この地下鉄はフィクションです

 

 学校帰り。

 

 地下鉄に乗ると、やっぱり彼女はもう乗っていた。

 

「あ、こんにちは」

 

「どうも」

 

 僕は軽く会釈をした。

 

 彼女は、地元では有名な私立女子高校の制服を着ていた。偏差値も高くてお嬢様が通う学校だ。僕の通う公立高校とはひと味違う。そして、地下鉄の中でスマホや携帯電話をいじるでもなく、寝るでもなく、かといって友達と話すでもなく、一人でぼんやりして窓の外をながめていた。地下鉄らしい地下鉄なら窓の外は真っ暗だろうが、僕らが乗るのは田舎を緩やかに走る地下鉄で、ほとんど地下に潜らない。地下鉄と呼んでいいのか、と思うほどに。

 

 それはともかく、彼女は、今時の高校生にしてはめずらしいタイプだった。

 

 でもそれだけでは、僕は彼女と話すことはなかったと思う。僕はただ、地下鉄でよく乗り合わせる女子高生の一人としか認識していなかったからだ。

 

 ──まあ、今だって名前すら知らないんだけど。

 

 いつか名前を、いつかアドレスを。

 

 教えてもらおうと思って、そのままずっと今まで聞けずにきた。

 

 彼女が小声で言う。

 

「今日はちょっと混んでますね」

 

「そうですね」

 

 そういえば。

 

 僕が彼女と初めて会話をしたのも、これくらい混んでいた地下鉄の中だった。今からおよそ一年前。今は高二の僕が、高校に入ってまだ一週間だった頃だ。

 

 

 

 

 

 その日、僕は帰りの地下鉄に乗っていた。たくさんの高校生や大学生に紛れて、彼女も近くに立っていた。

 

 夕方にしては地下鉄内が混んでいて、僕は目の前の高校生達のバッグをぼんやり眺めていた。その学校指定の紺色がシマウマの縞模様のような役割を果たしていて、どこまでが一個のバッグなのかわからない。よく見ると、細々と絵が書いてあるようだった。アルファベットやら丸い何かやら。

 

 ──まあ、どうでもいいや。

 

 僕は時間つぶしにスマホをいじり始めた。

 

 地下鉄がガタンと揺れて顔を上げたとき、視界のすみに妙な動きが見えた。

 

 立ったまま居眠りをしている大学生の、口の開いたトートバッグ。そこに手を突っ込んでいる一人の女子高校生の手の動きが、僕の目に引っかかった。

 

 ──スリ?

 

 その周りにも同じ制服を着た高校生が男女混ざって数人いて、さりげなく、周りの乗客からトートバッグへの視線をさえぎるような位置に立っている。今、僕が気付いたのは、地下鉄が揺れて高校生集団の一人がよろめき、壁にすきまができたからだった。

 

 その一瞬の間に、例の女子高生はトートバッグから財布を抜き取った。

 

 ──おいおい。

 

 僕が慌ててどうしようかと思っている間にも、女子高生が慣れた手つきで財布をこっそり開けた。それからお金を抜き出して、自分のポケットにねじ込もうとしたとき、

 

「何してるんですか」

 

 はっきりした声をかけて、彼女が女子高生の腕をつかんだ。高校生集団をかきわけて、彼女は女子高生をにらむ。

 

「それ、立派なスリですよね」

 

「……違うわよ。この財布、あたしのだもん。ていうかあんた何?」

 

 女子高生がまくしたてながら、彼女の手をふりほどく。

 

 僕は間に入ろうとした。一人対数人、しかも彼女はお嬢様育ち。正しいことを言っている彼女がきっとやりこめられるに違いないと思ったからだ。

 

 でも彼女はため息をついただけだった。

 

「この大学生の人に聞けばすむことですから、反論はしませんけど。自首した方がいいですよ、A高校二年のタグチさん」

 

 女子高生が目に見えて緊張した。名前を言い当てられたらしい。

 

「それに周りの人達……同じくA高校の、バスケ部仲間ですね。マチダさん、ノムラさん、タブチさん、アイハラさん、カノさん」

 

 一人一人に目線をやりながら、彼女が名前を呼んでいった。全員が動揺したところを見ると、彼女はなぜか、全員の名前を知っているらしい。知り合いでないのは明らかだ。

 

 車両中の視線が彼女と高校生集団に集まった。そうなってからやっと、大学生は目を覚ました。

 

