融けてしまった雪は地面を冷やし、次の雪を積もらせる。それと同時に人間関係もまた、淘汰と再生を繰り返す。

 雪は白い。その純白は妖艶な美女よりも白い。フワフワなサンドイッチのパンよりも白い。けど、あの人よりは穢れている気がした。雪と人を同一とするのはおかしいかもしれないが、そうせずにはいられないほど麗しい人だった。

 

 僕には愛しの姉がいた。美雪姉さん。僕は姉さんが大好きだ。もちろん、親愛や尊敬としての愛。いつも優しくて綺麗で僕を大切にしてくれるね姉さん。僕もいつかはあんな人になりたい。

 けど、一つ難儀な点がある。姉さん以上に心の底から惚れられる女性に出逢えないこと。姉さんがあまりにも素晴らしい人だから。美雪の名の通り、透き通った白い肌。少しクールな性格。それでいて儚さを帯びている。ネットで言う沼のような女性だ。

 そんな姉さんにも一つだけ雪と違う姿がある。美への情熱だ。美雪姉さんはプロのメイクアップアーティスト。姉さんよりも美しい人がいるはずもないのに、他人の美のために奔走している。僕はその姿を純粋に尊敬していた。そして、姉さんのような何かに熱中する大人になりたかった。

 ……あのときまでは。

 

 

 ある冬の日の姉さんは、スカウトされたばかりの男の初撮影に同行していた。その男は高校受験の直前。彼の人生で一番不安定な時期だった。そんなときにこの仕事を引き受けるのもどうかと思うが、依頼した方も悪いのだろう。そんな状況だった。

 彼はまさに原石。肌も髪質も顔も体型も、容姿全てが卓抜している。しかし、どうしようもないほど自分の素材に無頓着だった。この歳までスカウトされなかった由縁はそこだろう。彼にとっては、平凡なこれまでが幸せだったのかもしれないけれど。それもあって、最初はメイクで一気に自分の姿が変わる快感を味合わせようという判断が下された。

 

「初メイクに関われて光栄です。私、メイクアップアーティストの初風美雪と申します。今日はよろしくお願いします」

「今日は、か……あ、僕は雪都です。よろしくお願いします」

 初めの頃の彼は穏やかな好青年だった。穢れを知らない優しげな眼差しと温もりある言葉で美雪姉さん以外の現場の女性は首っ丈だ。

「若いのに雪都くんは見た目に隙だらけね。もう少し自分を大切にしなよ? ……よし、私に任せて」

 そう言って姉さんはメイクを始めた。

 まずはベースメイク。彼の肌は水光肌。その瑞々しく艶やかな肌は、思春期男子で彼しかいないと言い切れる美しさだ。何もする気が起こらなかったらしい姉さんは日焼け止めとパウダーだけ肌にのせた。色が均一になった気がする。

 次にアイメイク。冬のこっくりとしたメイクをしていった。この日の撮影はデートをテーマにしており、初対面の女の子と撮影する。それに緊張しているのか、アイメイクをされている間の彼は瞼が痙攣していた。アイホールにシャドウを塗るのが難しそうだった。それでも奥二重の部分にも色をのせる。もちろん、涙袋も忘れてはいけない。天然物も十分な大きさがあったが、デートにはキラキラとした目元が欠かせない。女の子と同様に煌めく涙袋を施していた。

 次に眉毛。眉毛は元から少し脱色気味なので少し整えるだけで済んでいた。眉毛の毛量も持ち合わせているのは、彼が原石であることの証明だろう。眉山の主張が少し強い眉毛に整えられていた。

 アイシャドウが少し乾いたところでアイラインを引いている。力強さのある凛々しいアイラインだ。

「いつも苦手なのに、今日のアイラインは綺麗に書けました。いい顔つきしてるんだね」

「え、あ、ありがとうございます」

 けど、雑談をする余裕は持ち合わせていた。さすが姉さん。

 そして、この後の姉さんが凄かった。ノーズシャドウ、チーク、シェーディングを疾風の如く終わらせたんだ。ベースメイクよりも早く終わった。得意なことはとことん伸ばす姉さんらしい仕事のやり方でもある。

 そして最後。姉さんが施すメイクの大本命、リップだ。姉さんが撮影……今日の様なデート系の撮影に呼ばれるのには訳がある。姉さんは、接吻をしたくなるような唇を作るのが誰よりも上手いのだ。実際、姉さんの唇もプルっとしていて今すぐにでも触れたくなる。けど、姉さんは安い男に自分の身体を売らないから安心だ。

 僕は美雪姉さんに口付けをしたい。初めては姉さんがいいって決めている。ふにっとしていそうな柔らかい唇。グラデーションが麗しいプルプルの唇。もしかしたら、雪のように冷たいかもしれない唇。それでも構わない。何より、僕以外の人に奪われてほしくない。誰にも知られてほしくない。姉さんの恋愛遍歴なんて知らないけれど、どうしても叶えたい僕の望みだ。

「よ、男前」

 不意に、小さな悲鳴が聞こえた。キープミストを吹きかける音も止んでいるし、彼が完成した自分のメイク姿を見たのだろう。

「嘘だ……」

 彼の声は感動と動揺が入り交じっていた。そして、とっても嬉しそうだった。誰よりも大きな雪だるまを完成させたときのような満足感も帯びている。

 

「じゃあ、撮影行ってらっしゃい」

 服を選んで髪を整えて、もう一度メイクを確認した姉さん。そしてすぐに彼を撮影場所に連れて行った。そこには三人の女の子がスタンバイしている。彼女たちは彼と同い歳だけど、芸能関係の高校に推薦で合格しているらしい。余裕が笑顔に滲み出ている。

