魔朧の森2


      黒猫



~あらすじ~


ひょんなことから、小さな国に迷い込んでしまった旅人。そこで待っていたものは、魔朧に取り憑かれて生気を吸い取られた人々だったーー……。

魔朧に命を狙われ、危ういところをこの国の姫に助けられた旅人は、共に森で暮らし始めることになり……。


~2幕~


暖かい日差しが、木々の隙間からこぼれ落ちる。そよ風がさぁっと吹き抜け、僕の頬を優しく撫でていった。

「……平和だ……。」

僕は、紅茶を注いだカップを静かに持つと、口をつけた。甘い香りが口一杯に広がる。……うん、上出来だろう。

木の上で小鳥が歌を歌い、野うさぎが二匹、追いかけっこをしている。こりすが僕の肩に乗り、僕の隣では狐が寝息を立てていた。

こうしていると、生命の繋がりだとか、尊さだとかが感じられるな……。

僕は、静かに目を閉じてーーザシュッ‼︎この場に不似合いな、嫌な音がした。

ハッとして目を開けると、案の定、野うさぎが剣で串刺しにされていた。

「チッ、一匹逃したか……。」

舌打ちをしながら振り返った少女ーー姫は、僕を見て顔をしかめた。

「……何だ?文句を言いたそうな目をしているな。」

僕は、姫に気付かれないようにそっと溜め息をつきながら、紅茶を飲み干しカップをテーブルに置いた。

「……一つだけ、文句を言いたい。」

僕は、哀れな姿の野うさぎを指差した。ぽたっ……ぽたっ……と、一定の間隔をあけながら、血が滴り落ちている。

「……無闇矢鱈に殺生をするのは……やめてほしい。」

「何故?」

「何故って……、野うさぎには何の罪も無いだろ?可哀想じゃないか。」

「……可哀想、だと?」

姫は、嘲るような笑みを浮かべて僕を見た。そして、ブンと剣を振り、赤い塊を地面にぼたりと落とした。

「理解できないな。死ぬことが、可哀想だとでも言うのか?」

「そうじゃなくて……。故意に命を奪うことが、いけないって言ってるんだ。命は、無くしたら二度と戻らない

、大切な物だからーー……。」

姫は、明らかに不快そうな表情をして、僕を睨んだ。

「私に説教でもする気か?」

「いや……、そうじゃなくて……。」

「では、どういうつもりで言ったんだ?答えてみろ。」

「…………。」

氷のように冷たい視線が、僕を刺す。……どう答えたら、姫の機嫌が治るかな……?黙りこくってしまった僕を、姫は蔑むように見つめる。

「……僕は、上手く言えないけど……姫にそんなこと、させたくないっていうか……、してほしくないっていうか……。」

「何の権利があって、汝は私に指図するのか。私は、お前の良い子ぶった考えが大嫌いだ。」

姫は、いきなり後ろに跳び、鞘から剣を抜き出したかと思うと、切っ先を真っ直ぐ僕に向けた。

「気に食わない……、汝を始末する。」

え……?

今、姫は始末するって言ったよな?ってことは……僕はもうすぐ、殺される……?

「ちょっ……と、待った‼︎僕は別に、姫を侮辱してるわけじゃないし……。」

「五月蝿い黙れ。私は、汝が大嫌いだ。お前に拒否権は無い。」

そ、そんな馬鹿な……。冗談だろ?

