商人と貴族

 

仏谷山飛鳥

 

 

 

 インドに一人の商人がいた。名はアーカーシュという。彼は国内では名高い貴族の出であったが、名前を捨てて商人となったのである。そのため友人や家族、さらには周りの人間からも距離を置かれていた。

 

 しかしそんな彼にも、ただ一人、親友と呼べる男がいた。スーラジという名を持ち、こちらもまた、貴族の者であった。二人は幼いころからよく遊び、お互いの心を許しあえる、そんな仲だった。だが、アーカーシュが商人となってからは、ただの一度も会ったことはない。

 

 そんなある時、スーラジは隣国の国王の娘に婿入りすることになった。アーカーシュは最後の挨拶を言いに、スーラジの住む屋敷を訪ねた。

 

「久しいな、アーカーシュ」

 

その聞きなれた言葉に、彼は誰にも聞こえないようなため息をついた。

 

「本当だったのですね、男爵。もう戻っては来ないのですね」

 

「ああ、もうこの国に戻ることはない。お前とも最後の別れになるだろう。どうだ、身分などを捨てて、普通に話してはくれないかね」

 

「それは……そうだな、スーラジ」

 

アーカーシュは彼の顔を見つめる。

 

「どうしたのだ、私の顔に何かついているか?」

 

「そういう訳ではないのだ。ただ、私たちの間にもこのような壁ができるとは、子供の頃は考えてもみなかったと思ってな」

 

「いや、そんなことはない。空と太陽はいつでも『二人で一つ』だ」

 

アーカーシュは思い出した。自分の名が「空」を、スーラジの名が「太陽」を意味することを。

 

「幼いころは自由で良かった。今はたくさんの足かせが私に付いていると思うと、気まで重くなる」

 

スーラジは、目の前の男がどんな事を考えているかも、全て分かっていた。今発した言葉によってその男が傷ついてしまう事さえも。

 

「やはり、別れとは悲しいものだな」

 

スーラジが呟く。

 

「ああ、しかしそれも運命だ。私が商人という道を選んだ時から、すでに別れとは近い存在だったのだろう」

 

アーカーシュは、自分がスーラジの寂しさの対象にはなれないと思っていた。しかし、そんなことを考える必要もなかったのだと、少し安心する。それと共に、「自由」という言葉が頭から離れないでいた。

 

 

 

スーラジが国を去る日の早朝、アーカーシュはいつもと同じように店の準備に追われていた。

 

「友よ……」

 

その声で彼はさっと振り返った。しかし、その声の先には人の気がない道が延びているだけだった。しかし、確かに聞いたのだ。その聞き慣れた声は、朝の静けさに飲まれていったが、確かに一人の商人の耳に焼き付いた。彼は涙をこぼした。心の中に小さく点っていた火がふっと消えた、そんな感覚を抱いた。

 

「そうだったのか、スーラジ。やはりそうか。自由などはどうでもよかったのか。私はただ、あなたという太陽がいるだけで良かったのだ。自由などはどうでもよかったのだ」

 

 

 

スーラジは、馬車に揺られて隣国へと向かっていた。

 

「ああ、友よ。私の親愛なる友よ。私はお前に何の挨拶もできなかった。許してくれ。ただ、私にはお前が必要だった。そばにいなくてもよかった。お前のおかげで、私は解放されるのだ。ありがとう、友よ」

 

 

 

 インドに一人の商人がいた。名はアーカーシュという。彼は国内で名高い貴族の出であった。彼には一人の友人がおり、ある国の国王の息子となった。今となっては随分と昔の話である。