魔朧の森
黒猫
~オープニング~
あるところに、小さな国がありました……。
強くて立派な王と、賢く美しい妃が国を治めていたので、小さな国の人々はとても幸せでした。
王と妃には、娘がいました。
しかし、娘には特別な力が備わっていました。その力を恐れた王は、城の奥の部屋に娘を監禁し、二度と人目に触れないようにしました。
やがて、月日は流れーー。
小さな国の幸せは、壊されました。
夢が、希望が、未来がーー全て、人々の中から失われました。
そしてーー……。
~1幕~
どうやら僕は、とある小さな国に迷い込んでしまったらしい……。
地図にも載っていないような、本当に小さな国。一体、どうやって入り込んでしまったのだろう……?
僕は、不安になって、足を止めた。
さっきから、随分歩いた気がするのに、人が一人もいない。国全体が、不気味な静けさに包まれている。生き物が住んでいる気配すらない……。
恐怖に駆られて、僕は走り出した。
右も左も分からないまま、無我夢中で走る。息が切れて、呼吸がしづらい。それでも、足を止めたくはなかった。
しばらく行くと、民家が立ち並ぶ小道に入った。民家の屋根に突き出た煙突からは、煙が細くたなびいている。
良かった……、ちゃんと人が住んでいるんだ……。
ホッと胸を撫で下ろしながら、僕は民家の扉を軽く叩いた。
「あの……すいません……。誰か、いませんか……?」
……返事はない。それどころか、中から物音一つしなかった。
諦めずに、もう一度ノックしてみる。
「誰かいたら、開けて下さ……。」
かちゃり……静かに、扉が開いた。
僕は、ひっと短い悲鳴を上げ、立ち尽くしてしまった。金縛りにあったかのように、身体が動かせない。
扉を開けた人物は、生気のない顔をしていた。暗く淀んだ目には、一欠片の光すらない。まるで蝋人形のような、無表情。思わず、霊界から蘇った死者を連想してしまった。
「旅ノ方……デスカ?」
感情のこもっていない、機械で合成したような声。
僕は、ぎこちなく首を縦に振った。
「食事ノ用意ヲシテイマスノデ……ヨロシケレバ、ドウゾ……。」
この家の主が、部屋の奥を指差す。
そっと室内を覗き込んでみると、両手いっぱいに抱えるぐらいの大きな鍋で、ぐつぐつと何か煮込んでいた。
部屋の中に充満している異様な匂いが、ツンと鼻を突いてくる。
「スグニ出来上ガリマスカラ……。」
この家の主は、鍋をぐるぐると掻き混ぜた。
嫌な予感がする……。上手く言葉で説明出来ないけれど、途轍もなく嫌な予感がする……。
案の定。
鍋の中から、すくい上げたモノを見て僕の背筋は凍りついた。
ーー頭蓋骨……。
僕の思考は、一瞬フリーズした。
踵を返して、全力疾走。逃げるように、民家から立ち去った。
まさか……、まさかあの鍋で人間を煮ていたのか……?いや、そうじゃないと信じたいっ……
息が切れてきたので、立ち止まって呼吸を整える。吐き気がする……。
後ろを振り返って、誰もついて来ていないことを確認してから、僕は地面にへなへなと崩れ落ちた。
何なんだ、この国は……?
何度か深呼吸をして、やっと落ち着いた。心臓の鼓動が、徐々にゆっくりになっていく。
ーーもう、こんな国にいたくない。早く、出口を探さなければ……。
立ち上がりかけたとき、後ろから肩を叩かれた。びくっとして、慌てて振り返る。そこには男が六人立っていた。
「旅人カ……?」
「何故、コノ国ニ来タ……?」
全く感情のこもっていない声。
男たちは、生気を吸い取られたような目で、僕を見下ろしていた。
冷や汗がドッと噴き出す。僕は反射的に立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
ーー男たちが近づいて来たのに、気配が全く感じられなかった……。一体、この国の人たちは何者なんだ……?
