「大崎―!今から委員会でしょ?」
同じ委員会の守井さんが部活に行こうとしていた俺をとめた。
「あー、そうやったな。」
二人で会議室へむかう。高校に入って3ヶ月がたっているのにいまだに場所がよくわからない。守井さんはポニーテールの髪をふって前を歩いて行く。会議室の場所が普通にわかるらしい。俺は少し、悔しさを覚えながら、守井さんの後について行った。
他に誰もいない廊下に、守井さんのローファーの音がよく響いた。
* * *
いつもの朝、俺は学校へとむかっていた。耳にさしたイヤホンからニュースが流れる。
ラジオを持ち歩き、それもニュースだけを聞くためなんて、いままで俺にとってはありえなかったのだがこれには訳がある。最近、俺くらいの歳ごろの中高生が突然行方不明になるのだ。警察は当初、誘拐を疑っていたが 消えた人数が多すぎるのと、いつまでたっても犯人からの連絡がないことで、誘拐の可能性は極めて低いと発表したのだった。事実、俺のクラスメイトも行方不明だ。行方不明になった中高生にこれといった共通点はない。しかし、ニュースを聞いていてひとつだけいえることはどの学生も朝か夕方に消えている、つまり真っ昼間にいなくなったりはしないということだ。
―つづいて、最近の「中高生が行方不明になる事件」についてですが 今日はゲストをおむかえました。「怪奇現象 研究家」の海気さん、よろしくお願いします。
―こちらこそ、お願いします。
―さてこの事件について海気さんはどう思われますか?
―そうですね、まず今年は数100年に1回あるといわれている 太陽の磁場と地球の磁場が変にマッチする年なのです。古代からこのような年には神隠しがよくあったと文献にも残っています。私どもの研究からすると、これには太陽と月が密接に関係していると思われます。
―なぜ月が関係するのですか?
―それはまだ研究している途中なのです。しかし研究結果によると太陽高度が低ければ低いほど神隠しの起こる確率が増えるのです。
―そうですか…では行方不明になった人々はどこへ消えたのでしょう?
―おそらく別次元かと思われます。磁場が変にマッチし、月の条件があったときその場所に時空のゆがみができてたまたま近くにいた人を巻き込んでしまった、これが1番有力な説ですね。
―よく、わかりました。海気さん、ありがとうございました。
別次元、か…。そんなところに行っちまった俺のクラスメイトは大丈夫なのだろうか。
まだ夏でもないのに、じりじりと照りつける太陽を俺は睨んだ。
* * *
ついさっきまで、私はいつもの通学路を歩いていた。重いかばんをかかえながら重い心で。通学路といっても私は海辺を歩いて行くからそんなに決まった道でもない。たまたま部活の朝練で、いつもよりかなり早く家を出た。太陽が昇りたてで、空にはまだ月が見えていて。きれいだなあと思った瞬間、突然海面が光を反射して、目の前が光でいっぱいになって…。
そこからの記憶がなく気づいたらここにいた。ここは、なんというか 木がいっぱいあるところだ。土も木も空も見る限りでは本物でこれが夢などではないことが、私にはわかった。なんて、言っているが本当は何がなんだかわからないし全く状況も理解できない。
私はただ、海とその景色を眺めただけなのだ。何が起こってこんなところに…全くわからない。
見渡すかぎり、緑の木々の中で白い蛾だけが1匹飛んでいた。
* * *
俺が教室に着くとすでに仲間たちが集まって話をしていた。もちろん例の事件についてだ。窓際の白いカーテンが風でひるがえっている。
「おっす。」
「おっす、大崎。今日は遅かったなあ。何かあった?」
「いや、ラジオに怪奇現象研究家の海気さんが出とって 色々言ってた。」
「あー、海気さんね、最近急に有名になったよなあ。でも何もなくてよかった、おまえまで消えたんかと思った。」
「いや、悪いな。」
と言って、あいまいに笑うと 明原は意外とまじめな顔をしている。笑ってる場合じゃないと俺も気づいて、あいている席に腰を下ろした。
「じゃ、大崎も来たことだし 始めるか。」
何を始めるのか、例の事件についての分析&作戦会議だ。俺たちはもともと5人でつるんでいたのだが、中の1人、黒和が消えたのでそいつを助けるために4人で特殊部隊を結成(実はつい昨日のことなのだが)したのだ。ちなみに隊長は、明原である。
「各自、報告ある?」
「聞き込み担当のキクモです。黒和の母さんに聞いたんやけど、あの日あいつは朝、海に行くと言って出かけたらしい。」
書記の田沖がメモをとる。いつも思うのだが、超高速で書いているわりには字がかなりきれいだ。だから俺たちの間では“字の神”と呼ばれている。
「えーと、ニュース担当の大崎です。怪奇現象研究家の海気さんの話からすると、なんか古代文献から分かることがあるらしい。まだ研究中だけど、古代でもこういうことはあったねんて。」
「そうか…。じゃあ今日は古代文献をあさってみるか。でも何からみたらいいんか、分からんな。いっぱいあるし。」
と、突然田沖が手を止め、顔をあげた。黒ぶち眼鏡の奥から目がらんらんと輝いている。
「三良手記は?」
「何それ?」
3人そろって言う。そう、田沖は古書マニアなのだ。
「俺もまだ読んだことないねんけど、ファンとしていつか読みたいなって思っとってん。ファンの間では評判で、作者って言われてる、三良は当時のいろんな現象を研究しとったらしいで。」
「それ…。ぴったりじゃねぇか!」
「さすが田沖!」
田沖はやっぱりすごすぎる。まあ、俺には古書の良さがあまりわからないのだが。
さっきまで騒がしかった教室がだんだん静かになってきた。みんな席に着き始める。
「じゃ、次は放課後な。解散!」
それぞれ自分の席に戻る、と同時に1時間目の物理の先生が教室に入ってきた。先生の白いシャツに汗じみができている。
「起立、気をつけ、礼。」
「はい、おはよう。では出席をとります…。」
いつもの退屈そうな出席が始まった時点で俺はすでに眠気にやられていた。窓から涼しい風がふいてきて、うつらうつらしながら聞く。
「水本。」
「はい。」
「村木。」
「はーい。」
「守井。」
「…。」
ん?返事がない? 守井さんが…いない?
