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                                                梶本真苗

春。はじまりの季節。
あたたかな太陽の光が降り注ぎ、桜の花がひらひらと舞い降ちてゆく。
私は、少しの不安と期待を抱え、まだ見慣れない門をくぐったのでした。

――
私立光香高校、1年B組。
そっと扉を開くと、教室ではすでに半数ほどの生徒が、近くの席同士で話をしていた。
……はぁ……
緊張のあまり、ぎこちない動作でようやく席に着いた私は、改めて教室を見回してため息をついた。
新しい教室、新しいクラスメート。見慣れない景色に、早くも心が沈みそうになる。
……ううん、落ち込んでちゃだめ。
がんばるって決めたんだから」
小声で呟き、風にあたろうと廊下に出た、その途端、
「わっ」「きゃっ」
向こうから歩いてきたらしい人にぶつかり、しりもちをついてしまった。
「ぅ……わ、あの、ごめんなさい……
入学早々初対面の人にぶつかってしまい、かなり慌てて謝ると、彼女は笑って、
「だいじょぶだよー、それよりこれ」
ぶつかったときに落としたらしい、私の生徒手帳を差し出した。
「椿 歌羽(ツバキ ウタウ)ちゃん、か!私、1年E組の橘 佳奈(タチバナ カナ)!よろしくねー」
「よ、よろしく……!」
私が生徒手帳を受け取ると、彼女は走っていってしまった。
後ろ姿を見送りながら、私はまたため息をついたのだった。
「友達、できるかな……?」

入学式は、とても長く感じた。回りの人たちが皆、とてもかっこよく、大人びて見えて、自分が場違いに感じて……。早くも、ここでやっていけるか不安が大きくなったのだった。
入学式が終わり、教室では早速委員決めが始まった。……と言っても、担任の先生が、
「まぁ、決めるって言っても、もう決めてあるんだけどねー」
と言って名前を読み上げ始めたので、私たちはそれを受け入れるしかなかったのだけれど。
……文化祭実行委員、男子は赤城くん、女子は椿さん……
……え」
半分聞き流していた委員発表に、突如現れた私の名前。固まっていた私の思考は、状況を理解し、急速に回転し始めた。
(
……え?文化祭、実行委員?私?しかも、もう一人は、男の子……?ど、どうしよ、私……)
実は私は、人と話すのが苦手なのである。特に男の子など、今まで話した記憶がほぼ無いくらいなのだ。
「ど、う、しよ……
高校生活1日目、混乱した私の頭の中には、しばらくその言葉しか浮かんでこなかったのだった。

高校生活、2日目。
結局昨日は、朝の女の子――橘さん以外の人とは話せずに終わってしまった。
「きょ、今日こそは……がんば、る、かな?……できれば」
なんだか弱気な目標をたてた私は、教室へと入っていった。
席についたとき、私は黒板にはってあるプリントに気づいた。その横にはチョークで、「各自、読んでおくこと」と書いてある。そこに書いてあった連絡のうちの1つに、私はしばし固まったのだった。
『各クラス文化祭実行委員は、放課後3C教室に集合。』

そして、放課後は来てしまった。それは仕方がないこととして、今私は危機に瀕していた。――集合場所の教室が、分からないのだ。昨日配られた校内の地図を見ながら教室を探していたのに、いつの間にか迷ってしまっていた。
……どう、しよう……
子供の頃から泣き虫だった私は、これくらいのことなのに、不安で泣きそうになってしまった。
とにかく知っている場所へ出ようと思い、私が1階へと向かおうとした、そのとき。
「椿、さん?」
突然に、後ろから私を呼ぶ声。
振り返ると、赤茶色の――私のよりも少し明るい色をした髪の、男の子が立っていた。誰なのかは分からなかったけれど、その人はとてもあたたかい雰囲気で、私と目が合って笑った顔に、なんだか安心して――次の瞬間、目の前に霞がかかったようになった。
「ど、どしたの?どっか痛い??」
慌てて私に問いかける声を聞いて、私は、自分が泣いていることに気づいたのだった。
「い……いえ!何でもないです、だいじょぶです!!」
急いで涙を拭いながら、恥ずかしさのあまり早口で返事をすると、
「そっか、よかった!」
彼は、さっきよりも明るく笑ったのだった。

その後話を聞き、彼が私と同じクラス、同じ委員の赤城 流斗(アカギ リュウト)くんだと分かった。彼は同じ委員の私のことを覚えていて、私がプリントを片手に迷っている様子だったので、声をかけてくれたらしい(私は迷ったと思っていたけれど、案外教室に近い場所だったようだ)
「俺も今、行こうとしてたところ!」
彼はそう言い、私を集合場所まで連れて行ってくれた。
幸い、話し合いはまだ始まっていなかったようで、教室にはまだあまり人はいなかった。その中の一人の後ろ姿に、私は見覚えがあった。確か――
「あ!椿さんだ~」
彼女――橘さんはこちらを見てにこっと笑って、
「文化祭実行委員、一緒だね!」
と言い、さっきまで話していたらしい人と、また話を始めてしまった。
(
……挨拶、できなかった……)
せっかく、こちらに気づいて声をかけてくれたと言うのに、少しも話すことができなかった。そのことで私が落ち込んでいる間に、どうやら委員の人たちが集まったようで、話し合いはそれからすぐ始まった。