頭を上げて、僕はハッと息を飲んだ。
男たちの目がーー赤く光っている。それは、他者を殺すことに躊躇いのない目……。
逃げないと、命が危ない。
にこやかに微笑んで、この場を離れようと試みたが、男たちはそう簡単に帰してくれそうにもなく……。
一瞬のうちに、周りを取り囲まれてしまった。男たちが、剣をスラリと抜いて構える。
ーー僕は、こんなところで戦わなければならないのか……。
僕も、背中に吊るした剣を抜く。
男たちが、ジリジリと間合いを詰めてきた。ーー来る‼︎!
男たちが、一斉に飛びかかってきた。風のような素早い動き。視界の端で、剣の刀身がキラリと煌めく。
一人の剣を受け止めたときには、既に別の男が背後に回っていた。僕は、慌てて剣を跳ね返すと、横に飛んで攻撃を避ける。
次々と襲ってくる剣を交わしながら、僕は考えた。避けるだけじゃ、勝てない。でも……初対面の人を、殺す訳にはいかないし……ーー。
僕は、手の内で剣を回転させながら、相手の攻撃を跳ね返す。……いつまでもつか……。
一人の男が突き出した剣が、正確に僕の肩口を捉えた。間一髪で身を翻して避けたが、剣先が少し掠った。
パッと赤い鮮血が宙に舞う。
休まることのない攻撃を避けながら、僕はそろそろ自分の限界が近いということを悟った。
右肩を庇いながらだと、どうしても動きが鈍って反応しづらい。いい加減終わらせないと、僕が劣勢なのは目に見えている。
男たち六人の、総攻撃。
ーー避けきれないッ……⁉︎
ザシュッと嫌な音がして、男の剣が僕の左肩を貫いた。全身に鋭い痛みが走る。ズパッと剣が引き抜かれると、血が噴き出て、服が真っ赤に染まった。
「いっ……つぅ……⁉︎」
僕は呻き声を上げながら、その場に崩れ落ちた。一気に腕から力が抜けて、握りしめていた剣が地面へと滑り落ちる。
カランーー渇いた音を合図にしたかのように、六つの剣の切っ先が、一斉に僕へと向けられた。
「……死ネ……。」
男の声が、耳の奥でこだまする。
ここまでか……。僕の短い生涯は、こんな見ず知らずの国で、終わってしまうのか……?
僕は、静かに目を閉じて、首を垂れた。ーーしかし。いつまでたっても、新たな痛みは感じられない。
ーー何故……?恐る恐る目を開けてみると、男が六人とも地面に倒れていた。心臓部が、赤く染まっている。ピクリとも動かないところを見ると、どうやら死んでいるらしかった。
一体、誰がーー……?
「魔朧に関わっては、いけない。」
凛としたよく響く声が、突然背後から聞こえた。
ビクッとして振り返ると、そこには美しい少女が一人立っていた。
腰まで届く艶やかな金髪。一度も太陽の光を浴びたことが無いぐらい、白く透き通った肌。意思の強い、深い青色の瞳。
思わず見とれてしまいそうな風貌なのに、さっと目を逸らしてしまった。
それは、少女の持つ剣の刃一面に、ベットリと赤い液体が付着し、ぼたぼたと雫が滴り落ちていたから……。
「君が……殺し、た……?」
そんなこと、聞かなくたって分かってる。少女の純白のスカートに、赤い斑点の不規則な模様が描かれているのだから……。
案の定、少女は当然だと言うように頷き、形の良い唇を開いた。
「安心しろ。こいつらは、人間じゃない。……見てみろ。」
「……え……?」
すると、男たちの身体が、徐々に変色していった。全身が縮み、何か薄い毛のようなモノが、全身を覆っていく。微かに、獣臭い匂いが漂ってきた。
……やがて、黒い塊が六つ、地面に無造作に転がっているだけになった。
「これは……一体……?」
「話は後だ。ついて来い。」
少女は、僕に背を向けて、どんどん歩いていく。……速い……。
慌てて立ち上がると、傷口が開いて血が噴き出た。ズキズキ痛む左肩を押さえつけ、僕は少女の後を追った。
「ここなら、魔朧も追って来られないだろう。」
少女に連れて来られたのは、静かな森だった。太陽の光が、木々の間から降り注いでいる。
「あの……、危ないところを助けてくれて、ありがとう……。」
少女は、木の幹に腰を下ろして、僕をジッと見ながら口を開いた。
「別に……、助けてやったつもりは微塵も無い。ただ、魔朧殺しがしたかっただけだ。」
少女は、剣についた血を草で拭った。
僕は、ずっと疑問に思っていたことを、少女に聞いてみることにした。
「あの……、さっきから言ってる“魔朧”って……何なの?」
「……そんなことも知らないのか?」
少女の冷たい視線が、僕に突き刺さる。僕は、小さく頷いた。
「魔朧は、心の幻獣だ。ある一人の人間の、心の闇から生み出された……。
この国は、かつては平和で幸せな国だった。しかし、魔朧が現れてからーーこの国は狂った。魔朧は、人々に取り憑き、そして、人の中にある幸福を吸い取っていくんだ。ーー魔朧に憑かれたら最期、人間の生きる術は無い。」
そんな……ことって……。
無意識のうちに、身体が細かく震え始めた。武者震いなのか、恐怖心からなのか……。
「旅人なら、魔朧に憑かれることは無い。大丈夫だ、安心しろ。」
安心出来ない……。
「僕は、この国に迷い込んだだけなんだ……。だから、早くこの国を出たいんだけど……。」
「不可能だ。」
え……?不可能……?
