何もない。
何も見えない。
何も聞こえない。
少し足を伸ばしてみた。
すると、足に何かが当たった。
驚いてぴゅっと足を引っ込める。
じっと息をひそめる。
何も起こらない。
もう一回、足を伸ばしてみる。
また、足の先に何か当たった。
ちょっと動かすと、それも一緒に動いた。
なんだろう、これ。
いっぱい動いてみて、僕は何かに囲まれていることがわかった。
僕は面白くてどんどんって蹴ってみた。
その度に周りの何かは伸び縮みする。
僕は面白くなってもっと蹴った。
どんどん、どんどん、って。
すると、びりっという音と共に、急に目の前が光った。
眩しい眩しい光だった。
目の前が真っ白になって、何も見えなくなる。
怖かった。
でも、何かが始まりそうだった。
とりあえず一歩外に出た。
暖かい風が僕を覆いつくす。
眩しい光が僕を刺す。
眩しすぎて何も見えない。けど、肌でさっきまでの場所とは全然違うんだって分かる。
とうとう僕は、外に出てしまったんだ。
少し目が慣れてくると、僕の周りにはくすんだ赤い色のものがあることが分かった。
なんだろう、って思ってその上を歩いてみる。
すると、それは少しべとべとしていて、とてもいい匂いがした。
思わず食べてみたくなる。
僕は好奇心に任せて、一口赤いのを食べてみた。
少し甘くて、でも酸味があって、おいしい。
僕は夢中になって食べた。
どんどん僕が食べた場所が、穴になっていく。
そうして穴が自分の体くらいになったくらいで、僕はやっと食べるのを止めた。
お腹がいっぱいになって満足したら、次は眠くなった。
どんどん瞼が重くなってくる。
僕は意識を手放した。
目が覚めた。
柔らかい光と暖かい風で、自分が外の世界にいることが分かる。
すごく心地がよい。
前までいた世界は、狭くて何もなかった。
だから、この新しい世界は綺麗だと思う。
早くも僕は、この新しい世界が好きになっていた。
もっとこの世界を探検したい。
もっと綺麗なものがいっぱいあるに違いない。
僕の前には、昨日食べた赤いのが広がっている。
これを超えたら何があるんだろう。
考えただけでたまらなくわくわくする。
楽しくなってくる。
そして、僕は歩きだした。
疲れた……。
下の赤いのにはところどころ穴が開いていて、落ちないように慎重に進まなければいけない。
いつか落ちるかもしれない不安とストレスで、僕はすっかり疲れていた。
いくら歩いても景色が変わらない。
暖かかった風も、心なしか冷たくなってきた。
柔らかい光はいつしかなくなって、ほとんど前が見えない。
さっきまでと同じで、下は多分赤くてべとべとしたもの。
前のほうは何も見えない。
上は……あれ?
そういえば、僕は上を全然見ていなかったことに気づいた。
そう気づいた瞬間、僕は上に何があるかが気になって、ぱっと上を見た。
すると、果てのない紺色の中に無数の小さなキラキラがあった。
僕は何も言えなかった。
本当に綺麗だった。
僕はもっとこの世界が好きになった。
僕が生まれたところは、四方を赤いのに囲まれていた。
だから、上も下も同じだと思っていた。
こんなにも世界が綺麗だなんて、知りもしなかったんだ。
僕はずっと、この紺色とキラキラに見惚れていた。
目が覚めた。
どうやら、昨日は眠ってしまったみたいだ。
暖かい風と、目が眩むような日差しで僕は目を覚ました。
眠い目をこすって辺りを見回すと、昨日と全然違っていた。
周りのものは同じだけど、昨日よりもずっと明るい。
何でだろう。と思って上を見てみると、どこまでも続く真っ青なのの中に、真っ白ふわふわと、強く光っているものがあった。
これがあったから、今はとっても明るいようだ。
じーっと上を見ていると、白いふわふわがゆっくり流れていく。
ちょっとずつ形を変えながら、ふんわりふんわり流れていく。
僕はもっともっと、この世界が好きになった。
とりわけ、上の景色がとても好きだった。
暗いときも、明るいときも、全然違うけれどどっちも好きだった。
綺麗だった。