 彼女は女子高生タグチから財布とお金を奪い取った。それを大学生に差し出す。

 

「これ、お兄さんのでしょう? スリにあうところだったんですよ」

 

「えっ、ウソ。ありがとう」

 

 そう言いながら大学生が彼女から財布を受け取った。

 

 そのとき、地下鉄が減速を始めて、アナウンスが流れた。次の駅の名前をのんきに繰り返す。

 

 彼女はそのままぺこっと頭を下げた。

 

「すみません。私ここの駅じゃ降りないんです。ここの次なので、お兄さんがこの駅の駅員さんのところへこの人達を連れていって下さい」

 

 やっと事情が飲み込めたらしい乗客達が騒ぎ始めた。高校生集団は、名前をあげられたせいで逃げても無駄だとさとったらしい。しおらしく集まって、乗客に囲まれている。

 

 地下鉄が停まって、ドアが開いた。高校生を捕まえている何人かの乗客が降りていく。彼らと一緒に降りかけたところで、大学生が振り向いて彼女に声をかけた。

 

「一緒に駅員さんのところに来てよ。お礼もしたいし、目撃者にもいてほしいし」

 

「たいしたことはしてません。それに目撃者なら、そこでスマホを持っているN高校一年の人もそうだと思いますよ?」

 

 彼女に指さされて、今度は僕に視線が集まった。僕は焦って、自分を指さした。

 

「僕ですか? いや、僕は、」

 

「見てましたよね?」

 

「それはそうですけど……」

 

 制服を見て学校はわかってもおかしくない。でも。

 

 ──なんで学年までわかるんだよ?

 

 うろたえる僕と、彼女。目が合って、そのとき彼女は確かにくすっと笑った。

 

「じゃあ君でいいや、来て」

 

 大学生に手を引っ張られて、僕も仕方なく地下鉄から降りた。

 

 ドアが音を立てて閉まる。

 

 もう一回、ぺこっと頭を下げた彼女を乗せて、地下鉄は去っていった。

 

 それを見送ってから僕は、大事なことに気付いた。

 

「僕だって、この駅で降りるわけじゃないのに……」

 

 というよりもむしろ、彼女が降りるはずの次の駅より、さらにもう一駅先で降りるはずだったのに。

 

 彼女が降りるらしい、ここの次の駅は、学園都市駅。

 

 彼女の名前もわからないままだったので、ひとまず僕は彼女を「ミス・学園都市」と呼ぶことにした。

 

 

 

 翌日の帰りの地下鉄の中でも、僕はミス・学園都市こと彼女に会った。その日は乗客が少なかった。

 

 僕が地下鉄に乗ると、彼女はもうすでに同じ車両に乗っていた。目が合うと軽く会釈をしてくる。ならばと僕もなけなしの勇気を振り絞って話しかけた。

 

「昨日は予想外の目にあいましたよ」

 

 駅員室で、目撃談を二三回しゃべらされただろうか。帰る頃には日がとっぷり暮れていた。

 

 彼女が肩を縮めた。

 

「それは申し訳ありませんでした。家族が心配するので、あまり遅くなるわけにもいかなかったんです」

 

 僕は感心した。あのくらいの時間で心配されるとは。やっぱりお嬢様だ。

 

 僕が黙っていると、彼女がたずねてきた。

 

「昨日のあの人達は、スリの常習犯だったんじゃありませんか? 駅員さんなら知っているかもしれないと思っていたんですが」

 

 僕はぎょっとした。

 

 ──だから、なんでわかるんだ。

 

「正解です。連れて行った瞬間、駅員さんがため息をつきました」

 

 駅員の嫌そうにこぼす声を思い出す。

 

『またこいつらか。いったい何回やったら気がすむんだ』

 

 今まで何度か、スリで駅員室に来ていたそうだが、未遂ならいいだろうと親に連絡するだけになっていたらしい。親がうっとうしいのも、警察には届けられなかった原因の一つだったとか。

 

『スリなんて小さいこと、それも未遂なのにそれでうちの子の将来をつぶすなんて!』

 

 絵に描いたようなバカ親で、駅員が気の毒になった。

 

 そこまで話すと、彼女は思慮深そうにうなずいた。

 

「やっぱりそうですか」

 

 僕の口から疑問が飛び出た。

 

「なんでそんなことまでわかるんですか? 前にもあの連中のスリの現場を見たことがあるとか?」

 

 彼女は首を横に振った。

 