「この国は、入ったら最後、出ることが出来ない国なんだ。出口は、自らで探し出すしかない。かつて、この国を出た者は、一人しかいないが……私は必ずこの国から抜け出してみせる。」
少女の声には、唯ならぬ決意の念が篭っていた。……確かに、いつ魔朧に憑かれるか分からない恐怖と隣り合わせなら、この国を出たいと思っても、不思議じゃないけど……。
「君はーー見たところ、魔朧に憑かれてないようだね……?」
「私は、魔朧に憑かれることは無い。この森にいる限り、魔朧は襲って来られない。」
少女は、すっくと立ち上がると、僕に向かって歩いてきた。一歩一歩を踏みしめるようにして、ゆっくり近づいてくる少女の気迫に、僕の背が縮こまった。……こ、怖い。
このまま剣を抜かれると、叩き斬られるんじゃないだろうか……?本能的に、逃げ腰になってしまう。
「動くな。」
少女の鋭い声がした途端に、僕の身体は動かなくなった。
「動くなよ。」
再度言われるが、動きたくても動けない。身体が石になったかのように、まばたきすら出来ないこの状況。
少女の細い指が、僕の両肩に触れた。
ずきん、と痛みが全身を貫く。悲鳴を上げたいところだが、どうしてか喉で痞えたように、声が出てこない。
少女は、呪文のような言葉を、スラスラと唱え始めた。よく聞き取れないけれど、どうやら同じ言葉を繰り返しているらしい。
あぁ……、僕はこの怪しい呪文で、殺されてしまうのではないか……?
嫌な考えが、ふっと頭をよぎる。
ーーしかし。しばらくすると、不思議なことが起こった。
少女の掌の内側から、ぽぅっと淡い金色の光が溢れ出すと、僕の全身を優しく包み込んだのだ。辺り一面がほんのりと明るく染まる。
一陣の風が吹き抜け、木の葉を揺らす。森の獣たちが、嘶き始めた。
何が起こっているのか全く理解出来ないうちに、光はすぅっと弱まっていき、やがて消えた。辺りはまた、シンと静まり返る。
「もう動いていい。」
少女がそう言った瞬間に、僕を縛っていた呪縛が解けた。ふわっと身体が軽くなって、肩から力が抜ける。
嘘のように、身体の痛みが消え去っていた。両肩に受けた傷は、綺麗に塞がってなくなっている。
「今のは……何?魔法……?」
少女は、一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すぐに無表情になった。いつの間にか、血で汚れていたスカートが、純白になっている。
「ーーそのようなものだ。……汝は、私の奇妙な力を、怖がらないのか?」
え……?
「私は、真剣に聞いている。答えてくれないか。」
「…………。」
確かに、冗談で言っているようには見えない。少女の声は、真剣そのものだった。
「別に、怖くなんてないよ。君のおかげで僕の怪我が治った……。本当にありがとう。」
「ーー……‼」
少女の目が見開かれた。そしてーー少女が初めて、僕に笑顔を見せた。……天使の微笑みって、こういう笑顔のことを言うのかな……?
