ヒガミ
うすらい
「ひ」
少年はそれきり声も出せなかった。
薬草を摘んでいた少年の後ろに立ち尽くしている化け物は、村では『ヒガミ』といった。全身が黒い鱗で覆われていた。かろうじて人型に見えないこともないが、頭は大きく、首と顎の境目がわからない。手には鋭く歪んだ爪を生やして、つぶらな目は少年の顔を映していた。乱ぐい状に生えている黄ばんだ歯の隙間から、ちろちろと真っ赤な舌が覗く。涎が垂れている。
少年は尻餅をついた。そのままずりずりと後退した。土をかく手が震えて、ひっくりかえった。背負っていた薬草のかごが倒れた。
『ヒガミ』は少年の肩を掴んだ。ぬるぬるする。生臭い息を嗅いだ。息の湿り気を嗅いだ。涎が頬に落ちた。歯の隙間にこびりついた赤い汚れが見える。汚泥から噴き出す泡のようなうなり声が、少年の頭を揺さぶる。
その刹那、少年の頭に食らいつかんとする大きな口が、はすに切り裂かれた。
唯一鱗におおわれていない分厚い上唇、血のように赤くてらてら光る長い舌、下唇の右のはしのほうがぱっくりと裂けた。払われた太刀筋はぞっとするほど鋭かった。顔を斬られ、青黒い血を流す『ヒガミ』は、腕とも脚ともつかぬ、鱗でぬらぬら光る太い肉を持ち上げて、顔を覆った。そのまま後方にのけ反った顔に、再び刃が叩き込まれる。今度は喉奥を一突きだった。耳をつんざくような断末魔を最後に、『ヒガミ』は地面に倒れて動かなくなった。
「けがはない?」
力強い声だった。それでいて野卑たところのない、透き通るような声だった。
傾く陽を受けて煌めいた白銀の刀身を、赤黒い肉から抜き払う。すらりと長いそれを腰にはく鞘へ収めて、彼女は振り返った。褪せた色の金髪が、陽を透かして光った。
「う、うん。助けてくれてありがとう」
彼女の所作のひとつひとつをほうけたように眺めていた少年は、たった今自分が話しかけられたことに気がついて、口ごもりながら言った。
「こいつらは、鱗に覆われていないところは僕らと大して変わりがない。口とか目とかを狙うといい」
「他にも『ヒガミ』を倒したことがあるの?」
「何度か」
少女は伏した目を上げて、碧色の眼を細くして笑った。
「村まで送ろう。最近は『ヒガミ』が増えて困る」
二人は村に帰り、少女は少年の恩人として村に迎え入れられた。行くあてのない彼女は、少年の家族とともに住むこととなった。彼女は、強かった。彼女が付き添うことで、村の外へ出ることが容易になった。村人をつけねらう『ヒガミ』を、少女が倒してくれたからだ。彼女のお陰で村は豊かになった。森のあらゆる恵みを享受できるようになった。彼女は無敵だった。彼女は、強かった。
その鮮やかな一閃のもとに巨大な『ヒガミ』はいずれも倒れ伏した。舞っているようだった。彼女が来てから、『ヒガミ』が一度に何匹も現れるようになった。それでも、誰も気にしなかった。何匹来ても彼女が倒したからだ。彼女はいつも舞踏の後に、青黒い血にうすらと濡れて光る刃を右へ払ってから鞘へ収める。空気を斬る音で、辺りの静けさに気づいてはっとする。そこには地面を青黒く埋め尽くす『ヒガミ』の死体が折り重なっていた。その中に立っているのはただひとり。剣を収める彼女の、華奢な背中がある。
いつもそうだった。村の人々は彼女に魅せられた。彼女にいくつも頼みごとをした。彼女のお陰で遠く離れた隣村とも交流が可能になった。それが当たり前になりかけた、そんな頃だった。
ある晩だった。新月の晩だ。昼に隣村へ出かけたはずの馬車が、戻ってきた。二頭いたはずの馬は一頭になっていた。張られた布も煤けて、後輪のひとつなどは見る影もなくつぶれている。
少年は明かりを持って駆け寄った。
馬車の中には村民と、傷ついた少女が乗っていた。
「これは、一体…………」
「この子が倒せなかったんだ」
御者は淡々と述べた。
「ああ、わたしの馬、わたしの馬が…………」
馬車の隅で、馬の持ち主の男は震えていた。その目にはぐったりした少女の姿などない。
少女は依然としてその身を横たえ、起きる気配もない。脇腹に深い傷を負っているようだが、手当てを試みた様子もなかった。
「とにかく、手当てを」
そういって少年が手を伸ばしかけた、そのときだった。
「ひ、『ヒガミ』だっ、影が、押し寄せてきたぞ、六……七匹はいるっ」
木立の向こうから、魂切るような叫びが聞こえた。
「うわぁっ、や、や、やめろっ、こっちへ」
かろうじて意味を持った叫びは、意味を持たない断末魔に掻き消される。べちゃ。べちゃ。粘り気のある液体音がしている。風が吹く。生臭い風。
少年の膝は震えた。向こうの木の影で何かが蠢いた。耐えられなかった。
「起きてくれっ」
彼女の肩を叩いた。
「起きてくれよっ!」
両手で頬を叩いた。
べちゃ。べちゃ。
「起きろよっ、起きろっ、起きろ起きろ起きろ!」
無茶苦茶に肩を揺すぶった。少女の頭が上下に揺れた。明かりを跳ね返して褪せた金髪が鈍く光った。
液体音はますます近づく。荒い息遣いすら聞こえる。息遣いの数は七つどころではない。増えている。そこかしこからする。
「どうせあんたは強いからっ、あんたならっ、あんたなら ころせるん だ ろ」
少年は、自分の声が汚泥から噴き出す泡のように濁っていることに気づかなかった。
少年は生臭い息を彼女の顔に吐きかけた。彼女は、ふ、と眼を開いた。碧の瞳が冴えざえと光った。彼女は、傍らの剣に手をかけていた。
「きみもか」
少年は、喉に焼けつくような痛みを感じた。彼は耳をつんざくような断末魔を上げて、地面に崩れ落ちた。