「いいえ。ただ、あの人達の立ち回りを見るかぎり、どう見ても初犯には見えなかっただけです。ただの推測です」

 

 彼女が続ける。

 

「あの様子では、未遂で終わっていない事件もたくさんあるでしょうね。これまで発覚していないだけで。それで、結局彼らはどうなったんですか? また見逃しですか?」

 

 今度は僕が首を振った。

 

「結局、駅員さんの我慢が切れて、警察のお世話になってましたよ」

 

 僕も警察官にお礼を言われた。でもあまり嬉しくなかった。理由は一つだけ。

 

 ──連中を捕まえたのは僕じゃない。

 

 それを知ってか知らずか、彼女が満足そうな顔をして言った。

 

「よくわかりました。何から何まで押しつけてしまってすみませんでした。それから、ありがとうございます」

 

 僕は一歩踏み込んで質問をぶつけた。

 

「じゃあ教えて下さい。なんであの高校生達の部活や名前を知ってたんですか? それに、僕の学年だって知ってましたよね」

 

 彼女は小さく笑った。

 

「千里眼です」

 

「…………非論理的ですね」

 

 僕が冷たく答えると彼女は肩をすくめた。

 

「冗談ですよ。言ってしまえば、拍子抜けするほど簡単なことだと思います。まずはあなたの学年についてですが」

 

 彼女が細い指で僕の制服のあちこちを示した。

 

「箱に入っていたときの折り目がまだかすかにズボンに残っていますし、ちょっと袖が余っています。新しくて少し大きな制服を着ている証拠です。何より、しつけ糸がほんの少し残っていますよ」

 

 僕は慌てて学ランの裾を探った。確かに、白いしつけ糸がわずかに残っていた。

 

「うわ、気付いてませんでした」

 

 続いて彼女は、僕の学ランの襟を指さす。

 

「それからあなたのは、最近お会いしたN高校の人の学年章とは色が違っていました。これだけそろえば、新入生だと考えられます」

 

 それだけ言われて、僕はため息をついた。

 

「すごい観察力ですね。しつけ糸は一センチくらいしかないし、学生章は豆粒サイズなのに。刑事か探偵みたいじゃないですか」

 

「私、人間観察が好きなんです」

 

 彼女は胸ポケットからメモ帳とペンを取り出して、何か書き始めた。書きながら説明する。

 

「次にあの高校生達の部活についてです。あの人達のカバンをはっきり見ましたか?」

 

 僕は記憶をたどった。

 

「全員同じやつでしたね。学校指定のカバンでしょう」

 

「はい。そしてカバンの横には、ビニール加工してある部分があったんです。そこに油性ペンで絵が書かれていました」

 

 脳味噌をさらにしぼってから、僕は答えた。

 

「何か、丸い絵でしたね」

 

 彼女がちらっと笑顔を見せた。ミス・学園都市の名前にふさわしい、上品な笑顔だ。

 

「正解です」

 

 こういうのですよ、と彼女が出してきた絵は、正直うまくない。が、特徴はとらえているはずだ。

 

 丸の中に十字型に線が引かれていて、その横向きの線にだけ交わるように、外へ開いた曲線がある。

 

 どうやらバスケットボールらしい。

 

 はたして彼女は話し出した。

 

「一番よくある、バスケットボールのイラストです。男女バスケットボール部の部員全員のカバンに描いてそろえているようですね。彼らのカバンには二つ並べて描いてありましたよ」

 

 ──いや、ボールの絵って二センチ足らずの大きさだったよな。それを目に留めたってことか? まあ、学生章に気付いたミス・学園都市ならおかしくはないけど。

 

 感動すらしている僕を見て首を傾げながら、彼女はさらに続けた。

 

「それから名前です。ノムラさん、アイハラさん、カノさんの男子三人はわかりやすかったです。名字で呼ばれていましたから」

 

「え、いつですか?」

 

 僕は記憶の中をひっかき回した。昨日、彼らが名前を呼び合っていたことはあっただろうか。

 

 ──ないよな、たぶん。

 

 今からスリをしようというのに、名前を呼び合って騒ぐわけがない。

 

 彼女は何の気なさそうに答えた。

 

「いつと言われても、正確には答えられません。新学期が始まってからになりますから、ここ一週間なのは間違いないんですけどね。地下鉄で見かけたときに、名字で呼ばれていました」

 

「ちょ、待って下さい。じゃああなたは、地下鉄で見かけただけの高校生の名前を覚えてたってことですか?」

 