ーーそう。このとき僕は、気付こうとさえしなかった。
少女の笑顔の裏に、途轍もなく大きな闇が隠れていたことにーー……。
少女は、僕を森の中にある小屋へ連れて行った。木で作られた素朴な小屋はまだ新しく、室内にはほんのりと緑の香りが漂っている。
整然とした部屋に家具は少なく、小ざっぱりとしていた。
「食事の用意をするから、少し待っていてくれ。」
少女はそう言って、小屋を出て行く。一人取り残された僕は、床に座って少女の帰りを待ちながら、特に何をするわけでもなくぼぅっとしていた。
ふと床に視線を向けると、ボロボロの写真立てが落ちていることに気が付いた。故意に壊そうとしていたことが、その見た目からありありと感じ取れる。写真立ての角は欠けていて、幾つもの細かい傷がついていた。多分、何度も繰り返し床に叩きつけたのだろう。
ーーどんな写真が入っているのだろうか……?
好奇心に駆られて、僕はその写真立てを拾い上げてみた。
「ーー……これは……?」
僕の思考は、一瞬止まった。
写真には、少女が写っていた。その両隣には、両親らしき大人が二人。兄らしき少年が、少女の横で満面の笑顔でVサインをしていた。しかし、その笑顔とは相対して、少女は仏頂面である。
家族写真。それ自体に何ら違和感は無いけれど、問題はーー……。
バタン‼︎
いきなり小屋の扉が開き、ハッと後ろを振り返る。鬼の形相をした少女が立っていて、僕の背筋が震え上がった。
「えっと、その……。ごめん、勝手に見たりして……。落ちてたから、気になって、その……。」
僕の情けない言い訳は、少女に睨まれて消えてなくなった。
少女は、僕のほうに向かってつかつかと歩いてくる。……こ、怖い……。まさか、写真を見られたからには、生かしておけない……とか……?
「ーー貸せ。」
少女の手がすっと伸びて、僕が持っている写真立てを奪った。
かたん、と棚に写真立てを置くと、少女はキッと鋭い目で僕を睨んだ。蛇に睨まれた蛙の気分を味わった僕は、何も言えずに黙り込む。
「私のーー父と母、兄だ。認めたくないが、この国の王と王妃、王子だ。」
……やっぱり、そうだったのか……。
写真に写っている両親は、高貴な衣装を身に纏い、いかにも王族らしい微笑みを口元に称えていた。
……と、いうことは……この少女は、この国の姫ってことになるーー……。
「私の両親は、私の能力を忌み嫌った……。だから私を城の奥に監禁し、人目に付かないようにした……。私は、死んだこの国の姫として、育てられてきたんだ……。」
「ーー……。」
少女の全身から、殺気が溢れ出した。大気が震えて、凄まじい圧力に押される。立っていられなくなり、僕は床に座り込んだ。恐怖のためか、全身が細かく震え出す。
「……あぁ、驚いたか?両親のことを考えると、殺気が湧くんだ……。」
少女の殺気がスッと消えた。そしてそのまま、僕に向かって手を差し出す。僕は、その手を握ろうとして……空中で手を止めてしまった。
「あ、あのさ……。何で、掌が真っ赤なの?」
「……コレか?その辺にいる野生動物を斬ってきたんだ。煮て食べよう。」
少女は、ニヤリと笑った。
最悪の食事だった……。
僕は、泣く泣くそのままの食材を口に運ぶのに対し、少女は満面の笑顔。……心が痛い。まぁ、魔朧を食べるよりもましなのだろうか……?
ーーそれに、訳の分からないこの国で普通の人間に巡り会えたことは、幸運だったのかもしれないな……。
もうしばらくこの少女と共に過ごしても、大丈夫だろう……。
ただ、今の僕は、この不可思議な少女のことを、全く理解していなかった。
後に僕は、この決断を大きく悔やむことなるのだが……このときは、想像すらしていなかったのである。
取り敢えず僕は、この常識知らずの無謀人の少女を、“姫”と呼ぶことにした。
これから始まる恐ろしい大惨事など、まだ知る由もない……。