「それでは撮影を始めます。至極の写真を撮るので楽しんでやっていこう」

 カメラマンの声を合図に手を繋いだり、ハグをしたり、ハートマークを作ったり。所謂「恋人」のような仕草を彼らはこなしていった。僕はそれが陳腐としか思えず気に入らなかった。折角美雪姉さんがメイクしたんだ。もっと美しく写ってほしい。

 

 撮影は順調に終わった。いや、あまりにも順調すぎた。もし時間がかかっていたら、彼は姉さんにもう一度会うことなんてなかったかもしれないのに。もう考えても無駄だ。起きてしまったから。

 

「メイクアップアーティストのお姉さん!」

 撮影後、彼は姉さんに話しかけた。その純粋な瞳が嬉しかったのだろう。姉さんはすぐに会話を始めた。幸か不幸かその日の仕事は全て終えていた。

「どうしたの雪都くん。あ、私のことは美雪でいいよ」

「じゃあ美雪さん! 僕と恋仲になってください!」

 それは、唐突な告白だった。きっと、姉さんに一目惚れしたんだ。きっと、これまでに何人もの人が姉さんに惚れてきた。けど、誰一人として付き合った人はいないと思う。麗しさに対する遠慮があったのだろう。

「……いいわよ」

 初めての告白だったのだろうか。あまりにも姉さんが嬉しそうだ。まさかすぐに応じるとは思っていなかった。こうなったのなら、僕は、僕は、僕は……。

 

 

 ここまでが僕の知っている話。消える気配のない記憶が、焼き付いてしまった光景が仇となった瞬間だと思う。

 僕は今、姉さんの彼氏を殺めようとしている。告白された直後から姉さんはずっと唇を気にしているのだ。きっと、接吻する未来が近いことの暗示だ。そんなこと、させてはいけない。僕以外が奪っちゃいけないんだ。

 姉さんを親愛的に愛している身として、姉さんを好青年の皮を被った獣であろう彼に渡す訳にはいかなかった。それくらい姉さんを愛していた。僕は間違っていない。全て彼が悪い。姉さんを狂わした彼が悪い。だから僕は彼を殺める。

 折角なら美を知ってしまった彼を醜悪にしてから殺したい。僕は冬休み中の学校に向かい、科学教室の戸棚にある塩化水素を持ち出した。廃棄処分される噂を聞いたが、それくらいなら有効活用された方がきっと幸せだろう。

 僕はすぐに姉さんのスマホから彼を呼び出した。姉さんのスマホには僕の指紋が登録されている。開くのは簡単だった。それに、お使いのメモをスマホで渡されたから持ち出すのも容易だったし。こういう抜けた姉さんも僕は好きだ。

 呼び出し場所に向かうと、姉さんから聞いた容姿に合致する、忘れたくても忘れさせてくれない男……そう、姉さんの彼氏がいた。

「キス、できるかな……」

 そう、甘い声を出す彼が。理性が切れた僕は彼の顔に塩化水素と手持ちのペットボトルの水をかけると、彼の心臓に包丁を突き刺した。出会ってから十秒も経っていない。なのに、彼は死んだ。

 僕は満たされる……はずだった。けど、どうも満たされない。さっきよりも腸が煮えくり返っている気がした。おかしい。姉さんの美に反するような彼を排除したのに。

 そのとき、僕は嫌な予感がした。僕は彼が嫌だったんじゃないのかもしれない。低俗な彼に易々と惚れてしまった美雪姉さんが嫌だったんだ。こんな、すぐ死んでしまうような彼に引っかかった姉さんが嫌だったんだ。もちろん、そうさせた彼も憎たらしかった。姉さんを返せと思った。けど、姉さんも姉さんだ。そうだ、姉さんが悪いんだ。

 そう気づいた僕はすぐに家へ帰った。いても立ってもいられない。僕は、姉さんの命を奪わなきゃ。これ以上姉さんが穢れる前に。

 

 バタバタと家へ帰る。どこもかしこも雪が積もっている。雪を見る度に苦しくなった。美雪姉さんよりも美しい雪なんてないと思っていた。それなのに、今の僕には雪の方が美しく見えてしまうから。姉さんの心変わりに耐えられなかった。

「姉さん!」

 家に着くとすぐさま姉さんの部屋に飛び込んだ。姉さんはネイルをしているところだった。

「美雪姉さん。僕は姉さんが大好き。誰よりも自分の美を大切にしている姉さんが大好き。自分の美で誰かを笑顔にしている姉さんが大好き。けど、姉さんは誰かのものになっちゃった」

 そこまで淀むことなく言い切ると、姉さんは動きを止めた。僕が何を言い出したのか理解できないようだった。

「誰かのものになった姉さんに純粋さなんてない。けど僕は姉さんに美を取り戻したよ。けどね、一度でも美を離してしまった姉さんも悪いと思うんだ。だから、僕から初心に帰るプレゼントだよ」

 伝えたいことは全部言った。そして、首に包丁を突き刺した。さっき二本持って出掛けたのは正解だったらしい。座っている人に狙いを定めるのは至極簡単だった。

 最後に美雪姉さんへ接吻を施す。まだ温かく柔らかい、自分の追い求めた感触だった。今にも脳が溶けてしまいそうなほど幸せだった。

 そうして僕は家を出た。晴れ渡る空の下で雪兎を作る。そして、添い寝をするように眠った。美しい過去の姉さんを愛しながら。そして僕は気付いたんだ。

 僕は彼より醜いことを。