じっと上を見ていると、隣に誰かが来た。
僕よりも少し大きくて、透明がかったクリーム色をしてる。
体と同じくらいの2枚の大きい羽根を持っていて、大きな赤い目をしていた。
じっと見ていると、それが口を開いた。
「どうしてそんなに上を見ているんだい?」
僕は答えた。
「綺麗だからだよ」
「そっかそっか。君は空が好きなんだね」
そう言って、君は僕の隣に腰を下ろして、空を見上げた。
ゆっくり時間が過ぎる。
綺麗で透明な時間だった。
僕は、ふと、気になったことを聞いてみた。
「君は誰?」
「私のこと? そんなの分からない。じゃあ逆に聞くけど、君は誰?」
そう言われて、初めて思った。僕は誰なんだろう。
考えてみる。
でも、そんなの分かりっこない。
だから僕はこう言った。
「そうだね、分かんないね。
じゃあさ、せめて名前を付けようよ」
「名前? いいよ。
じゃあ、あなたはタセノ」
「タセノ。僕の名前か……。じゃあ君はトクヒ」
「トクヒ……。そっか。私はトクヒになったのか」
不思議な感覚だった。
今日から僕はタセノだ。
今まで不確かな「僕」だったのが、輪郭を与えられたようだった。
その輪郭に束縛されている感覚がする。
でも、悪い感覚じゃなかった。心地よかった。
トクヒも今、同じような感覚になっているのだろうか。
気になって僕は聞いてみた。
「不思議?」
「うん」
短い言葉だったけれど、僕たちが同じ感覚に襲われているんだって、なんとなく分かった。
僕たちはもう友達だった。
「僕、空に行ってみたい」
僕はずっと憧れてたことをトクヒに言ってみた。
「空かぁ。私は飛べるけど、それでも空には届かないよ」
僕は残念だった。
空を飛べるトクヒですら行けないのに、空を飛べない僕が行けるはずもない。
「せめて空を飛べるようになりたいなぁ」
「もしかしたら、飛べるかもね。私はある日突然体が痛くなって、一日耐えたら、こんな風に飛べるようになってたんだよ」
僕にもそんな日が来るのだろうか。
もし来たら、トクヒと一緒に色んな世界を見に行ける。
それは僕にとって、すごく魅力的なことだった。
そんなことを思いながら、僕とトクヒは眠りについた。
次の日、目が覚めた僕は、動けなかった。
全身が痛かった。
燃えるようだった。
体が破られるような感覚がした。
叫ぼうと思っても、声が出せない。
トクヒはどこ?
わからない。
何も見えない。
不安だった。怖かった。痛かった。
頭が真っ白になって、とうとう僕は気を失った。
目が覚めた。
さっきまでの激痛が嘘のように消えている。
隣を見ると、トクヒが笑って「おめでとう」と言った。
何が何だかわからない。
とりあえず何か聞こうとしたけど、何を聞いたらいいか分からなくて、口をぱくぱくさせた。
そしたらトクヒがもう一度「おめでとう」と言った。
「え、あ、う……」
とりあえず、何か話してみたものの、みっともない声しか出なかった。
「背中、動かしてみて」
言われた通りに背中を動かす。
すると、ばさりと何かが動いた。
まさか、これは……。
「羽⁉⁉」
そう言うと、トクヒはにっこり笑って「うん、そうだよ」って答えた。
羽だ。僕に羽が生えたんだ。
さっきよりも強く速く動かしてみる。
すると、体がふわりと持ち上がった。
今までいた場所が、急に小さくなる。
前にも後ろにも、右にも左にも、上にも下にも動ける。
僕は自由だった。
どこへでも行ける。
そう、これでトクヒといろんな場所に行ける。
まだ見たことのない綺麗な何かに出会える。
嬉しかった。
「ねえねえトクヒ! どこに行こう!」
僕はトクヒに興奮気味に問いかけた。
「タセノはどこに行きたい?」
「うーん、綺麗なところ!」
「了解。じゃあついてきて!」
そういってトクヒは、ふわりと飛んで行く。
僕も慌てて後に続いた。
しばらく飛ぶと、目の前に川が現れた。
「落ちないように気を付けてね」
僕はトクヒの言葉に頷き、川辺に降りた。
穏やかに水か流れていて、周りの草はそよ風に吹かれている。
