スーパーヒーロー
アルミホイル
将来の夢は、スーパーヒーロー。
別にこれに限らずとも、大半の男の子が一度は馬鹿げた夢を語る。そして現実を知り夢に敗れ、妥協と忖度にまみれた大人の世界に足を踏み入れる。一方で女の子の将来の夢は、お嫁さんだとかパティシエだとか、実在するものを描いてはいるがやはり真の意味では全く現実を理解していない。
私も数年前までは女の子だった。何も知らない、真っ白で、純真無垢な愛らしい女の子。
いつ、どこで道を間違えたのかは判然としない。大人の階段というものは、登り終えてから初めてその存在を知るらしい。
登らせないで欲しかった。そんな贅沢は言わない。
せめて一段目に足がかかった時点で、何かしらの形で私に知らせて欲しかった。携帯のアラーム音でも、学校のチャイムでも、夢のお告げでも、何でも良かった。
願わくば、もう一度女の子に戻りたい。
そんなありふれた俗世間を儚んだ独白とは脈絡もなく、小さな感覚が背中を押した。
「みてみてせんせー。のりでてがくっついちゃった」
遊戯用の米糊を手につけてしまったらしい、男の子が私に助けを求めている。あどけない、逞しさとはかけ離れた人形のような顔立ちの男の子。他の保育士達からは『りいと君』と呼ばれている。本名は久山璃依斗。私の担当のうめ組ではないが、担当でもないのになぜかよく話しかけてくる男の子を奇妙に思い、名簿を見て名前を知った。
「あーあ、本当だね。手洗ってきな?」
両手で男の子の肩を掴んで体を反転させ、右手を伸ばしてトイレの方向を指し示す。男の子は首を横に振り、トイレに向かう代わりに私の服の袖を引っ張った。
「いっしょにきてくれないといかない」
はぁと溜め息が漏れそうになるのを我慢する。彼の要求は、他の同級生のお漏らしや重度のホームシックに比べればまだ細やかで可愛げがある。こんなことを嫌がっているようではとてもこの仕事は務まらない。私はこの仕事に向いていない。
「はいはい。じゃあ先生と一緒に手洗いしようねー」
要求が通ったのにも関わらず、おそらく私があまり気乗りしていないのを感じ取ったのだろう、男の子はどこか不満気な表情で私と目を合わせる。私はそれに気付かないふりをして男の子の手を引く。一瞬だけ抵抗を感じたが、すぐにそれはなくなった。
トイレの前に着くと、突然男の子は私の手を振りほどいた。
「じぶんであらうから、もういい」
これ以上彼の怒りを買わぬよう、私は無言でその場を去る。目上の人間に対して失礼な態度をとったことを注意するべきなのだろうが、残念ながら私はまともな保育士ではない。
何が気に障ったのか、私の何がいけなかったのか、そもそも私が悪いのか。
はぁ。口から漏れた憂鬱な無声音が鼓膜を舐めた。
今日なんて早く過ぎ去ってしまえ。明日は永遠に来なくていい。
「いいなぁ、子供は」
ふと口から漏れた言葉は、子供の騒ぎ声が搔き消した。
保育園の子供の一日は早く、終わりは遅い。具体的な時間で言うと午前七時頃に始まり、個人差はあるが大半が六時を過ぎてからやっと一日が終わる。保育士という立場で言うのも皮肉だが、保育園生の一日は幼稚園生の気楽な一日に比べれば遥かに不憫なものだ。
現在時刻は午後七時を過ぎたが、園内には未だ十人弱の児童が残っている。学年もクラスもバラバラの十人なので、豊かな社交性の片鱗を見せる数人を除いて、ほとんどが退屈そうに一人遊びで時間を潰している。
一応私は先輩保育士に子供の相手をするように言われてこの場にいるのだが、私が特別無愛想で無気力な保育士であることを皆理解しているので、誰も話しかけてこない。ここの子供は現実を知りつつある。小学校でよく保育園出身者は可愛げがないと言われるが、成長の早さという観点では他の子供より優秀なのかもしれない。その分、貴重な子供時代がより早く終わってしまうが。
そう思うと居た堪れない気分になり、私にとって部屋の背景でしかなかった子供の姿が鮮明になった。即席のグループを構築した女の子三人はおままごとをしている。一人遊びを様々で、積み木を積んで遊ぶ男の子、落書き帳に絵を描く女の子、車のおもちゃで遊ぶ男の子、兎のぬいぐるみに話しかける女の子。合計八人いる。
残りの一人の男の子は、何もしないでただ時間を潰している。最近私によく話しかけてくる変わった男の子。気が付けば私はその男の子の方へ歩みを進めていた。
「りいと君は、何もしないの?」
「してるよ。せんせーのまね」
思わずどきっとした。この子供は、私の職務怠慢を見抜いていたらしい。
「先生はみんなが仲良く遊んでるか見張ってただけで、別に怠けてた訳じゃありません」
反射的に子供相手に語気を強めて反論してしまったが、ただの醜い申し開きでしかない。
「いまだけ、ほかのせんせーとおんなじだね。せんせーのくせに、がんばってる」
「こら、大人にそんな失礼なこと言っちゃいけません」
「せんせー、はじめておこったね」
大人から注意を受けた男の子は反省の色もなく悪戯っぽく笑ってみせた。思えばこの男の子が笑うのを見るのはこれが初めてだ。保育士の間でこの男の子は、笑わないと有名なのだ。私に怒られることの何が面白いというのか。
「なんでせんせーは、いつもつまらそうにしてるの」
この男の子には私の浅はかな心なんて、全てお見通しなのかもしれない。
「仕事はね、大変なだけで楽しくはないものよ。あなたにも分かる時がくる」
「いつかせんせーになるのが、せんせーのゆめじゃなかったの」
子供相手に言葉が詰まった。確かに、まだ私も子供だった頃は、保育士に憧れていた。希望に満ちた子供時代の空想を実現したのに、どうして今は未来に一筋の光明さえ見出せないのか。
夢は叶わないから楽しいのだろうか。それとも、大人になった私が一人の女の子の夢を壊してしまったのか。
「せんせー、ぼくのまねしてる」
「え?」男の子の意図するところが分からず、咄嗟に聞き返した。
「ぼくもたまに、うーんってなるんだ」
拙い言葉による表現だが、いつにない笑みでそう語る男の子は私の胸の奥にある細い芯のようなものを激しく揺さぶった。こんな小さな男の子でさえ、悩むのだ。大人になったから悩むのではない、子供でも十分に悩んでいる。
それとも、私もまだまだ一人の子供に過ぎないのか。
「ぼくのゆめはね、スーパーヒーロー」
考えがしっかりした子供なのかと思えば、夢は十分に男の子だったので吹き出すのを我慢できなかった。別にバカにしている訳じゃないと弁明するように、すぐに「どうしてスーパーヒーローになりたいの」と尋ねた。
「ぼくがスーパーヒーローになるっていったら、いつもむすっとしたせんせーがわらうとおもったから」
この男の子は、何度私の度肝を抜けば気がすむのだろう。
子供相手に芽生え始めた僅かな畏怖と尊敬に気付かれないように、私は男の子をそっと抱きしめた。男の子は無抵抗で、ただされるがままに私に抱き締められた。
「なれるよきっと。スーパーヒーローに」
小さな背中にとてつもなく大きくて無茶な期待をかけられた男の子は、ゆっくりと首を縦に傾けた。それを見届けた私は、そっと男の子の頭を撫でた。
大人になるのも、悪くないかもしれない。初めてそう思えた気がした。
お題 「期待」