「守井?休みなのか? 誰か何も聞いていないのか?」
その一言で俺は急に現実へと引き戻された。それと同時になぜ今まで気がつかなかったのかと思った。誰も手が挙がらないのを見た先生は青い顔をして、職員室に確認をとる。この頃は事件のせいで、連絡なしの休みなんてありえないのだ。この感じは、守井さんも行方不明の確率が高い。
探さないと。急に強く熱い思いが心の中に燃え上がった。守井さんにはいてもらわないと困る。まだ委員会のやつだって決めていないのだ。どうしていなくなったんだ。ふりかえるとキクモと目があった。いつもひょうきんで人の良いキクモの目の奥も一瞬燃え上がったように見えた。
先生の話によると、守井さんは朝練で早くに家を出たっきり行方をくらましてるようだ。教室が恐怖にざわめくなか、白い蛾が1匹ゆうゆうと飛んでいた。
* * *
私がこの世界に来てしまってから、どれくらいたったのだろう。とにかく私は緑の森をさまよっていた。というより白い蛾を追いかけていた。私は虫が好きじゃないんだけど、この蛾が誘うようにひらひら飛ぶからついて来てしまった。木の根っこが地面から出ていて、そこに苔が生えているから森の全体が緑に見える。慣れない森を歩いて、しかも運の悪いことにローファーをはいて…。その上重いかばんまで持っているから何度もこけそうになる。
「きゃっ!」
このとっさに出る悲鳴で今までどれだけ恥ずかしい思いをしてきたか。自分が弱いと感じるたびにちょっとくらい強くなりたいと思ってきたけどなかなか強くなれなかった。他人の反応を気にして、気にして過ごす日々。気丈に振舞いながらも私は常に他人の目を気にしてきた。私は前を飛ぶ蛾を見据え、よろめきながらも進んでいった。
かなり進むと、だんだん森が明るくなってきた。さっきもそんなに暗かったわけじゃなかったけど、それ以上に目の前が華やかになってきたのだ。木々がだんだんまばらになってくる。小さな花が咲いている。私の心にも希望が見え始めた。森を出られるかもしれないと思ったのだ。そして最後の坂がまちかまえていた。まるで森全体が他の土地よりくぼんだところに存在しているようだった。その坂を上りきり、私は森から一歩踏み出した。
見えてきたのは、一面に広がる砂浜とその奥にある淡い海だった。海は森からそこまで遠くなかった。湾になっているのだろうか、波がおだやかだ。そして、一人の青年が海辺に座って何かを食べていた。私は目を見開いた。
「く、黒和ァー?!」
青年がふりかえった。日に焼けたその黒い顔が驚きの色に変わった。
「守井ィー?!」
私は黒和のほうへと走り出した。信じられない思いで走った。足がもつれたけれどとにかく走った。
「守井がどうしてここに?」
「黒和こそ。みんな…」
私は高鳴る心臓をおさえ、息をととのえた。
「みんな心配してたよ。それでここどこか分かる?」
黒和がゆっくりと首を横にふる。口の端から緑のわかめがのぞいている。
「わからへん。俺、ここに来てからずっと海ながめてただけやし。ちなみにここのわかめ、食えるぞ。」
黒和は間抜け顔でへらへら笑っている。なんてことだ。私は今まで同じ中学だったのに黒和としゃべったことがほとんどなかったのだけれど、すごくきびきびして几帳面だと思っていた。なのに今の黒和は、このゆったりとした海辺の雰囲気で呆けてしまっていた。事実、顔もどこか ぼけっとしていてしまりがない。前はもっと精悍な顔立ちだったのに。
私は知らず知らずの間にあとずさりをしていたらしかった。背負っていたかばんの重みで足元がくずれ、私は真後ろへ つまり海の中へ倒れこんでしまった。
* * *
学校ではもう授業どころではなくなっていた。俺たちは集団下校を余儀なくされ、下校後の外出も禁止された。たくさんの生徒が不満を言うこともできず、だらだらと帰り道を歩いている。しかし、俺たち特殊部隊は誰一人外出禁止令を守る気がなかった。
集団下校の最中、俺とキクモは守井さんと仲が良い水本さんに聞き込みをしていた。水本さんはもうすでに涙目で鼻をすすっていたぐらいでなかなか聞き取れなかったのだが、俺たちが唯一聞き取れたのは、とてつもなく重要な証言だった。
「花恵ちゃんと私は…いつも海の近くの公園で…待ち合わせしてるねん。松の木の下で。でも、今日はいくら待っても来なかった。…花恵ちゃんが家を出たのに待ち合わせ場所に来なかったってことは…。」
海で、何かがあった。守井さんの家は海の近くでその公園までは海を通らなければ行くことができないからだ。しかも黒和も海で消えたと言われている。これはなにか関係がある。でも…俺はなぜこんなに、正直に言うと黒和のことよりも、守井さんのことを心配しているのだろう。心配でたまらない。大半のやつらは黒和や守井さんが死んでしまったと思っているが、俺はそうは思わない。どうしたらあいつらを助けられるだろうか。
「大丈夫やって。そのために俺ら、特殊部隊つくったんやろ?」
「…。」
「大丈夫。きっと守井さんは助けられるさ。」
「キクモ、おまえなんで…俺何も言ってへんよな。」
「おまえが守井さんを好きなことくらいわかっとったし。」
いや、そっちじゃなくてなんでそのこと思ったのがわかったのか聞いたんだけどなあ。ていうか、俺は守井さんが好きなのか…?
「えっなんで?」
なぜそう思ったんだろう。俺はなにかそんな素振りをしたのだろうか。俺は急に恥ずかしくなった。
「だって俺も好きやもん。」
ちょっとふてくされたように言ったキクモの横顔を俺は一瞬みつめてしまった。
「えっ?!」
俺が固まっていると、キクモは耐えかねたように吹き出した。
「嘘やで!大崎、そんなに焦るな。」
そう言って笑ったキクモは少し哀しそうな目をしている気がしなくもない。 と思ったのもつかの間だった。
「心配すんなよ。俺、ほんまは水本さん一筋やし。」
そう言ってキクモは水本さんを慰めに行ってしまった。後に残された俺がキクモってこんなやつだったっけ?と愕然とし、その後「俺は守井さんが好きなのか」と延々考えたことは言うまでもない。
* * *
それから何時間か後。一度それぞれの家に帰りお昼をすませた俺たちは、外出禁止令を無視して市立図書館に集まっていた。この図書館は歴史があり、古書が多いので田沖のお気に入り図書館の1つだ。かなりの蔵書の中から「三良手記」を探す。正直、俺たち3人はただ椅子に座って待っていただけだった。どうせ田沖が探し当てるだろうとか言って。案の定、数分後に田沖はすごくうきうきした表情でかえってきた。手に1冊いやそれ以上、3冊ぐらい抱えている。机に置かれた本の分厚さを見た俺はやる気を失いそうになった。本からほこりが舞い上がっていく。
そこからさらに2時間後。もうすでに怪奇現象の箇所を探しているのは田沖だけだった。俺たちはただただ田沖の反応を見守っていた。冷房が効いているこの館内で汗をかいているのは田沖ぐらいだった。「三良手記」を次々と読破していく田沖。そして、ついに彼の目がきらりと光った。
「これやな。」
ちょっとした感嘆とともに微妙な沈黙がながれた。
「で、これどういう意味?」
俺は古典は苦手だ。見ても全くわからない。とりあえず、かなり黄ばんだ古い紙に蛇がのたくったような字でなにか書かれている。
「これはな、えーと、“近頃、人がよく消える“それから、”海は行ってはならない“えーと、おっ。生還した人がおるらしい!」
「まじ!?」
のぞきこんでもわからないが、俺たちは田沖の手元をのぞきこんだ。
「その人の話しでは、海面が輝いているのを見たのを最後に記憶が途絶えたらしい。それから、目が覚めたら山のようなところにいたらしい。」
「山のようなところ?」
「あぁ。でもそれにしては坂がなくて平らだったって書いてある。」
山のようで坂がなく平らか。それって。
「森、か?」
「たぶん、そうやな。」
明原がうなった。
「でも、その人どうやって帰ってきたんやろ?」
田沖は困った顔をし、ある文をさした。
「たぶんこれやけど…。俺、これの訳できんわ。わからん。」
「えっ、田沖でも?」
「うん。」
田沖でさえわからないものを、俺が見てもわかるわけがないのだが…。そこには相変わらずのたくったような字でこう書いてあった。