……では、次の委員会は来週の月曜日なので、各クラスで、配布したプリントの連絡事項を伝えておいてください。以上です。」
実行委員長からの連絡で、最初の委員会は終わった。
……ふぅ」
これでやっと帰れると思い、私は息をついた。早く帰ろうと荷物をまとめ、教室を出ようとしたそのとき、
「なぁ!……えっと、椿さんも、一緒に帰らない?」
私は声をかけられ、思わず振り返ってしまったのだった。

そして、今。
「E組の橘 佳奈です!中学ではバレーやってたから、高校でも続ける予定!みんな、よろしくー」
どうして、どうしてこうなったのか。
「じゃー次、ちーちゃんねー!」
私は、つい先ほどのことを思い返す。
あのあと私は、「え、あの、お気遣いなく……」やら、「いえ、だいじょぶです……うぅ」などというよく分からないことを口走りながら、緊張のあまり逃げ出そうとしていたのだが(それは全く伝わっていない様子だったが)、結局、1年生の文化祭実行委員数名と一緒に帰ることになったのだった。
「私は、D組の海野 千夏(うみの ちなつ)。中学は佳奈と一緒よ。これからよろしくね!」
ちーちゃんと呼ばれた、長い髪をポニーテールにした女の子が自己紹介を終えてこちらを見た。……少し現実から逃げたいところではあるが、どうやら次は私の番らしい。心臓は緊張で煩くなって、心なしか少し手も震えてきた気がする。成り行きでとは言えど、せっかくこうして友達ができるかもしれないのに、どうして私はこんなにも話すのが苦手なのだろうか……

――
なかなか話し出さない私を不思議そうな目で見てきたり、何か言ったらどうなんだと、苛立ちを覚えたり。昔は今ほど話すのは苦手ではなかったはずだけれど、どう話そうかと言葉を選んでいるうちに、大抵の人はそういう反応をした。そして私は、だんだん人と話すのが苦手になっていった。
……
別に、話をするのが嫌いだというわけではなかった。言葉を探すのが下手で、いつも言葉を見つける頃には、誰もが飽きたような顔をしていた。次こそはと思っても、今まで話を聞いてもらえなかった記憶が邪魔をして、「苦手ならもう諦めたらいいのに」と、誰かに、自分に言われている気がして、また上手くいかなくて。その繰り返しが嫌になって、不器用な自分も嫌になって、いつからか私は、人と話すことを避けていたのだった。――

……大丈夫だよ、落ち着いて?」
不意に声をかけられ、私は我に帰った。この声は、赤城くんだ。一瞬私は、なぜそんなことを言われたのか分からなかった。だけどその言葉の意味は、彼の次の言葉が教えてくれた。
「よかった、落ち着いたみたいで。……ついさっきまで、椿さん、立ち止まって震えちゃってた、から」
そして私は、やっと現状を把握した。一緒に帰っていた3人が、私を心配そうな顔で見ていた。私は――昔の、嫌な記憶を思い出してしまっていたようだ。高校に入って、少しずつでも頑張ったら、きっと昔みたいなことにはならないと思っていたのに。やっぱり私は話が苦手なまま、今までの自分から変われないのだろうか――
いきなりまわりに心配をかけてしまった、自分への嫌悪感が押し寄せてくる。謝ろうとしても、なぜだか上手く声が出ない。弱虫な自分の何もかもが嫌になって、また泣きそうになったとき――私の頭を、誰かがそっと撫でてくれた。
「無理しないで、……ほら、深呼吸して、ゆっくりでいいから」
そう私に語りかける声は、優しくてあたたかくて、まるでお日様みたいで。
「大丈夫、待ってるから」
今まで話したこともない人なのに、男の子となんて一生話せやしないとまで思っていたのに。
……うん」
不思議なくらい安心して、嫌な考え、後ろ向きな気持ちが溶けて消えていく。
……ありがとう」
久しぶりに感じたあたたかさと嬉しさで、私の心はいっぱいだった。
私の言葉を聞いて、彼は笑顔で言った。
「1年B組、赤城 流斗です。……よろしく!」
……び、B組の椿 歌羽です。よろしく、おねがいします!」

不安だらけだった昨日までが嘘みたいに、未来は明るく、あたたかく見えたのだった。――それはきっと、君と会えたから。不安な気持ちを溶かしてくれる、まぶしい太陽のような、君を見つけたから。

――
心の中で芽生えた気持ちに気づくのは、まだ少しだけ先のお話。