ある日の明け方のこと。大きな黒い車が深い森の中に入っていった。しばらくして。その車が森から出てきた。もう夜が明けるというその時に。時を同じくして、銃で武装した荒々しい男が数人、同じ森に入っていった……。
周りにはただひたすら広い森がひろがっている。ここは……どこ? 私は誰? 何が起きたの? そもそも今は、いつなの? 何もわからない。私の記憶が完全に抜けている。あっ、でも私、きっと日本人だ。思考のときに日本語を使うのは大体日本人。よし。自分の出身がわかっただけマシかも。でも……今、つまり三十一世紀の日本にはこんなきれいな森はないはずだ。
……えっ、じゃあ、もしかして私、タイムスリップしちゃった!? こんな科学技術の発達した三十一世紀に? まさかね。タイムスリップはできないって証明されたばかりだ。過去でも未来でもいいけど時空を飛び越えるには時間軸を旅するしかない。時間軸を遡ったり進んだりした後には必ず帰ってくる必要がある。時間軸は一人一本しかないんだ。だから遡るにしろ進むにしろ帰ってくる私たちとぶつかってしまう。
タイムスリップした先に住み着いてしまえばいい、という考えもあった。でもそうすると元居た時代でその人の存在が消えてしまう。するとタイムスリップした先でもその人の存在も消えることになり、やはりタイムスリップは成功したことにはならない。――って、じゃあもうすぐ私は消えるのだろうか。いやいやまだタイムスリップしたと決まったわけじゃない。
というところで初めの問いに戻る。ここ、危険じゃないだろうか。ここから去るほうがいいのかな? いやいや生物の気配も全然ないしここにいるほうがいいのか? そんなことをつらつらと考え始めると怖くなってきた。――とそのとき。いきなり荒々しい男たちが森の奥からぬっと現れ、私を見つけると私に向かって走ってきた。鉄砲を構えている。絶対に私を狙ってる。どうしよう――。
ズドンッ。右肩の辺りに大きな衝撃が走った。私の肩を弾がかすっていったみたい。すぐあとからパンという乾いた音がした。ああ、私、ここで死んじゃうのかな。それでもいいかもしれない。ここで死に損なったとしてもこれから生きていける保証も自信もないし、実際可能性としては低いだろう。そう覚悟したのに。
[Arrête(やめろ)! ]
という叫び声が響いた。かっこいい人がその男たちに向かって叫んでいる。どうやら私を助けてくれたようだ。
[Ça va? ]
なんて言ってるの? 通じるかわからないけど日本語以外には英語と、簡単なフランス語やイタリア語しか喋れないから
[What did you say ? ]
と尋ねてみた。
[……Are you OK? ]
通じたみたいだ。よかった。
[Maybe no.]
と答えると、彼は私を抱きかかえ、家へと連れて行ってくれた。
彼はフランス貴族のAchille(アシル)さんだった。アシルさんは記憶を失くしてしまった私のため、家に案内してもらう間にいろいろと教えてくれた。今はどうやら三十二世紀らしい。やっぱりタイムスリップしちゃったんだ。カレンダーとかないのかって? そんな過去の産物は今では必要ない。日付はあまり気にしないんだ。世紀だけわかっていれば十分。で、アシルさんがフランス貴族ってことからもうわかってるかもだけどここはフランス。正確に言うとメトロポール・ド・リヨンっていう県。お屋敷につくとメイドさんが出てきて、ちょっと滑舌の悪い日本語で迎えてくれた。どうやらアシルさんの家には日本人が仕えているみたいだ。嬉しくなっていると、
「お気に召してなによりです」
と言ってくれた。あ、そうそうここからアシルさんの言葉が基本は日本語で出てくるけどアシルさんが喋ってるのは基本的には英語。だからセリフは英語だと思いながら読んでね。あと、私も英語で喋ってるけど面倒くさいから全部日本語で表記するね。
お屋敷の中もとっても豪華ですっごくきれいだった。広いし家具が豪華だし、とっても過ごしやすそう。アシルさんが私のためきれいで広くて過ごしやすそうな一室を与えてくれた。そして怪我の手当までしてくれた。
「なんでこんなに優しくしてくださるのですか?」
と尋ねてみると、
「だって貴方困っていたでしょう?」
って。
なんてかっこいい方なんだろう。初めて会ったはずの方なのに私には恋心が芽生えていた。
翌朝、彼は私にあるプレゼントをくれた。名前すら忘れてしまった私に新たな名前を付けてくれたんだ。
「今日から貴方を遥と呼んでもいいですか?」
私は今日から遥。うん。いい名前だ。
「素敵な名前をつけてもらえて本当に嬉しいです」
そう伝えると彼は真っ赤になって続けてこう言った。
「遥。これから一生傍にいて下さい。僕と一緒にここで暮らして下さい。きっと貴方のことは幸せにします」
えぇー! これって所謂プロポーズ、だよね?
「なんで私なんかにそんな素敵なことを言ってくれるの?」
問いかけた次の瞬間。私は彼の腕の中にいた。彼の顔が私の斜め上、すぐそこにあった。
[J’ai eu le coup de foudre pour toi(貴方に一目惚れしちゃったみたいだ).Je ne suis rien sans toi(君なしではダメなんだ).]
何を言ったのかは英語訳で教えてくれた。その動作と言葉には気遣いがあふれていて本当に嬉しかった。だから
[Merci, Achille(ありがとう、アシル).Je t’aime(私も愛してる).]
と、思わず知っている僅かなフランス語を駆使して言ってしまった。ちょっと、いやかなり恥ずかしい。顔から火が出そう。でも彼は喜んでくれた。
「じゃあ、決まりだ」
と微笑んでる。
記憶を失くしたのはすごく怖かったし今も不安はあるけど彼――アシル――とならなんとかなる気がする。これからが本当に楽しみだ。
私はアシル。ここメトロポール・ド・リヨンに住む貴族だ。貴族だから一応使用人がいる。私はそのうちの一人、紗夜に恋をした。彼女は下働きの中の下働き――洗濯係だ。私とはほとんど会わない、それなのに。一目惚れしてしまった。しかし――彼女は私の秘密を知ってしまった。私がうっかりポケットに入れたままにしていたメモを見てしまったのだ。それには私が過去に受け取った賄賂のこと(今は誓ってそんなことには関わっていない)や私の紗夜への思いが書いてあったのだ。慌てて洗濯係のメンバーには口止めしたうえでメンバーの総入替を行ったが私は紗夜とは離れたくなかった。一緒にいたかった、主人と使用人としてではなく、対等の立場の夫婦として。だから紗夜の記憶は抹殺し、そのうえで妻として娶ることにした。まず紗夜に記憶を消す作用のある薬、プロプラノロールを飲ませる。そして眠らせ、適当なところに放り出す。そして目覚めたころに山賊上がりの使用人に彼女を襲うふりをしてもらった。その時にそばを通りがかり、怪我をしてしまった彼女を保護して家に連れ帰って、頃合いを見計らって告白した。作戦はうまくいった。薬の効果さえ切れなければばれることもない。周りの人々に怪しまれないよう、名前も紗夜から遥に変えた。この作戦を決行したのは三
○九九年一二月三一日。家に連れて帰ったのは三一○○年一月一日。これで彼女は理論上不可能なタイムスリップをしたと思い込むだろう。これできっと私のことは思い出さないはずだ。彼女には本当に申し訳ないことをしたとはわかっている。でも。これからが本当に楽しみだ。