白きひひるの空とべば つかめよ海を太陽と
生なる願ひを月にかけ 想へばなつかし故郷よ
「てか、これ詩じゃね?」
「あぁ。俺は詩だけは苦手で…。どうもわからねぇ。」
「いや、田沖じゃなくてもわからねえよ、これ。大体、海と太陽をつかむってどういうことだよ?これが帰り方なんか?」
「白いヒヒル、か…。」
ふと見た窓に木の葉が揺れている。そしてそこにヒラッと白い何かが見えた。それは誘うようにヒラリヒラリと飛んでいる。
「これ、帰り方ってことは行き方にも何か関係ありそうやな。」
キクモが話しているのを遠くから聞いているみたいだ。俺は風に舞う、それに目を奪われていた。ヒラリ、ヒラリ。ヒラリ、ヒラリ。
「そうやな。なんかこのヒヒルってのが関係ありそうやな。」
「ヒルみたいで嫌やな。」
「田沖、このヒヒルって何なんだ?」
ますますそれは美しく舞う。
「ヒヒルってのは、蛾のことだ。」
田沖の声が大きく聞こえ、俺はぼやっとした重たい頭をふった。
「蛾…?」
「へぇー。でも最近白い蛾なんて見ねぇなぁ。」
急に頭がはっきりしてきた。ビリッと体を何かが駆け抜けた。
「おるで。そこに。」
俺は興奮を抑えて言った。指差した先には風に揺れる木の葉、そして…。
そう、それは一匹の白い蛾だった。
* * *
バシャー!!という大きな水音と共に私の脳裏に一瞬、もとの世界の光景がうつった。
―みんなが学校から列をなして帰っていくー
次の瞬間には、私は打ち寄せる波にゆられていた。少したっても私はさっき見た鮮明な光景に動くことが出来なかった。波がどんどん服をぬらしていく。さっきの光景は私の記憶にはない、だからあれは現在のことなのかもしれない。でもどうしてこの海に触れた瞬間に見えたんだろう。
「守井、大丈夫か?」
「う…うん。」
私は起き上がって砂浜に戻った。制服がずぶぬれになってしまった。私は若干、後悔した。その時、隣でバリバリという音が聞こえてきた。
「うーん。魚もいけるな。」
と、驚くことに黒和が腐りかけた魚をバリバリ食っていた。私はもう、何も言えなかった。隣から魚の腐った臭いがしてきた。
何時間たったのか。相変わらず変化のない風景に、私もだんだんゆったりしてきた。だめだ…黒和みたいになってしまう。私は黒和がくれたわかめを食べながら、ぼんやりした頭で考えた。そして、ひんやりした波に手を触れようとした。その瞬間またも鮮明な光景が見えた。
―大崎と明原、あと同じクラスの2人が本に囲まれているー
それを見たことで私の頭は急に冴えた。座っているだけでは、黒和のようになってしまう。だから私は、砂浜を歩き始めた。
この世界にいればいるほど、私の心から不安が消え、悩みもつらかったことも思い出せなくなっていた。そう、ここでは何も考える必要がないのだ。だから黒和も呆けてしまったのだろう。砂浜を踏みしめて歩くうちに、この世界と自分が住んでいる世界の何が違うのかと考えるようになった。空気も、空も海も、太陽もあまり違いがないのだ。違いといえば、ここが静かすぎることだ。あと、生き物がいない。そして風がない。
私は出てきた森に近づいてみた。森には風が吹いている。ふと、森には生き物がいるかも知れないと思った。森の入り口に小さな桃色の花が咲いている。
と、波の規則正しい音が乱れた。同時に数人の話し声が聞こえてきた。
私は、ふり返った。黒和が立ち上がっていた。
そしてー。
* * *
俺たちは、図書館を飛び出した。白い蛾はとまったり、はばたいたりしながら進んで行く。俺たちはそれをひたすら追いかけた。冷房の効いている図書館にいたせいで、暑い。今年の梅雨はまだはじまってないのに、むっとした空気が日本全体を覆っていた。
蛾にあわせて走ったり、歩いたりを繰り返すうちに、汗が額を流れた。
「暑いな。」
明原が同じように額の汗をぬぐいながら言った。
「つかめよ 海を 太陽と…」
田沖が後ろでぶつぶつ言っている。
「田沖、よくこんなの読めるなぁ。」
キクモは、三良手記をめくりながら歩いている。三良手記は、借りれないはずだから、持ち出してきたらしい。
「それにしても、暑い。」
キクモは三良手記を閉じて、それでパタパタと扇ぎ始めた。
田沖が気付いてはっと息を呑み、俺は思わず後ろをふり返った。田沖は三良手記をキクモからひったくった。
「やめろよ!それマジで貴重やねんぞ!日本に2冊くらいしかないねんで!」
「えぇ!?」
3人の声が重なった。そんな貴重なもの、よく持ち出せたものだ。
「って言っても、ほとんどの人はこれの存在知らんけどな。」
「なんやねん。意味ないやん!」
キクモがつっこんだ。
「でもそれのおかげでヒントをつかめたやろ。」
明原が笑いながらふり返って言った。
「ほんで、前を見てみろよ。蛾が一匹増えたで。もっと増えるんちゃうか。」
俺たちは黄色い屋根の小学校の脇を通り、橋へと向かっていた。平日だが、子供たちの姿は全く見えない。そして橋を渡るころには、明原が言ったように、蛾はこの短時間で凄い集団と化していた。
1時間後。静まりかえった海辺の町に異様な光景があった。俺たちだ。汗を流しながら、白い蛾の集団を追いかけているのだ。もっと世の中が平和であったならすぐに噂になっただろう。
「なんだ、こいつら海に向かってるんか。」
キクモが呟いた。
風が海の香りを運んでくる。いつの間にか、日が傾きかけていた。
「あっ、踏み切りや!」
赤いランプが点滅しつつ、カンカンというおなじみの音が響いている。そしてその先には、海。
蛾たちは、踏み切りを無視して飛んでいく。俺たちは突っ立って、踏み切りがあくのを待った。目の前を電車がすごい音とともに通過していく。やっと踏み切りがあいたときには、蛾たちとずいぶん離れてしまっていた。
「よし、全速力!」
明原が砂浜を駆け出す。陸上部なだけあって、速い。残りは必死になって、明原について行った。足がもつれる。全速力で走ったのは久しぶりだった。部活を休み始めてから走っていない。思ったより、なまっていた。
日中、ぎらぎら光っていた太陽がもう淡い光しか出していない。雲がゆっくりとオレンジ色に染まっていく。
「やばい!もうすぐ日が沈むで!」
田沖が叫んだ。
ぜぇぜぇ言いながらも、とりあえず俺たちは波打ち際にたどり着いた。
「?!」
よくみるとそこら中に蛾がとまっている。寒気がした。
「んで、どうするん?」
「本の通りやろ。海面が光るのを待つ。」
太陽はゆっくりと動き、山の陰に隠れようとしていた。
「暑いな。」
俺は汗を拭こうとハンカチを取り出した。と、何かがひらりと落ち、風によって海へと運ばれた。あれはもしや…母さんに渡されて、行きしに無造作にいれた…、
「あぁっ!!俺の一万円札っ!!」
俺が波にのまれた大事な一万円を追いかけて海に入り、仲間が俺を止めようと、これまた海に入ったのと同時に海面が輝きだした。
「うわぁっ!」
目の前が光でいっぱいになる。俺の一万円よ、さらばだ。悲しくそう思いながら、俺は真っ白な世界へと落ちていった。
* * *
息が、できない。頭上に微かな光が見えると思った瞬間、口から空気の泡が漏れ、水がどっと流れ込んできた。塩辛い。そして空気を逃がしたために、窒息しそうだ。俺は懸命にもがいた。ようやく水面に頭が出て、胸いっぱい空気を吸った。ふと、普通に足がつく高さだと気づいた。こういうことってよくあることだよな、と思いつつ俺は砂浜に上がった。
さっきとあまり変わらない砂浜に俺たちはいた。いや、目の前に誰かいる。そいつは口をもぐもぐさせながら、俺たちを見ていた。
「黒和なのか!!お前、生きてたんだな!良かったー。」
「黒和がいるってことは、ここが別次元なのか…。」
「じゃあ、守井さんとかもおるん?」
みんなで騒ぐ中、俺はなにか違和感を感じた。黒和が何か変な気がしたのだ。
そこへ、突然砂浜を走ってくる音がした。
「大崎―!!」
心臓が高鳴った。森のほうから守井さんが駆けてくる。俺は反射的に手をのばした。
「守井―!」
手と手が会った。力強い反動がある。体の奥から力が湧き上がる。また、会えた。その安心感に俺は胸がいっぱいになった。しかし、その直後に俺は黒和のことを思い出した。
「守井、あのさ黒和は…。なんかあった?」
