「ウイルスちゃん」解説

 

 『ウイルスちゃん』は山田萌々が一年から三年時まで、計七回にわたって連載した長編小説である。彼女は他の物語や詩も書いていて、自分はそれも好きだが、『ウイルスちゃん』おたくと自称するように、この作品には彼女の並々ならぬ愛着を感じる。

 

さて、解説を書くわけだが、正直言うと、国語の便覧に出てくるような、いわゆる「がちがち(といっていいのか)」の小説しか読まなかった自分にとって、この作品はとっつきにくいものであった。「現実」を捉えようとする小説に比べ、『ウイルスちゃん』の奇抜な設定はあまりにもかけ離れていて、多少途惑った。このような「拒否反応」は多くの人が持ったものであるように思う。読後の感想でそんなことをよく耳にした。総集編を読むようなファンだから、今となっては、自分と同じように「感染」しているだろうから、蛇足かもしれないが、念のため「拒否反応」を解き、自分が「感染」した、この本の魅力を書きたい。

 

一つは、この作品からは「声」が聞き取られること。つまりこの作品には感情が繊細に表現されていて、読者に働きかけてくるものがある。例えば、わららの容姿と言動のギャップ。面白すぎて笑ってしまう。読んでいる最中は、ずっと笑いっ放しで腹に力が出なかったことを記憶している。電車の中なのにどうしよう。一人で笑っているなんて不気味だろうな。本の中の世界なのだけれど、現実の自分に何らかの反応が起きる。

 

二つ目は、この作品が面白いだけでなく、都合の悪いところも取り除かず、見つめていること。そして見つめるだけで終わり、そのことをあえてどうにかしようとする気配のないこと。

 

高校に入った初めの頃、彼女はよく「今自分の見ているものは本当は存在せえへんかもしれん」というようなことを言っていた。普通こんなことを考えると怖くなる。だから普通の人は考えない。しかし、彼女は作中ですずきが言っているように、ゲームの中だろうが、現実の世界だろうが自分の見ている世界は変わらない、と思うことにより安心を覚えるのだろう。

 

時たま、彼女は作中に、行き過ぎた人間の文明の恐ろしい面をほのめかして書くときがあるが、それは、批判に終わらない。彼女の文章には、いつも肯定を感じる。否定は感じない。ただの楽観主義者かということもない。なぜなら、彼女は「見切っている」から。怖い面もしっかり見たうえで、それを受け入れている。(ユメトムの世界がその典型だ。あの楽しいわららとすずきのやり取りが、本当はゲームの世界に過ぎないのだが、「過ぎない」という捉え方ではなくて、「それで十分」と肯定している。その肯定された世界に読者は浸るが、時々見せるすずきの切ない言動に、ユメトムというゲームの儚さを覚え、物語は哀愁を帯びてくる。)

 

こう見ると、二つ目のポイントは一つ目のためにあるように見える。どうこう言ってきたが、『ウイルスちゃん』の魅力はやはり「軽快さ」だと思う。不思議なほど力が抜けていて、余計な荷物がない。拙作でいう「鎖」がない。人類が集積してきた観念というものをあまり感じない。それは「常識」とか「真実」だと、一般に言われているものを疑う姿勢のためだろう。普通の人が目を背けがちな世界を彼女はしっかり見つめている。こういう意味で、自分はこの物語が現実を描いているように思えて仕方がない。

 

最後にもーたん、ここに書かせてくれたこと、そして何より君に会えたことに感謝する。これからも僕は、ウイルスに翻弄され続けたい。

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