水面に日の光が反射して、きらきらと輝いていた。
いくつもの水の音が重なって、一つの音になって、僕の鼓膜を打つ。
「すごく綺麗だね……」
こんなに綺麗な場所があるなんて、やっぱりこの世界は素敵だ。
僕の隣に降りたトクヒに向かって、僕は感謝を伝えずにはいられなかった。
「ありがとう」
「どういたしまして。喜んでくれてよかった」
穏やかな時間だった。
僕とトクヒの間を、柔らかい風と共に、ゆっくり時間が流れていく。
風が僕たちの羽を揺らして、空に舞い上がる。
「タセノ、私、ずっとこの世界を旅してたい」
「僕もだよ。これからも、ずっと旅しよう?」
「うん。約束」
そうトクヒが答えた時、水の音を割って、穏やかな声が聞こえてきた。
その声と一緒に、何かがこちらへやって来る。
「トクヒ、あれは何か知ってる?」
「多分、あれは人間じゃないかな。街に行ったらたくさんいるよ」
そんな生き物がいたなんて、全く知らなかった。
じっと観察してみる。
すると、その人間たちは二人で話しながら、川辺に腰かけた。
さっきの僕とトクヒのような、穏やかな時間が二人の間を通り抜ける。
二人は時折笑顔を浮かべながら、楽しそうに話している。
しわくちゃの顔をもっとしわくちゃにして笑っていて、幸せそうだった。
人間っていいなぁ。
街に出たら、あんな素敵な人がたくさんいると思うと、僕は楽しみで仕方がなかった。
「トクヒ、僕たちも街に行ってみようよ」
「いいね。私もあの人間たちが好き」
僕たちはふわりと舞い上がって、街に向けて飛んだ。
「何これ……」
僕たちは唖然とした。
そこには大きな四角い建物が、威圧感とともに並んでいた。
時折、車がすごい勢いで走り抜ける。
右を向くと、そこには学校があり、子供が校庭で遊んでいる。
左側には、人が多くて雑多な商店街があった。
さっきまでいた川辺の静けさなんて嘘みたいに、いろんな音が入り混じっている。
穏やかな空気は一変して、暑くて淀んだ空気だった。
道ゆく人を見ると、子供からお年寄りまで、いろんな人が歩いていた。
笑ってる人、怒ってる人、楽しそうな人、泣いてる人、絶望してる人、虚無の人、希望の人……。
こんなにもいろんな感情があるなんて、僕は知りもしなかった。
人間はすごく面白そうだった。
「僕、もっと人間を近くで見たい」
「じゃあ、どこかの建物に入ってみよう。そしたら間近で人間を見られるよ」
僕たちは、近くの窓が開いている部屋に入ってみた。
その部屋の住人は、どうやら3人家族のようだった。
父親と母親、それと赤ちゃんが一人。
僕たちはしばらくの間、その家族を見ることにした。
子供が泣くと、お母さんが飛んでくる。
そして、優しくあやすと、赤ちゃんは安心したようにスヤスヤと眠りにつく。
あやしているお母さんの顔は、慈愛と慈しみに溢れていて、見ているだけで笑顔になるくらい幸せそうだった。
時々、お父さんとお母さんが喧嘩することもあった。
空気がピリピリして、見ている僕にまで怒りが伝わってきて泣きそうになった。
でも、それでも二人は話すことをやめず、最後は謝るのだった。
そして笑顔を浮かべた。
「人間って、面白いな。心優しくて、すごく素敵」
僕は心の底からそう言った。
この世界も好きだが、これに住む人間も好きになってきた。
「そうだね。心があったかくなる」
トクヒも人間が好きみたいだった。
試しに、赤ちゃんの近くに飛んでみた。
そしたら、赤ちゃんはこっちを向いた。
試しに僕が動いたら、赤ちゃんの視線も動いた。
しばらく色んな場所に動いてみる。
そしたら、僕の方を見て赤ちゃんが急にニコッて笑った。
「見てトクヒ! 今赤ちゃんが笑った!」
「そうだね」
見ると、トクヒの口元が緩んでいた。
トクヒはあんまり笑わないから、珍しかった。
そんなトクヒを笑わせた人間はすごいと思う。
僕はますます人間に心惹かれた。
お母さんが帰ってきた。
僕は、お母さんの近くを飛んだら、赤ちゃんと同じようにニコって笑ってくれると思って飛んでみた。