守井さんは困ったような顔をした。明原たちも真剣な顔をして集まってきた。
「うーん…。なんか私がここに来たときにはこうなってた。」
「そうか…。」
「これからどうする?」
「帰るに決まってる。」
キクモが言う。
「無理だ…。」
田沖が静かに言った。
「なんで?」
「さっきからここは風景が変わってない。太陽の位置も全然動いてないし。波はあるけど、それだけやし。このままだと海面が輝きだすことはないやろ。」
「な、なんで変わらへんの?」
「それは、多分…。」
「風が、ないから…?」
守井さんがつぶやく。田沖がうなずいた。
「じゃあ、どうすんねんっ!」
キクモが叫んだ。
「とりあえず、落ち着こう。んで、向こうの方いってみよう。」
明原がさした先には、深緑の森があった。
* * *
「そういえば、森には風が吹いてる!まぁ、あんま関係ないけど。」
私は急に思い出した。そう、森の入り口には桃色の小さな花がゆれていた。
「でも、森に行ったらなんかあるかもな。ここ、砂ばっかやし。」
「どう行くん?」
「こっち、ついて来て!」
私は大崎の手をひいて、歩き始めた。
「お、おう!」
「おい、黒和。行くで。」
田沖が黒和をひっぱってついて来る。黒和は抵抗しているようだ。
森の入り口につくと足元の花が揺れている。微妙ではあるが、やっぱり風が吹いている。
「ここ?」
「うん。」
とそこで、まだ手をつないだままだったのを思い出した。
「うわぁ!ご、ごめん…。」
パッと手を離す。私…なんて大胆なことを…!顔が赤くなる。嫌だったかな…。
「あ、ううん。いいで。」
大崎がうつむきがちに答える。耳が赤い。それを見て少しほっとした。とりあえず、嫌そうな顔はしていない。
「じゃあ、入るか。」
みんなはうなずいて、明原を先頭に森の中に入っていった。
森の中の風は一方向から吹いてくるようで、私たちはその元を探して歩いた。といっても風は微妙にしか吹いていなくて感じるのが難しい。幾度となく、指を舌でなめて風を感じようと努力した。足元には枯葉が散らばっている。季節は、あるのだろうか。森は静かで、ときおり黒和がうめく声が聞こえる以外はほぼ何も聞こえなかった。
「森から出たいーいやだーやめてくれー」
「黒和、大丈夫なんか?」
明原がふり返って言った。私の前を歩いていた大崎も心配そうな表情でふり返った。
「いやだーもう考えたくないー」
「大丈夫じゃなさそう。もう、俺らのこともわからんらしい。」
田沖が黒和をおさえて言った。なぜ、黒和はおかしくなったのだろう。彼も私も同じように砂浜に座り、わかめを食べて過ごしていた。違うとすれば…、ここで過ごした時間?
「そういえば、大崎たちは海から出てきたの?」
「あ、うん。」
「そうそう、大崎が『俺の一万円!!』とか言いつつ海に入っていったから。」
「え?一万円??」
「あー、大崎、あれ結局あったん?」
「なかった!ほんま最悪や。」
「でもあれのおかげでここに来れたやん。あの一万は通行料ってことで!」
「通行料、高すぎやろ!じゃあ、おまえら2500円ずつ払えよ!」
「いや、それは大崎のおごりやろ!」
「よっしゃー!ありがとう!」
「はぁ?なんでやねん!」
急に森の木々がざわめいた。風が髪を巻き上げていく。
「ところで、守井も海から来たん?」
「ううん。私は気付いたら、森にいた。」
「ふーん。なんでやろ?」
田沖は難しい顔をした。
「ここに書いてないかなー。」
キクモが三良手記をめくる。
「じゃあ、守井さんはどうやって砂浜に行ったん?」
明原が不思議そうな顔で言った。
「なんか…、白い蛾を追いかけたら、着いた。」
「そっかー。まぁ、いいや。それよりどうやって帰るねん。」
「さぁー。」
「さぁーって、あかんやろ!」
「ついでに、ここどこ?」
随分と奥まで来ていてもうここがどこかも分からない。突風が吹いた。
「すごい風やな!ここが森の風の元かな?」
キクモが大声で言った。大声を出さないと聞こえないくらい、風が吹き荒れている。嵐みたいだ。
風の中をしばらく歩く。落ち葉が飛んでいった。
* * *
数分歩くと風はおさまってきた。と、いきなり獣の咆哮が聞こえた。森に響く、遠吠え。私たちは一瞬、身構えた。しかしその直後、突然心に感情が波のように押し寄せてきた。
―クラスになかなかなじめなくてさみしい思い、悲しい思い、友達と遊んだ楽しい思い、うれしい思い、塾の先生に褒められたときの誇らしい思い、親にわかってもらえない悔しい思い、恋する切ない思いー。それはここに来る前まで普通にあった、数々の感情だった。
溢れる、あふれる思い。走馬灯のように駆け巡る記憶と、その時は感じないようにしてきた感情でいっぱいになる。そこまで辛かったはずないのに、ぽろぽろと涙が出た。なにがそんなに悲しいわけでもない。だけどこのやるせなさは何なんだろう。私はその感情を抑えようとした。消してしまおうとした。初めて感じたこの感情が恐かった。
何分がたっただろうか。最初に自分を取り戻したのは、意外にも大崎だった。私もだんだん平静を取り戻した。みんなも動き始める。私は自分の頬が涙で濡れているのを知って、驚いた。よく考えると、考えなくても分かったが、鼻の奥も目も痛い。きっと赤く腫れているに違いない。
「あ、あそこ見て!」
大崎が、目を少し見開いてかすれ声で言った。
みんなが一斉にその方向を見る。もちろん崩れ落ちている黒和以外だが。
木立の間に、黄金色に光る毛並みが見えた。と思うとそれはゆっくりと向きを変えて私たちと反対方向に歩き出した。しかしすぐに立ち止まって、私たちを見た。爛々と光る青い目。それは黄金色のオオカミだった。森林オオカミ…?でもこんな色のオオカミ、見たことない。一見するとまるでライオンのようだ。
オオカミは、またもや固まってしまった私たちを見た。私は、オオカミが少し恐かった。あの射抜くような目で見られると、さっきの感情の波が戻ってきそうで、鼻の奥がツーンとした。
オオカミは私たちに「ついて来い」と言うように、足踏みをした。それでも誰一人動こうとしないのを見ると、空を仰いで急かすように咆哮をあげた。
* * *
俺はオオカミの咆哮にびくっとした。心臓がずきずきする。黒和のすすり泣きが聞こえてきた。
「行こう。」
俺はつぶやいて、歩き始めた。なぜオオカミの跡なんてついていくのか、自分でもわからない。それにオオカミの近くなんて、いつもなら絶対行きたくない。
俺が歩き始めると、明原が追いついてきた。並んで歩く。後ろを見ると、守井さんが青い顔をしているけど、しっかりした足取りでついてくる。そのさらに後ろには田沖とキクモが、両端で黒和を支えながら歩いている。オオカミはゆったりと前に進んでいく。
「なぁ、あのオオカミ、俺らをどこに連れてく気やろ?」
「わからん。まず、黄金色のオオカミとか見たことないし。」
「ライオンみたいやもんな。」
キクモがなぜか、ぶすっとして言った。田沖がずれた眼鏡を押し上げた。守井さんと目があった。守井さんが何か言おうと口を開いて、閉じた。
「何?」
守井さんは少し躊躇ってから、もう一度口を開いた。
「あのさ…、みんなは何か感じた?あの遠吠えを聞いたとき。」
感じた。俺は、あの感情の波を感じた。それが守井さんが言ってるのと同じならだが。隣の明原を見ると、やけに難しそうな顔をしている。
「うん…、感じた。涙、出てきたよな。」
「泣いたら、すっきりした。」
田沖はすました顔で言った。泣いていたようには見えねぇー。
「それより、黒和をなんとかしろよ!」
キクモが困り顔で言った。見ると、黒和の顔に表情がない。それにぐったりとしている。俺たちは立ち止まって、黒和のまわりに集まった。
「生きてるよな?」
心配になって聞いた。目に光がない。まるで廃人のようだ。
「黒和…?大丈夫か?しっかりしろよ!」
明原が肩を揺すって声をかける。
「い…嫌だ…なにも…考えたく…ない…」
黒和は、かすれ声でなんとか喋った。
「なんで…?どうしたらいいねん。」
前でオオカミが、訝しげに立ち止まった。光をうけて輝く毛並み。身を貫くような鋭い青い目。オオカミは黒和をじっと見ると、突然こちらに向かって駆けてきた!!