姫が僕に向かって斬りかかる。風が空気を裂く、ヒュンという鋭い音。風圧だけで、僕の右頬にピシリと一筋の線が入った。……痛い。

そっと指で頬に触れると、赤い血がついた。……間違いない。姫は、僕を本気で殺すつもりだ。

斬ーー僕の周りの空間が揺れる。避けなきゃ殺られる……理屈ではなく、本能で感じた僕は、後ろに跳躍し木の陰に身を隠した。

スパッと音がするような勢いで、僕の目の前の木が切断される。ドオオォン、という轟音と共に木が倒れ、地響きがした。

僕は、木の陰から陰へ飛び移る。その一つ一つを、姫は正確に切断していく。……逃げ場を、無くすつもりか……‼︎

しばらくしてーー僕の周囲にあった木々は、見事になくなってしまった。

「もう逃げられないだろう?避けるだけでは、命は守れないーー私と戦え‼︎

姫は、僕の喉元に剣を突きつけた。冷たい刃の感触に、背筋が震える。

僕は、静かに目を閉じた。

「どうした?戦わないのか?私は、今すぐ汝の首を掻き切ることが出来るんだ。命が惜しいのなら、私を殺すがいい。」

「…………。」

僕は、ゆるゆると首を振って両手を肩の高さまで挙げた。

「僕に戦う意思は無い……。君の好きにすれば良いよ。」

「…………‼︎

姫の全身から、殺気が立ち昇った。目を閉じたままでも、姫が怒っているのがはっきりと分かる。

「先程、お前は命は大切だと言ったよな。ーー自ら、死を願うのか?」

「分からない……。生かすも殺すも、姫の自由だ。僕は、姫に命を救われたから……、姫になら殺されてもいいかもしれないって、思えるんだ……。」

「…………。」

姫の反応は無かった。ただ、爆発していた殺気が収まり、代わりに深い悲しみの感情が僕に伝わってきた。

そっと目を開けてみると、今にも泣き出しそうな顔をした姫が立っていた。

「……汝の言葉には、嘘が無い……。私はやっぱりお前が大嫌いだ……。」

姫は、突きつけていた剣を離しーー僕は安堵のため息をつきかけーーたが、姫がニヤリと笑ったのを、僕は見逃さなかった。

突然向きを変えた鋭い刃が、僕に向かって飛んできた。ヤバイ、と思う前に身体が反応する。素早く上半身を捻って刃をかわしたが、脇腹に熱い痛みが広がった。

剣先が掠ったらしい。服を貫通した刃は、避けなければ僕の腹に刺さっていたことだろう。

姫は、剣を持ち直し、ゆっくりと僕の眉間にあてた。……え、これは……流石に……。いくら僕でも、急所を一撃で突かれたら死ぬ……。

咄嗟に手が出て、刃を掴んだ。掌に赤く切り込みが入り、ぼたぼたと血が滴り落ちる。痛い……。感覚が麻痺してしまいそうだ。思わず苦痛に顔を歪める。

「今日はこれぐらいで勘弁してやる。」

姫が微笑んだ。全てのことが万事上手くいったような、清々しい笑顔。

えっと……、これはただ単に姫の腹癒せに付き合わされた、ということですか……?……ってことは、命は助かっ……た……?

「私は、汝が苦しむ顔が見たかっただけなのだ。……痛いか?」

姫が、ニコニコした笑顔で聞いてくる。……悪魔だ。天使の笑顔なんかじゃない。悪魔の微笑みだ。

僕は、割かれた脇腹に手をあてる。掌全面が、真っ赤に染まる。滝のように流れ出る血は、地面に落ちては吸い込まれていく。

「……痛いに決まってるじゃないか。この血の量を見て、分かるだろう?」

姫は、コクッと頷いた。その仕草は何とも言えない可愛さだが、話の内容と言動が一致していないような気がするのは気のせいか。

「……仕方ない。治してやろう。」

姫が、満足そうに言った。ーー何で上から目線なんだろう、僕をこんな目に合わせたのは姫じゃないか……。

姫は僕の手を取り、優しく両手で包み込んだ。……さっきまで、本気で僕を殺そうとしていた奴の表情ではない。穏やかで柔らかく、口元には暖かい微笑みを讃えていた。

訳が分からない……。姫の思考が読める能力が欲しい……。

姫の手の内から、光が溢れ出す。以前、僕が魔朧に受けた傷を姫が治したときと、全く同じ光景ーー。

しばらくすると、光が弱まり、辺りはシンと静まり返った。

姫が、乱暴に僕の手を振り払う。

掌を見てみると、傷は綺麗に塞がり痛みも消えている。周りを見てみると、姫が斬り倒した木は元に戻っていた。

「君の力には、つくづく感心させられるな。本当に、どうやったらそんな魔法みたいなことができるんだ?」

「ーー……私の力は生まれつきだ。別に望んだわけでもない。」

姫の不思議な力。

初めは、傷を癒すだけかと思っていたが、そうではなかった。姫は、時を操る力を持っていたのだ。

だから、僕の周りの時間を巻き戻し、痛みを感じる前の状態にすることができたーー。


だいぶ前のことだが、姫に力のことを尋ねたとき、こう言っていた。

「私の力は、人間が持ってはいけない力だったのだ。この力があれば、死者を蘇らせることだってできる……。私は、最終兵器なんだそうだ。」

この言葉を聞いた瞬間、僕の背筋がゾクリと震えた。

姫一人が国に居れば、その国は間違いなく戦争に勝つ。強大な富と権力を、手にすることが出来るーー……。

なんとなく理解出来た。姫の内に存在する、孤独と失望、激しい怒りが。

この娘を救ってあげたい。そう想い始めたのは、何時頃だったのだろう。僕なら、姫を絶望の淵から助け出せると思い込んでいたのは、単なる思い上がりだったのだろうか……?

