献身

 

トリトン

 

 

「献身こそが唯一の価値なのに?」

 

 僕が黙っていると、俯いた彼女は繰り返して言った。

 

「献身こそが私の唯一の存在価値なのに?」

 

 その言葉を聞いたとたん、僕の中に、沸々と熱いものが湧き上がってきた。いつも、いつも彼女はこうだ。

 

「違う。むしろ献身こそが君の罪だ」

 

 

 

 僕が吉藤さんと再会したのは、僕がゼミのための調べ物をしようと、大学の図書館に足を運んだ日のことだ。必要な本を棚から抜き出し、自習スペースに腰を下ろそうとしたとき、彼女が一人の男と並んで、前方の席に座っているのが見えた。その男というのは、僕の高校時代の同級生である守屋で、中学時代の同級生である吉藤さんとは、何の接点もないと思っていた。意外な組み合わせに驚いた僕は、二人の関係が知りたくなった。

 

 彼女が席を立ったのを見計らって、僕も席を立つ。自動販売機で飲み物を選んでいる彼女に近づき、なるべく自然にと自分に言い聞かせ、声をかけた。

 

 三年振りの再会に彼女は驚いていた。思い出話の一つでもしたかったが、彼女が「彼――守屋君を待たせているから」と言って話を切り上げたので、連絡先だけ交換して別れた。

 

 

 

 彼女と僕が、たまに話をする仲になるのに、それほど時間はかからなかった。彼女によると、守屋は彼氏ではないという。

 

「恋人とか、そんなんじゃなくてね、守屋君には数学者になって叶えたい、すごく大きな夢があって、私はそれを応援したい。そういう関係」

 

「守屋君は吉藤さんに何かしてくれるの?」

 

「いろいろしてくれるよ。私なんかほっといて、夢を追っていてほしいのに、彼優しいから」

 

 吉藤さんも講義がない水曜の昼に、二人で構内を歩きながら話していた。彼女は、口を開けば守屋のことを褒め称えている。そして、賞賛の三歩後ろを自虐がついていく。

 

「私なんてなんの取り柄もないから、そこまでしてくれなくていいのに」

 

 構内に植わっている桜は、陽光を浴びて咲き誇っていた。それを見た彼女は脈絡もなく呟く。

 

「私、桜が好きなんだ。散っていくところが儚くて。日本人としてはありきたりな感覚かな?」

 

 

 

「風邪でもひいた?」

 

 例によって、二人で大学の構内を歩いていると、吉藤さんが心配そうに僕の顔を覗き込んできた。鼻をすすっていたのが気になったらしい。

 

「花粉症、だと信じたいけどやっぱり風邪かな」

 

「風邪だったらまずいよ。速く帰って寝とかなきゃ」

 

 彼女は昔から心配性だ。ちょっと鼻水が出たくらいで大袈裟だと思う。そのくせ、自分は病気になっても無理して学校に来るものだから、却って病気が長引いたことも一度や二度ではない。

 

 と、一緒にいたときはそんなことを考えていたが、本当に風邪をひいてしまったらしい。頭が重くてよく回らないし、鼻づまりがひどくて息苦しいったらありゃしない。彼女にうっかり、LINEで病状を伝えてしまったものだから、彼女は僕の家に来てくれた。もちろんその手にはコンビニのビニール袋に入った経口補水液と風邪薬を持って。

 

「わざわざ家まで来てくれてありがとう。今度何かお礼するよ」

 

 彼女に押し切られて大人しく布団に入っている僕は、台所の彼女に声をかけた。

 

「お礼なんていいよ。私はいつ死んだっていいけど、萩野君は早く元気にならなきゃだめなの。だからこうやって看病してるの」

 

 彼女は昔から卑屈だ。中学生の僕はそれを優しさと勘違いしていたけれど、その認識はあまり正しくない。

 

「その理屈はよく分からないけど、吉藤さんはこんなことばっかりせずに、もっと自分のことを考えるべきだよ」

 

 僕の部屋が一瞬の沈黙に包まれた後、台所から細い声が聞こえてきた。

 

「献身こそが唯一の価値なのに?」

 

 

 

 正直なところを言えば、彼女が幸せでいてくれるなら、彼女の相手が守屋でも良かった。だけど彼女はきっと、守屋の好意も厚意も受け取らない。自分はそんな立派な人間じゃないと、遠慮して、謙遜して、拒絶する。そうして不幸を振りまく彼女に、僕は腹が立って仕方がなかった。可愛さ余って憎さ百倍とはこのことだ。

 

 僕が全快した数日後に、彼女は死んだ。ひどい雨の日だった。原因は、僕からもらった風邪と持病だったらしい。大学からの帰路で倒れれば、誰かが救急車を呼んだだろうに、彼女は運悪く家に帰り着き、看病してくれる人もいない中、熱に浮かされていたそうだ。もちろん、僕にも守屋にも連絡は来なかった。

 

 

 

 水曜の昼、僕は一人で構内を歩いていた。近頃の雨で散ってしまった桜は、ちっとも美しくなかった。

 

 

 

お題

 

「献身こそが唯一の価値なのに?」

小麦粉