俺たちはオオカミがこちらに向かって駆けてくるのを、呆然と見ていた。金縛りにあったかのように体が動かない。ただ心臓だけがズキーンズキーンと打っている。
黒和が白目をむいた。口があんぐりと開く。その顔が苦痛の色に変わった。キクモは愕いて思わず黒和から離れた。
刹那、黒和から何か黒い獣が飛び出した。黒曜石のような黒い毛並み、そして真紅の瞳―。漆黒のオオカミだ。
漆黒のオオカミは黄金のオオカミをふりきって、森の外へと走り去った。一瞬であった。どさっという音とともに黒和がくずれ落ちた。黒和はさっきよりもひどくなっていた。というより本当に抜けの殻になったようだった。自分で立ち上がることさえできないし、その口からは呼吸音以外何の音も漏れてはこない。
「黒和…?」
俺たちは顔を見合わせた。
「あのオオカミなに…」
俺は黙って黒和を背負った。黄金のオオカミについて行くべきだとはっきりと感じた。
「行こう」
歩き出す俺たちを見て、オオカミが先頭に立った。
しんとした森の中に靴音だけが聞こえる。だんだん辺りが暗くなっていく。時間がたっていくにつれ背中の黒和が重さを増していく。どうして俺は黒和を背負ったのだろう?重い…誰か代わってくれないだろうかー。
「あっ、あれ!なんやろ?」
キクモの目線の先には、少し明るくなっている所があった。淡い光がたくさん集まっているように見える。もしや、あれが目的地か…!俺の心に希望がうまれた。なんにしろ重いのだ。
「すごいなぁ…」
オオカミがゆっくりと進んでいく。明かりが近づいてくる。その体が光の中に入っていくと目の前が開けた。俺たちは息を呑んだ。夢の中のように幻想的で、大きな洞穴、その前に流れる美しい小川。そして黄金に輝く毛並みをしたオオカミの家族たちー。
子供のオオカミたちが駆け寄ってくる。俺たちを連れてきたのは父親オオカミだったらしい。
「こんな森の中に…こんなきれいなとこがあるんや…」
キクモがつぶやく。
「夢みたいやなぁー」
明原もうなずく。俺はついに重さに耐え切れなくなって、黒和を地面におろした。肩が固まっている。
「黒和ほんまに大丈夫なん?」
「うーん、生きてるとは思う」
もし、黒和がこのまま死んでしまったら。どうしようとは思うだろうけど、まだ悲しみを想像することができない。俺はぐったりしている黒和から目を逸らして肩をまわした。
「大崎、おつかれやなぁ。ありがとう」
守井さんが気付いて言ってくれた。俺も笑顔になる。そんな場合じゃないけど、嬉しい。
「おつかれ、大崎。でもまだ余裕やろ?」
「おまえ、一番背ぇ高いし」
「守井さん、お礼言うことないで。当然のことやろ~」
「今度から荷物全部こいつに持たせたらいいねん」
明原まで悪乗りする。
「おまえらなぁ!余裕ちゃうし!めっちゃしんどいわっ」
「え?しんどかったん?」
無邪気な顔をして守井さんも乗ってきた。
「いや、まー俺にとっては余裕やったかなー。黒和なんか軽い軽い。何も背負ってないんと同じやわ」
「お~さすが!じゃあ、今度から頼むわ~」
「なんでやねんっ」
俺、このキャラ守井さんの前ではなんとなく嫌だぁー。
子供とたわむれていた父オオカミがようやくふりかえった。そしてオオカミの家族たちがわらわらと、俺たちのまわりに集まってきた。においをふんふんと嗅がれ、いごごちが悪い。みんな緊張している。突然、キクモが体をよじりながら笑い始めた。鼻でわき腹を突かれたらしい。子オオカミが驚いて、雌オオカミがキクモにむかってうなり始めた。
「ばかっ!キクモ、おとなしくしろ!」
ひーひー言いながらキクモはおとなしくなった。子オオカミがとても可愛い。こんなに可愛いものが大人になるとあんなにもいかつくなるんだなーと俺は少し残念に思った。
ふと黒和の方を見ると、どのオオカミも黒和に寄っていかない。遠巻きにしている。黒和を生き物として認めていないのか、黒和からさっき変な真っ黒なオオカミが飛びだしたからなのか。
すこしたつと、まるで検査が終わったのかのようにオオカミたちが離れていった。そして、俺たちの前に半円になって座った。若いオオカミが一匹、前に進み出た。
「ようこそ、人の子たち」
深みのある声が言った。信じたくはないが、この若い雄オオカミがしゃべっているようだ。俺は頭がくらくらしたがなんとか持ち直した。こんな世界にいること自体、非日常なんだ。これ以上何があっても驚かない…はず。俺たちは顔を見合わせて、明原が口を開いた。
「あの…すいません、あなたがたはオオカミですよね…?」
「そう呼ばれている」
「く、黒和を…こいつなんですが、助けてもらえないでしょうか」
若オオカミは黒和を見やった。
「この子は心をとられたのだろう。助ける方法は教えられるが、助けることはできない」
「心をとられた…?」
「父が言うに、その子から黒狼が出たとか。我らの洞穴に近づいていって耐え切れなかったのだろう。黒狼はそのとき心も取っていったのだろう」
俺たちはぞっとした。黒和はとりつかれていたのか。
「黒狼は我ら金狼族の敵で、長年戦い続けている。奴らはどんな感情でもすべて吸い尽す。そして心までうばっていくのだ」
金狼族が憎しみにうなり声をあげる。風が巻き起こった。と、またも心に感情が溢れそうになった。黒和が…もう二度と一緒にしゃべったり出来ないのかもしれない。悲しみ、哀しみ。
「じゃあ、あなたがたは感情を溢れさすことができるのですね」
田沖が薄汚れた眼鏡の位置をもどしながら言った。
「そうだ」
「俺たちはどうすればいいんですか?」
「黒狼族の住処からその子の心を盗んでくるんだ」
盗むってー取り戻すの間違いじゃないだろうかと俺は少し思った。が、そんなことを言っている場合ではない。俺は黒和を見た。元気だったころのあいつを思い出せなくなってきている。
舞い上がる風に、深い森の木々がざわめいた。
* * *
私は必死で考えていた。考えなければ不安で押し潰されそうだ。私たちはこのままこの世界から出られないんじゃないだろうかとか、黒狼のところに行って失敗したら私たちも黒和のようになってしまうんじゃないかとか。黒和は助けたい。でも恐い。二度と、家族や友達に会えないかもしれない。みんなはこんなこと考えていない。明原くんも大崎も、黒和を助けることだけを考えている。
何故か自己嫌悪になりつつある自分を隠して、私は明るく振舞った。
「じゃあ、作戦たてなきゃ」
数時間後。私たちは金狼たちと話し合っていた。
「人の子だけで行くのはあまりに無力だろう」
私たちは、はぁと言った。たしかに素手でオオカミに立ち向かうのは絶対に無理だ。
「私の祖母が言うには、人の子でも私たちの姿になれる者がいるらしい。祖母の代には現にそういう者が来たらしい」
「どうやってなれるかどうかわかるんですか?」
金狼はそれには答えなかった。黙って立ち上がると、その祖母らしき年老いたオオカミを連れて来た。
祖母が優しい目で私たちの目を見ていく。突然、血がざわめいた。まさか。祖母は私の方にやって来て、乾いた鼻で私をつついた。
いきなり心の奥からエネルギーが湧いてくる。喉をついて咆哮がほとばしった。眼の前に光が溢れて、私は思わず目をつむった。
「守井…?」
大崎の声に私はゆっくりと目を開けた。信じられない思いで、私は自分の両手を見つめた。いや、それはもうすでに前足だった。ふさふさと金色の毛が生えている。そして私はすでに四足で立っていた。
「な、なにこれーっ?!」
言葉にしたはずが、口から出てきたのは獣の鳴き声だった。私はよろめいた。周りを見渡す。オオカミになっちゃったのって私だけじゃんっ!なんでっー?しゃべれないし、どうしたらいいんだろう。というか、人に戻れるのかな…?