「そうです。あら、普通のことじゃありませんか?」

 

 心の底から不思議そうな彼女を見て、僕はため息をついた。

 

「全っ然、普通じゃないです」

 

 でもそれなら納得がいく。それだけの記憶力と、僕がさっき目の当たりにした観察力があれば、バスケットボールのマークも自然と目に入るだろう。僕のしつけ糸だって当然。

 

「女子は少し難しかったんですが、タグチさん、タブチさん、マチダさんの共通点に気付いてからはすぐわかりました」

 

「共通点? あ、もしかして」

 

 僕は気付いた。空中に文字を書いて、彼女に説明してみる。

 

「田、の字じゃないですか? あの三人の名字なら、漢字はおそらく、田口、田淵か田渕、町田でしょうから」

 

「その通りです。彼女らのカバンにあったバスケットボールのイラストをじっくり見たとき、気付きました。二つあるうちの片方のバスケットボールの絵が、違っていたんです」

 

 また彼女がメモ帳に描いている。それを見せられて、僕も、あ、と声をもらした。

 

「なるほど、田、ですね」

 

 バスケットボールの絵から曲線だけを取り除けば、田の漢字から角を取った形になる。

 

「そうでしょう? ちょっとした仲間内の冗談だったんでしょうね。あとは簡単です。彼女らはそれぞれ、グッチー、ブッチー、マッチー、と呼ばれていました。それをありがちな名字になるように田と組み合わせるだけでわかります」

 

 僕はふと思いついて質問した。

 

「学年はどうやってわかったんですか?」

 

「バスケットボールの数です。彼らのバスケットボールの片方は薄く、片方は濃い。今年になってから書き加えた証拠です。それに以前、同じ制服を着た人でバスケットボールが一個だけの人を見たことがありましたし、三個ある人も見たことがあります。絵の数が学年を表しているんだろうと気付けば、彼らが二年生なのはわかりました」

 

 立て板に水だ。ミス・学園都市はぺらぺらと理論を展開する。

 

「……よくわかりました」

 

 僕は改めてじっくりと彼女を眺めた。

 

 ──すごい名探偵だな、この人。

 

 彼女がけげんそうな顔になった。

 

「私の顔に何かついてますか?」

 

「いや、大丈夫です」

 

 答えながら、ふといたずら心がわいた。僕はさらに言った。

 

「お見事。すばらしい名推理でした。地下鉄で乗り合わせただけの人のことなのに、何でもわかっちゃうんですね」

 

 僕の名前って当てられますか? そうたずねてみようと思ったとき、地下鉄が減速し始めた。アナウンスが流れる。

 

「次は、学園都市。学園都市です」

 

 ミス・学園都市はぺこっと頭を下げた。

 

「じゃあ、私はここで」

 

 地下鉄が停まり、ドアが開く。

 

 タイミングの悪さに呆然としている僕の前で、彼女は地下鉄から降りていった。

 

「ちょ、ちょっと待ってくださ……」

 

 我に返って引き留めようとした僕の鼻先で、無情にも地下鉄のドアが閉まった。そして地下鉄は発車する。

 

「そりゃないだろー」

 

 僕はドアの窓ガラスに張り付いて、遠ざかっていく駅のホームと、ミス・学園都市を見つめた。

 

 

 

 

 

 そこまで明確に思い出せることに、内心苦笑してしまった。

 

 ──話せてどれだけ嬉しかったんだよ。

 

 そして今に至る。今までにもいくつか事件があったが、その話はどうでもいい。

 

 ──今日こそ必ず聞こう。

 

 そう思いながら、今日もまた、彼女とたわいもない話をして時間を潰してしまった。

 

 地下鉄のアナウンスが流れる。

 

「次は、学園都市。学園都市です」

 

 ミス・学園都市がぺこっと頭を下げる。

 

「じゃあ、私はここで」

 

 地下鉄が停まって、ドアが開いて、

 

 ──今行くしかない。

 

 もう地下鉄を降りた彼女の背中に声をかける。

 

「あの、待って下さい!」

 

 僕は駅のホームに足を踏み出した。彼女が驚いたように振り向く。

 

「はい?」

 

 携帯電話を取り出し、僕は息を吸い込んでから言った。

 

「ええっと、お名前とアドレスを教えて下さい」

 

 僕の後ろで、僕とミス・学園都市のミニドラマを乗せていた地下鉄が発車した。

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