。いつ見てもいつ見ても笑ってたから、表情が無いだけで、ただの人形みたいだった。

 

「すずきがね、あたしのこと嫌いって思ったの」

 

 え、と口の形だけ言って、気付いてまた閉じた。何となく分かってた気がする。さっき湯船の中に押し沈められたとき、俺はわららが、いなくなればいいと思った。嫌いって言葉にする習慣が無いだけで、いちいち認めないだけで…わららにいてほしいって思う気持ちは、俺が死にたくないと思う気持ちより弱いんだ。

 

 わららはその後は何もしゃべらなかった。時計の音が不自然に過ぎていく。イヤホンから漏れるBGMが聞こえるくらい、静かだった。 

 

「…ごめん」

 

 怒ってるわけでも泣いてるわけでもない、本当に、わららは普通に報告しているだけなのに。

 

「腕立て伏せの刑、だったっけ…」

 

 言ってから、言うんじゃなかったと思った。「あなたを嫌ってごめんなさい」と足元で百回土下座されて…何が嬉しいんだ。何なんだ俺。

 

「すずき、めーつぶって」

 

 俺は一回わららを見開いて、それから言われるまま目を閉じた。ついでに「え」の形だった口を閉じて、口を閉じたことになぜか少し肩をすくめて、肩をすくめた反動で微妙にうつむいた。まぶた越しの光がわららが近づいてくる気配がして、目のつぶり方もわからなくなりそうだ。

 

 突然わららの手が顔に触れて、反射的に息を止めた。少し湿った小さい手は額の方へとすべり、そのまま前髪を上げて俺のおでこを出す。何されるのか全く不明のまま、目を閉じた状態でぎゅっと瞬きする。首の後ろにもう片方の手がまわり、こそばいと思った瞬間ぐっと引き寄せられ

 

「い…っ」

 

 …てええええ。ってほど痛くも無いけど、頭がこんっとぶつかって、そのままおでこ一面だけぴっとりくっついていた。薄い皮越しにすぐ伝わる体温は、小さい子みたいにやたら高くて熱があるんじゃないかと思った。「い」の形だった口を閉じて結んで、このナゾな状態に堪える。なぜか息をしたらだめな気がして、止めていたら苦しくなってきて、喉の奥の血管がストップウォッチみたいに経過時間をとくとく数えて…

 

「よし、かんりょうっ」

 

 おでこが離れ、わららの元気な声がやたら耳に響く。ゆっくり目を開けると、まん丸い両目が俺の額を見上げている。

 

「何…したの?」

 

 わららはただ「にー」の口のままにこにこしている。俺は何となく予感がして、部屋の奥側、わららの陣地に入った。本カーテンと薄カーテンを一緒につかんで、真っ暗な窓に映る自分に近づき、前髪を上げてみる。

 

「…これ、どーやって消すの?」

 

「消えないよ☆」

 

 俺が振り返ると、わららはきゅひぃ~といたずらっぽく肩と口角を上げる。

 

「ばつゲームっ!」

 

 主人公の額に刻まれた一生消えない傷跡…俺は今日から残り半年を、スーパーゲジゲジマッシュマンと共に生きることになった。

もどる