「で、あのーどうしたら守井は人に戻れるんですか?」
大崎が心配そうに尋ねた。
「そのうちわかるだろう」
「えーっ!そんなぁ~」
大丈夫だろうか。このままとか、ないよね…。
「守井は大丈夫?」
大崎が聞いてきた。
「大丈夫」の意味で私は尻尾を動かした。牙がうずく。
「で、守井さんのことはあまり深く考えないことにしてー。作戦考えよう」
明原が言った。しかし足が走り回りたくてうずうずしている。オオカミはそれに気づいたらしい。
「人の娘はこっちに来い」
私は笑顔になって立ち上がった。
「姉貴、こっちこっち」
小さいオオカミたちが急かす。私は狼語もわかるらしい。何が起こっているのかわかっていない大崎たちに「心配しないで」という意味をこめて、そして笑顔のつもりで牙をむき、私は駆け出した。言葉が通じないってやっぱり不便。
風が過ぎていく。全身の筋肉を使って走る。人間ってなんてとろかったんだろう。私はそう思った。何一つオオカミに勝てやしない。自分が人間だったころが遠い昔に思えてきた。あちらこちらに黄金の毛並みが見える。
「娘よ、今から狩の仕方を教える」
狩。そう聞いて私は胃が空っぽなことを思い出した。急に腹がなる。肉を食いたい。眼をぎらつかせ、舌なめずりをする。オオカミになると性格が荒っぽくなるらしい。私はぼんやりとそう思った。
* * *
俺たちは守井さんとオオカミたちに置いてきぼりにされていた。守井さんは足音も軽やかに駆けていったが、残された俺たちはなにをするんだろう…。作戦か、やっぱり。
「で、どうする?」
明原が俺たちの顔を見回す。
「相手の数も住処の構造も、弱点も何もわからないのに作戦なんかたてれんやろ」
田沖が言う。
「そもそも心なんかとり戻せるんか?」
「あー、それはさっきの金狼が言うに黒狼は心を玉に変えるらしいから。一応、見えるしつかめるんちゃう?」
「玉って…竜みたいやな」
「作戦、失敗して俺らも黒狼にやられたら黒和みたいになんねんな」
「現実に帰りたい」
「大崎、弱音吐くなやー」
「え、今のん俺ちゃうし!」
「あ~。おかん心配しとうやろなぁ」
「大崎、おまえプライドないんか」
「だから俺ちゃうって!今のんキクモやん」
「おまえ、自分が言ったことも他人のせいにするなんて」
「ほんま、そんなんで守井さんは落とせんで」
「おまえらなぁ~」
ひどい言われようだ。なんで俺はこんなキャラなんだ。いつからだ?俺はふくれた。
というか見ると全員が、明原さえもが、にやにやしている。
「な、なに」
「え?なんもないで。なぁ?」
「あぁ、なに言っとん大崎」
とか言いつつ、やっぱりにやついてるじゃねーかっ!
「大崎はほっといて、作戦考えよか」
「じゃあ俺、金狼から黒狼のこと聞いてくるわ」
「おー、頼むわ。田沖には三良手記を読み進めてもらうとして…俺と大崎はその他雑用しよう」
「俺、ほっとかれるんじゃなかったっけ?」
「いや、仕事はしなな」
俺は心の中で『けっ』と言い、明原の後について行った。
数分後、俺は明原とともに黒和を移動させた。そして戦いにそなえて薬草を探しに行く。薬草といってもゲームの中のように体力が回復するわけでもない。しかも特に黒狼に効くわけでもない。普通に化膿を抑えられる程度の普通の薬草だ。
「これ使うときあるん?」
俺はぶつくさ言いながら、薬草を探した。小川の向こう側で守井さんらしき狼が金狼とともに駆け回っている。本当にきれいだ。と、オオカミがスピードをあげた。よく見るとウサギを追いかけている。狩だ。遂にオオカミが大きくジャンプをしてー。俺は目を背けた。見れないわけではないが、好き好んで見たくはない。
「明原―!」
キクモが向こうで叫んだ。情報を集められたらしい。
「大崎、行くで」
明原は走っていく。俺もふてくされている場合じゃないと思い直して、薬草を放り出し走り出した。
「…やったら、無傷で取り返すって無理やん」
「そうやなー」
「ついに俺の薬草が役にたつときが!?」
「いや、下手して黒和みたいになってもたらやばいやろ。感情消されたら、動けんやろうしなあ」
田沖が三良手記から顔をあげた。
「…金狼なら大丈夫なんちゃう」
明原が顔をしかめる。
「でも金狼は俺らを助けてくれんやろ」
思い当たって俺は田沖をにらんだ。
「どういうこと?」
キクモが身をのりだした。
「守井さんは金狼やんか」
* * *
狼に変わって何時間たったのだろう。空腹も狩で満たされて、私は他の金狼と一緒に草原に寝そべっていた。
「守井―っ!」
遠くで明原が呼んでいる。私は起き上がり、伸びをして走っていった。
明原たちは、草原の端っこで焚き火を囲んでいた。肉の焼けた匂いが漂ってくる。私は火からなるべく離れて座った。
「守井さん、晩御飯いる?」
キクモが棒にさした肉を差し出した。私は喜び勇んでその肉に飛びついた。
「でな、作戦やねんけど」
田沖が眼鏡を押し上げて口を開いた。何故か大崎がむすっとしている。
「守井さんに囮になってもらうことにした」
田沖が大崎をにらんだ。
「大崎は不服みたいやけどな」
大崎が口を歪める。
「守井さんは金狼やから、心を取られることもないし黒狼とも対等に戦えるやろ」
明原が自信がなさそうに言った。
「頼む、黒和を助けるにはこれしかないねん」
私は尻尾を振った。「できる」。というかやるしかないなら聞く必要もないよね。それに金狼族にとって黒狼は憎き敵だ。
「ありがとう」
みんなが口々に言った。だけど、大崎は黙ったままだ。
「作戦の決行は明日な。早いほうが良いし。黒狼族は砂浜を挟んでこの森と反対の森に住んでるらしい」
「明け方には出発する。といってもこの時計での話しな」
「ほんま、いつが夜なんか全く分からんなー」
そう、太陽の位置は私がここに来たときから全く変わっていない。
「そういえば俺らどこで寝れば良いん?」
「え、このへん?」
「まじか~、まぁここけっこう快適やもんな」
「よし!飯も食ったし、明日のためにもう寝よう」
明原が立ち上がって、木陰に地面をならし始めた。大崎が黙って立ち上がった。
「大崎どこ行くん?」
「ちょっとな」
大崎は木々の中に歩いていった。明原がその背中を心配そうに見つめた。私は思わず大崎の後を追って駆け出した。
* * *
俺は地面を蹴った。どうしようもない気持ちが溢れていた。オオカミ同士でも戦ったら危ないだろう。囮になんてなって欲しくない。でも実際守井さんの方が俺よりも強いのだ。
俺はでかい木の根元に腰を下ろした。
「クゥーン」
俺は驚いて顔を上げた。金色の鼻面と俺は顔を突き合わせた。
「守井っ!」
足音も聞こえなかったのに、守井さんがここにいて心配そうに俺を見ていた。風がそよぐ。
「なんで来たん?」
俺は思わず微笑んで言った。本当は来てくれて、嬉しい。守井さんがまた「クゥーン」と言った。
「そうやった。よしよし」
頭をなでてやる。これじゃ、まるでオオカミじゃなくて犬だ。
「ごめんな、囮なんて一番危ないのに」
「大丈夫」と言うかのように守井さんが牙をむいた。なるほど、だけど相手の牙もすごいんじゃ?
