ある日の海中で
音呼
「五月三日土曜日、本日の気温は十四度と、またしても昨年の平均気温を下回りました」
ラジオから流れる声が、波紋状に広がる。ざぱり、と空気に顔を突っ込む。肌を突き刺す暖かい空気、耳をつんざく鳥の鳴き声、芯に響く巨大爬虫類の足音。少しの息苦しさと共に、なんとも言えないノスタルジックな感傷に浸る。どこまでも続くように見える陸地が、空が、包み込んでくれるような。
と、水が揺れた。がば、ぼこぼこ。
「ここにいると思った。折角の部活もない休日なのに、風邪でもひきたいの?」
「突然足を引っ張るなよ。週末課題のレポートを書こうと思ってたんだ」
「課題? そんなのあったっけ?」
手を口に当ててこぽこぽと笑っている姿に、凝り固まった眉間がどうしても緩んでしまう。刻みかけの水草を抱えて、珊瑚の側の岩に腰掛ける。
「昨今の‘地球寒冷化’への自分の考えを二千文字でまとめるやつ。君、次やらかしたら留年じゃなかったっけ?」
「まだやらかしてないでしょ?」
そろそろと水草を取ろうとする手をばちゃりと跳ね除ける。ま、丁度行き詰まってたところだし、頭を整理する必要はあるかもしれない。
「それじゃあ地球寒冷化について基本の説明だけしようか。勿論高校一年で習う内容だから、三年の君にとっては既知のことだろうけど。これからやらかさないように、ね」
恨めしげな視線を肯定と受け取り、目を水草に落とした。
「ええと、地球が生まれたとき、表面はマグマで覆われ、蒸気や窒素、二酸化炭素に包まれていた。やがて気温が急激に下がってくると、水蒸気が雨となり、千年の時を経て、海ができた。塩酸などの影響で初めは強酸性だったが、その後何種類もの元素を溶かし込んだことで、今のように生命が存在できる中性の海となった。地球ができてから数億年後、中心核がマントルを温め、海上に陸ができた」
ぼこり、と飽きたように吐かれたあくびの泡は見なかったことにしよう。
「それから五つの種族の生命が誕生し、陸上と海中に棲み分けながら、今に至る。しかしここ数十年で平均気温は六度下降し、特に南極では氷床化がもはや止められない段階に。学術誌の予想では、あと数百年で、地球の表面積の約三割は陸地になってしまうそうだ」
「えええ、それは困る! 今でさえ人間の生息域は魚類に押されて大変なのに。三割も陸になっちゃったら一体どこで生活したらいいの」
振り回す腕が、ざぶんざぶんとかき回される。巻き込まれて目を回した小さなタツノオトシゴを指で弾いてあげた。
「レポート的には、寒冷化を防ぐために、使用時に冷却する資源を大事にするとか、新しいエネルギーを見つける、とかで締めたら良いんだろうけど。でも、実は最近考えてることがあってさ」
「考えてること?」
「寒冷化で進んだ自然史の新発見のこと」
「ああ、昔、人間は地上に住んでたかもってやつ? 地球寒冷化の影響で海底火山の中まで調査できるようになったんだよね。空調設備とか紙製品とか、the陸上生活って感じのレトロな発明品が沢山出てきたとか! すごいロマンチック、すごいミステリアスな物語じゃない?」
ぼがりぼかりと音を立てる渦にまた引き摺り込まれたタツノオトシゴを捕まえ、咳払いをした。こぽん。
「今の陸上は植物、鳥類、爬虫類に支配された小さな世界だけど、当時はそれこそ地表の三割の大きさだったらしい。空気中に適応していたんだから、首のえらも、手足の水かきも無かっただろう。もしかしたら魚類に追いやられてる今よりも居住範囲は広かった可能性もある。それが何故か、この魚類の支配する海中に移り住んできたわけだ。ここからある仮説を立てた」
「ほうほう、どんな?」
「つまり、さ。昨今の寒冷化というのは、地球が回っているってことと同じ、自然の摂理なんじゃないか? 鮭が生まれた場所に向かうように、馬が巣に戻るように、人間は、というか生き物は帰るんだよ。自分達の過去に。大いなる環の中に」
「ほうほ……う?」
「過去は繰り返される。だからこそ歴史を学ぶ。でも、全てが残ってるわけじゃない。地底火山の中か、あるいはバミューダ海峡の中か。それが学ぶべきものなのかどうかも、すべて未来が決めること。
追求すべきは今生きることか、将来生きることか。
追究すべきは海底か、地上か、はたまた宇宙か。
追及すべきは住処を追われるというこの惨状の原因を作った人か、変えようとしない人か。
そもそも今は惨状なのだろうか。
すべて未来が決めること。ひとつだけ言えるのは、今は転換点だということ」
「……うん。うん? ……うん」
「……要約するとね。限りなくポジティブに考えると、今どんなに寒冷化を止めることについて考えても、もしかしたら千年後の人間は、地上でまた新しい文明を作ってるかもねってこと。昔地上で暮らしていた人間が、この海中に移り住んだように。そして、地上の歴史がこの海中に持ち込まれなかったように、この海中でのことは全て夢物語に終わるかもね」
「ううん……。なんか、ちょっと寂しい」
「でも、地上に生きようと、海中に生きようと、人間の遺伝子は過去を忘れない。今僕たちが地上に郷愁を感じるように。きっと地上で暮らしても、海を恋しく思うよ。帰りたい、どこかに帰りたいって……」
言いたいことや考えてたことはもっとある。だけど、今はまだ、更に深く考えるための知識も、表現するための語彙も足りないんだろう。頭がぐるぐると回って、詰まった言葉をそれでも吐き出そうとして、激しく咳き込んだ。ごぽ、ごっぽごっぽ。慌てて君は背中を撫でてくれたから、口の端についた涎の後は見なかったことにする。
よく分かったよ、ただ今度からは要約だけ聞かせてね、などとのたまう君。その手が僕の手から潰れかけのタツノオトシゴを救出した。タツノオトシゴはぷりぷりと水を吐きながら、あろうことか尻尾で水草をびりびりに引き裂いて去っていったのだった。
「やらかしちゃったね。次は私が手伝ってあげようか?」
こぷこぷと漏れ出た笑いが、顔を見合わせた僕たちを包んだ。かっぽぽ、こっぽぽ。吐き出した笑いの泡は登っていく、海を越えて、大気を越えて、どこまでも。
少なくとも、そう願いたいと思う。
p.s.それから地球が数千といくつか回った日
「Eureka! Eureka!」
地上には、裸で気が狂ったように走り回る男が一人。笑い狂うその首筋に、えらのようなものが光った、気がした。
〈お題〉
海が好きすぎる人