何一つ進展していない。

出会ったあの日から、姫と僕の距離は一定に保たれている。

どうすれば、魔朧に支配されたこの国を救い、姫に普通の暮らしをさせてあげられるのだろうーー……?


「……おい。聞いているのか、汝。」

急に姫に問われ、僕は顔を上げた。

「どうした、ボーッとして。考えごとか?冴えない顔をしているぞ。」

「うん……ちょっと、ね。」

姫は、ふぅんと愛想のない返答をし、剣を片手に森の奥へ消えてしまった。

姫に殺されかけたとき、姫にとって僕は、多分どうでもいい人間なのだと思った。何の思い入れもない、唯の旅人なのだ。姫の中では、魔朧と同等に扱われているのかもしれない。僕が死のうが生きようが、全く関係ないーー……。寧ろこの手でーー……。

そのことが、たまらなく悲しいのは何故だろう……。

僕にしか出来ないこと。僕はまだ、未だに答えを探し出せないでいる……。


それから、また時が過ぎーー……。ある晴れた日の朝のことだった。

いつものように、陽の光を浴びて目覚める。寝ぼけ眼で上半身を起こし、ふわぁと一つ欠伸をしかけーー僕の動きが止まった。

姫がいない。いつもなら、僕より先に起きているはずのない姫が、今日はベッドにいなかった。

「……姫……?」

僕は、姫のベッドに近づいて……。身代わりのように置いてある手紙に気が付いた。

そこには、血文字で“我此処に復讐す”と書かれていたーー……。


「姫……っ、姫‼︎

僕は、息を切らしながら走る。森を抜けてから、どれぐらい姫の名を呼び続けたことだろう。声が枯れて、無性に喉が渇く。

何処にいったんだ、あの人は……⁉︎たった一人で、僕に何も言わず。

「っ……はぁ、はぁっ……。」

呼吸が苦しい。もう走れない。僕はその場に膝から崩れ落ち、地面に両手をついて肩で大きく息をした。

どうしよう……、僕はこの国のことを全く知らない。一体、何処へ消えたんだよ……?

「……人間ダ……。」

不意に声が降って来て、僕の背筋が凍りつく。振り返りたくないのに、振り返らざるを得ないこの状況が、堪らなく悲しい。

ギシギシ鳴る首を回し、その人を見る。一人の男が、静かに佇んでいた。

「……あなたは、魔朧ですか……?」

僕は、ゆっくり聞いた。赤い目が僕をジッと見つめる。

頷きもせず、首を横に振りもしない。血の気のない顔は、相変わらずの無表情だ。

「僕は、姫を捜しています。魔朧に憑かれていない女の子です。知りませんか?」

「…………。」

何を……聞いているんだ僕は。魔朧が答えるわけないじゃないか。

「し、失礼します‼︎

僕は回れ右をしてーーい、痛ッ……⁉︎

右足に激しい痛み。思わず膝をついて呻く。見ると、短剣が深く刺さっていた。流れ出る血は、みるみるうちに量を増し、地面に赤い円を描く。

背を向けた僕の足に、魔朧が短剣を投げたらしいと分かったときには、もう遅く。

目の前で、魔朧の男が持つ剣の刃が煌めいてーー……。

間に合わない。

ドクン、ドクンと心臓の脈打つ音が妙にはっきりと聞こえる。男の動きが、スローモーションのように見えた。時が止まってしまったかのように、身体は動かないのに、足の傷は容赦無く痛み続ける。