「こわくないん?」
全然こわがってないようだ。その決意に満ちた茶色い瞳に吸い込まれそうになる。守井さんが本気なのに俺が不安がってどうする!
「ありがとう、守井」
枯れ葉が舞い上がった。金の毛並みがかすかに揺れた。涙が出そうになって、俺は黄金のオオカミをひしと抱きしめた。
翌朝――決戦の日。朝といっても夜がないのと同様、昨日と全く変わっていない。が、とにかく俺たちは身支度を終えて集まった。満足にナイフも持っていない。あるのは動物の骨を金狼がかじって尖らせてくれた物くらいだ。後は昨日キクモががんばって編んでくれたらしい、草でできたロープもどき。干し肉、木の実。俺はちゃんと薬草も持っている。田沖は、もちろんのこと三良手記をしっかりと両手に抱えていた。
「田沖、それ置いてけよ」
「なんで?これが役に立つかもしれんやろ。それにこんなとこに置いてってなくなったら嫌やしな」
俺はキクモと顔を見合わせた。まぁ、田沖には何を言っても無駄だ。
「よし、じゃあ行こか」
守井さんが先頭で歩いていく。草原が終わったところで振り返ると、金狼族が俺たちを見送りに来ていた。守井さんはどんどん森の中を駆けていく。俺は必死で追いかけた。明原は平気な顔をしていた。俺は心の中で毒づきながら走った。遠くのほうで金狼たちの遠吠えが聞こえた。
2、30分後俺たちは突然砂浜に出た。
「…腹へった」
俺は持ってきた木の実をかじった。田沖はぜぇぜぇ言っている。
「ほら、置いてけって言ったやろ」
「いや…大丈夫やし…」
キクモがあきれて空を仰いだ。守井さんと明原は全く疲れた様子もなく、すでに歩き始めていた。
「おまえら、早く来いよ」
「おまえなんでそんなに疲れてないねん」
「田沖と違って、何も持ってないからな」
田沖がむすっとした。
「今にこれが役に立つときが来るし」
「あ、あの森?」
キクモが指をさした。守井さんが尻尾を振った。
「はい、あげるわ」
俺は、後ろにいた田沖に木の実をあげた。
「あ、ありがとう」
すごく酸っぱかったやつを、だ。俺の背後で田沖が盛大に口をしぼませた。
例の森は近づいてみると金狼たちの森と違って、どんよりと薄暗く見るからに危なそうな感じだった。こんな森に誰が好き好んで入るだろうか。そうは思ったが俺は先頭に立って、森の中に一歩踏み出した。
「わっ」
地面がにゅるっとしたと思うと、俺はしりもちをついてこけた。
「痛ってぇー」
「大丈夫か大崎!」
「大丈夫じゃない。めっちゃケツが痛い」
しかも守井さんが見てる前で…。あぁ恥ずかしい。
「けっこうヌメッとうで。みんな気をつけてな。俺が言うのもなんやけど」
「あぁ、おまえみたいにならんようにするわ」
「うぅ」
結局、守井さん以外の全員が森に入るときに滑ってこけた。
「なんだかんだ、おまえらもこけとるやん」
「いや、俺のこけかたは大崎のより素晴らしかった」
「何言ってるん。今のはキクモ流の歩き方やし」
「なんやねんそれっ」
「くそー、どろどろや」
「このズボン、買ったばっかりやったのに」
「ドンマイ、まぁこの状況、二本しか足ないねんからこけんのも仕方ないやろ」
キクモはうらめしそうにズボンを叩きながら、守井さんを見やった。それから俺たちはぶつくさ言いながら、この不吉な森の奥へとどんどん進んで行った。
この森には生き物がいなさそうだ。空気まで暗い。風も絶えている。俺たちの間からも会話がなくなった。沈黙が続く。それは多分この森が黒狼族の領域だからだ。感情がどんどん薄くなっていくはずのこの環境で、俺たちが正気を保っていられたのは守井さんがいたからだ。金色の毛並みの周りだけ風が吹いている。それはけっこう異様な光景だった。
「あっ、あそこらへんからもう森じゃないで」
明原がかすれ声で言った。ここも木がまばらだ。
「じゃあ、ここからは囮作戦を実行しよう。俺らは守井さんの後を、守井さんがぎりぎり見えるくらいまで離れてついて行く。それで、黒狼たちが守井さんの方へ行ってから黒和の玉を取り返す」
「オーケー。まぁ、黒狼も全部が守井のとこに行くとは思えへんから…俺らも覚悟しなな」
「守井さん、行ける?」
「守井、もし何かあったら吼えるかなんかして知らせろよ」
黄金のオオカミは茶色の瞳で俺の目を見て、くるっと向きを変えたかと思うと敵地へと駆けていった。
* * *
私は枯れ草の上を走った。こういう、いつ敵が現れるか分からないのは本当に嫌だ。いつも心臓に悪いと思う。もっともいつもは画面の中のことに緊張しているだけなんだけど。正直、今の気分は最低。しかも走れば走るほど気分は悪くなるばかりだ。こんなんで黒狼と戦えるのだろうか。私は不安になってきた。
大崎たちと十分離れたと思える所まで来たから、私は歩き始めた。オオカミの急所ってどこだろうなぁーそんなことを考えて気づいた。家に帰りたいと思っていない。ちがう、帰りたい、だけどそれは黒和を助けてからだ。この戦いを逃すことはできない。こわい気持ちの反面、血が騒いでいる。オオカミになる前には思いも寄らなかったことだ。
ふとずっと前方に洞穴らしきものを見つけて私は立ち止まった。もう少し、近づくと洞穴から何か黒い獣が顔を出した。本能が、金狼としての本能が逃げろと告げている。でも私が引き付けなければ、そう思っているうちに黒い獣が洞穴から完全に出てきた。そして頭を上げるとすべてのものを圧倒するような長い長い咆哮をあげた。
漆黒のオオカミの咆哮は耳を貫くように響いた。そしてその声に応えるかのようにたくさんの黒狼が姿を現した。
私は黒狼がこちらを凝視しているのを見て、ぴょんぴょんはね始めた。その挑発を黒狼が無視するはずがなかった。私は黒狼がこちらに駆けてくるのを確認すると全力で走り始めた。目のすみに大崎たちが見えた。
横を見ると、もう黒狼が迫ってきていた。足がすごく速い。追いつかれる。私は数匹に囲まれた。もう逃げられない。そう思った瞬間、黒狼たちが一気に飛び掛ってきた!