すると、お母さんは顔を顰めて、手で僕を払うような仕草をした。
おかしい。
僕はお母さんとトクヒが笑ってくれると思っていたのに……。
もう一回やってみよう、と思ってお母さんの周りを飛ぶ。
すると、トクヒが「危ない!」と言って、僕を押しのけた。
その瞬間、お母さんの両手が僕らに向かって伸びてくる。
僕はトクヒに押しのけられて、僕はお母さんの手から離れていく。
トクヒに向かって手が伸びる。
そして、急にお母さんの両手が近づいて、パンッという音と共にトクヒが見えなくなった。
僕は何も言えなかった。
何もできなかった。
呆然としている僕の横を、お母さんは何気無い顔で通り過ぎて、台所で手を洗った。
「トクヒ……?」
どこを見ても、トクヒは居なかった。
さっきまでそこに居たのに、トクヒは居なくなっていた。
僕はいつまでもそこに立っていた。
でも、トクヒはいつまで立っても戻ってこなかった。
どのくらい時間が経っただろう。
一家は寝静まって、部屋の中は物音一つしない。
僕はやっと、ふらふらと動き出した。
どこに行こう。行くあてもない。
トクヒと一緒に、色んな綺麗なところに行きたかった。
この世界を探検したかった。
トクヒとの会話が思い出される。
僕にタセノって名前をくれた。
僕の羽が生えた時、一番におめでとうって言ってくれた。
川に連れて行ってくれた。
いつも一緒だった。
トクヒ。
いつも隣にいたのに、今隣を見ても誰もいない。
消えてしまった。
誰のせいだ。
人間のせいだ。
あんなに人間が好きだったのが信じられないくらい、人間が憎い。
トクヒを奪ったのは人間だ。
あんなにも僕たちは人間が好きだったのに。
どうして、トクヒを殺したんだ。
人間が憎かった。
人間なんて嫌いだ。
大嫌いだ。
……でも、一番憎いのは僕だ。
どうしてあの時、トクヒを助けられなかったんだ。
なんで僕じゃなくて、トクヒが死ななければいけなかったんだ。
こんな弱くて矮小な僕が、憎かった。
気がつくと僕は川にいた。
あの時はトクヒが隣にいた。
幸せな時間だった。
これからも続くと思っていたのに、もう続かない。
何かを見るたびに、トクヒを思い出す。
苦しくなる。
でも、忘れられない。忘れたくない。
怒りと悲しみと虚無感で、僕はどうにかなりそうだった。
心が三つに引き裂かれた。
でも、僕は死ぬわけにはいかなかった。
トクヒは「ずっとこの世界を旅してたい」って言った。
僕は旅するって約束した。
約束は守らないといけない。
いや、トクヒとの約束なら、僕は守りたい。
僕は、傷だらけになりながら、それでも旅を続けないといけない。
一歩一歩、歩き出した。
痛い、心が痛い。
喪失感と憎しみで心がぐちゃぐちゃになる。
でももう一歩、僕は進む。
涙が溢れる。
もう一歩、進む。
「トクヒ……!」
涙が止まらなかった。
嗚咽が漏れる。
それでも僕は進む。
トクヒとの約束を果たすために。
この世界は残酷だった。
僕の大好きな友達をあっさり奪っていった。
憎い人間がいた。
トクヒを救えなかった僕がいた。
僕にとって、醜いものがこの世界にはあった。
でも、この世界は綺麗だった。
空気、空、川、人間、トクヒ。
僕にとって、綺麗で大切なものがこの世界にはたくさんあった。
もうこの世界が好きとか、嫌いとかが、分からなくなった。
でも、僕が好きなものは、確かにこの世界の中にある。
僕は旅を続けた。
海、山、川、街、田。
いろんなところに行った。
生きているのが辛かった。
生きていると、トクヒのことを思い出す。
それだけでも苦しいのに、憎しみや怒りまで感じる。
でも、新しい綺麗な世界を見れて、幸せになる。
いろんな感情が僕の中でぐるぐるして、吐き気がする。
でもそれでも僕は生きる。
生きるって、こんなに辛くて、幸せなことだったなんて、知りもしなかった。
タセノは歩き続けた。
タセノの足跡が、砂上につく。
その時、ふわりと風が舞い上がった。
砂上のタセノの足跡が、風にかき消された。