僕は、迫りゆく死を覚悟したーー……。


「……立て。」

頭の上で声がした。それはもう、聞き慣れてしまった声。そして、今僕が一番聞きたかった声ーー。

「……姫?」

僕は、ゆっくり顔を上げた。

姫がーー僕の前に立っていた。意志の強い瞳が、僕をジッと睨みつけている。

「姫、来てくれたん……。」

感動しかけた僕の右頬で、バチンという鋭い音がした。痺れるほどの痛み。

姫が、俯いたまま肩で大きく息をしていた。瞬間的に、自分は姫に平手打ちをくらったことを悟る。

「勝手な……真似をするなっ‼︎誰が森を抜けてもいいといったんだ‼︎もう少しでお前は、魔朧に殺されていたんだぞ‼︎

姫の声が、エコーをかけて僕の脳内を駆け巡る。

「……ごめん、姫……。でも、姫が……あんな手紙を残して行ってしまうからーー……、止めなくちゃって思って……。それでーー……。」

「汝は私を止めるつもりだったのか?お前が来たところで、私の心は変わらないぞ。」

「ーーだけど。」

僕は、倒れている魔朧を見た。

「姫は……僕を助けてくれた。見殺しにしなかった。」

「ーー……‼︎

「本当は、復讐なんてしたくなかったんじゃないのか?何処かで、僕に止めてほしいとーー願ってたんじゃないのか?……だから、僕を助けてくれた。」

「違う……違うっ‼︎わた……しは、今から、両親を暗殺しようと……、計画を……立て、て……。」

姫の声が、微妙に震えている。

僕は、姫の肩にそっと手を置いた。

「……帰ろう、姫。」

姫は、一瞬大きく目を見開いたあと、微かに頷いた。


それから姫は、時々行方を眩ませることがあった。

何処に行っているのかは謎だが、森を出るとまた姫に怒られるので、後をつけることはできない。

僕は、一日の大半をのんびりと森で過ごすようになっていた。

湖の畔で寝転び、風の音を聞く。ぽかぽかした陽の光が、暖かく降り注いでくる。僕の隣にやってきた山犬が、寝息を立て始めた。

「……こんなところにいたのか。」

上から声が降ってきた。

上半身を起こして振り返ると、腕組みをしてしかめっ面の姫がいた。

本能的に危険を察知した山犬が、慌てて逃げようとする。

「大丈夫。怖くないよ。」

僕は、山犬の頭を優しく撫でた。

「姫が妙な殺気を振りまいてるから、動物たちが怯えるんだ。もうちょっと何とかならない?」

「そんなこと知ったものか。私は、森の嫌われ者だからな。」

姫は、僕の隣に腰を下ろした。

「汝は……何のために、旅を続けているんだ?」

突然の質問に面食らった。

「何のために……って……。」

僕は、答えようとして、口をつぐんだ。何と無く、躊躇ってしまう。

「汝の旅の目的は何だ。言ってみろ。まさか、放浪の旅では無いだろうな?」

姫の視線は、とても冷たいものだった。

「僕が旅を続ける訳は……。」

そのとき、大気が揺らいだ。蜃気楼が立ち込め、世界が歪む。

一体、何が起こったんだ?

「結界がっ……破られた‼︎

姫の顔が強張る。え、結界……?

「この森に魔朧が侵入出来ないよう、私が結界を張っていたのだ。しかし、今ーー誰かが結界を越えた。私の結界が解けるのは、あの人しかいない。」

あの人……。まさか。

「姫の……両親?」

「あぁ、そうだ。私以上の魔力を持つ者は、そういないからな。」

ーー……そんな、ことって……。

「汝よ、私から離れるな……。」

姫は僕の前に立つと、フゥーッと深く長い息をついた。

その直後。爆発するような殺気が姫を包みこんだ。思わずよろけて、二、三歩後ろに後退する。

「離れるな‼︎

姫の声にビクッとして震え上がる。目で追えないほどの速度で、姫の左手が僕の首根っこに絡みつき、グイッと引き寄せられた。……僕は猫か‼︎

僕は困惑しながらも、目の前にある姫の顔を見つめた。唇が微かに動いているところを見ると、またしても呪文を唱えているらしい。

姫の右手が、スッと伸びた。

「ーー去れ‼︎

姫の人差し指から、眩い一筋の光が矢となって放たれた。真っ直ぐに森の中を抜けていった光は、やがて全く見えなくなった。

「……追い返したの?」

「……あぁ。ただ、一度破られた結界は脆くなる。次は、もっと容易く侵入されるだろう。」

「…………。」

分かっていた。

この暮らしが、いつまでも続くはずはないと。もうすぐで、終わりを迎えるのだと。

頭では、分かっている……分かっているはずなのに……。

僕はまだ、終わらせたくなんかないのだ。今はただ、姫と一緒にいたいだけなのに……。


……そんな願いも虚しく、僕と姫の運命を決める決定的な“時”は、刻一刻と迫っていた……。