「走れ!」
俺たちは明原の掛け声で、一斉に黒(くろ)狼(ろう)の棲家へと走った。俺は振り返って、金色のオオカミを探した。黒狼の群れの中で金色が見え隠れしている。
「守井!」
「大崎ふりかえるな!」
明原が怒鳴った。
「お前が行っても意味ないやろ!」
そうだった。人間はあきれるほど無力だ。俺は走った。心は感情で乱されたままただ走った。
「うわっ、黒狼来たで!」
キクモが叫んだ。見ると何匹かこっちに気付いて、駆けてきている。だめだ、絶対に追いつかれる。棲家まであと、50メートル…。
「走れェっ!!」
息が苦しい。心臓が必死でうっている。
荒い息が横で聞こえた。ぞっとして横を見ると真紅の瞳が俺を見つめていた。
俺の中で風がやんだ。何も感じられない。何も感じない方がらくなんだ。黒和のことも守井さんのことも、キクモや田沖、明原のことも。楽しかったことも、嬉しかったことも。他人を思う気持ちも。つらさ、苦しみも悲しみも、全部感じないで生きていけたら――。
俺は立ち止った。走る意味を、そして生きる意味を失って。すべてを無にして、そうすればらくになれる……
突然、空を引き裂いて咆哮が上がった。決して風の吹かない草原に突風が吹き荒れた。俺の目に傷ついた黄金のオオカミの姿が入った。体の所々の傷から血が出ている。それでもオオカミは誇り高く頭を上げて、たったひとりで、もう一度咆哮を上げた。
失われた感情が戻ってくる。俺は拳を握りしめた。もう二度と失くさない。
「今のうちや走れ!」
俺たちがまた走り始めたと同時に金(きん)狼(ろう)の森のほうから次々に、守井さんに答えて吠え声が上がった。黒狼たちは風に苦痛を感じて、地面に伏せている。
「玉はどこや」
やっと棲家にたどり着いてキクモが息も絶え絶えに言った。それは洞穴だった。金狼族の洞穴と違って、ずいぶんと暗い。
「明かりは?」
「えっ、そんなん持ってないで!」
「その本、燃やせるんちゃう?」
田沖は無言で三良(さぶろう)手記をいっそう強く抱きしめた。疲れ切って何も言えないらしい。
「大崎、ロープだせ」
「おぅ」
俺はポケットから例のロープもどきを取り出した。
「何するん?」
「暗いからばらばらになったら困るやろ。全員をロープでつなぐ」
「さすが明原!」
こんなときだっていうのにキクモはなんだか楽しそうだ。俺はこっそり草原のほうを窺った。キクモが俺の後ろからひょっこり顔を出す。
「!」
草原には金と黒が入り乱れていた。
* * *
風が吹き荒れたあと、黒狼たちが苦しんでいるのを見て私は何かおかしいと思った。風だけじゃあんなに苦しまないはず。それでも休戦は嬉しかった。大崎たちが暗い洞穴に入っていったのを見届けて、私は戦いに備えた。黒狼たちを洞穴に向かわせてはならない。あんな狭い場所で、まして人ならひとたまりもないだろう。
突然、苦しんでいた黒狼たちが起き上がっていっせいに唸り始めた。私たちが来た方向を睨んでいる。私はつられてその視線の先を見た。
日の光を背にして金色の集団がこちらに駆けてきていた。一匹一匹の毛並みが輝いている。疲れきったような草原の草たちがそよ風にふかれて、生き返り始める。
私は柄にもなく感動し、いそいで走って、金狼族の中に入った。草原で長年の敵同士である金狼族と黒狼族が対峙した。
「金狼族が我らの草原にはいってくるとは、どういうことなのか」
リーダーらしき黒狼が赤い目でこちらを睨みつけながら言った。
「人の子の心を返してもらいたいのだ」
黒狼がざわめいた。
「いつから金狼族はそんなことに口を出すようになったのだ。我らの獲物は我らのもの。戦いは砂浜で出会ったときだけで、領土の森まではお互い口を出さないようにしていたであろう」
私は金狼族の長の顔を見上げた。長はただ黙っている。
「それにだ、あの子がそう望んだのだ」
黒狼は私を見た。黒(くろ)和(わ)がそれを望んだって…どういうことなんだろう。
「あの子は感じることに疲れ切っていた。何不自由ない生活の中でも。知らず知らずのうちに我らの生き方に憧れていたのだ。だから玉は返さぬ。それは人の子の願いでもある」
私は心の中に絶望感が広がるのを感じた。黒和自身が戻ってきたくないと思っているのなら、もう何もできることはないんじゃないだろうか。私はうなだれた。
私の横で長が静かに口を開いた。
「我らは黒狼族の生き方を否定せぬ。人の子の心を取り戻すのが正しいことなのかもわからぬ。しかしその子を助けにきた者たちが在ることは、その子が生きる意味である。そして我らは戦いのときを間違えることはない」
私ははっと頭をあげた。偉大な長は立ち上がって天にむかって戦いに吠えた。黒狼族も地をゆるがすような咆哮をあげた。牙と牙との戦いが始まった。
私は力を振り絞って、黒狼の上をひと飛びした。絶対に大崎たちを追わせてはならない。黒狼は長の言葉に逆上し、さっきよりも不利な戦いになっている。牙で傷をつけられるのが恐い。自分も牙を持っているのに、時々人間の自分が出てくるのだ。
私は覚悟を決めて、唸り声を上げた。
* * *
「金狼族やん!」
「助けに来てくれたんやな…!」
「でもなんかすごいことになっとうなぁ。大丈夫かな」
「おい、お前ら、」
全員をロープでつなぎ終えた明原が言った。
「よし行くぞ」
明原が先頭になって明かりもなしに、どんどん奥へと進んでいく。俺はしんがりで、臆さない明原を尊敬しながら暗闇に目を凝らした。
誰かが蹴った石ころのカランカランという音が響く。
「なんか下ってない?」
「そやな」
だんだんと地面に角度がついてきている。それにしてもどこまで奥があるのだろう。
「あっそういえば!この洞窟にガスがあるか確かめんでいいん?」
「なんで?」
「だってあったら俺ら爆発してまうんちゃうん」
「…それ、たいまつとか火つけとったときやろ」
「このボケっぷりは、さすが大崎」
失敗したぁー!なんで俺いらんこと言ったんだろう。けっこう真剣だったのに。俺はもういらないことは言わないと誓い、玉を探すことに専念した。
闇に眼がようやく慣れてきたころに、俺たちはちょっとした空間にたどり着いた。田沖が壁に指を走らせた。
「おっ、ここ、窪みがあるで」
俺は眉を寄せた。
「棚か?ん?あれ玉ちゃう?」
「ほんまや!でもめっちゃあるで」
キクモが声を上げた。その空間の壁の窪みにはかなりの数の玉が並んでいた。どれも磨いたように美しい。
「黒和のんってどれやろ」
「うーん…」
キクモが玉の一つに手をのばした。
「うわぁっ!」
「どうしたっ!キクモ大丈夫?」
「あ、あぁ。一応。とりあえずこれはあいつのんじゃない」
「なんでわかったん」
田沖が興味深げに聞いた。
「なんでって…わかるやん、俺ら黒和を探してんねんもん」
ようするにフィーリングか。そんなことが本当にわかるのだろうか。俺と明原と田沖はそろそろと手をのばした。
ひんやりとした玉の感触。中に渦巻いたものが見えるようだった。瞬間、俺じゃない誰かの記憶がフラッシュバックした。
「うわぁっ!」
三人の声が重なった。俺はいそいで玉を棚に戻した。
「なんか見えたな」
「うん」
「でもこれも黒和じゃない」
「たしかに根拠はないけど…わかるな」
田沖は棚を見渡した。
「でもこのやり方じゃあ、見つけるのにめっちゃ時間かかるな。できるだけ早く見つけなあかんし。もし、黒狼がここに来たら…」
背筋に冷たいものが走る。そのときは終わりだ。
「玉といってもつまりは黒和みたいなもんやんな。名前呼んだらどうやろ」
他の三人があきれ顔をしたが、俺は無視して呼んだ。
「黒和―!」
一瞬、一瞬だけだが棚の一部で玉が光った。
「今、光ったな!」
「ほら見ろー。今度はお前らも一緒に。いくで、せーの」
「黒和―!」
「お―!これちゃん!」
キクモが玉を手に取った。こんなんでいいのかと俺は一瞬思ったが…、うん、これはきっと黒和にちがいない!
「ほんまにそれであっとる?」
キクモは真顔になった。
「……うん」
「どうした?」
「なんか黒和の記憶が…」
「なんなん」
「わからん。言い表されへん」
明原が足踏みをした。
「まぁ、ええやん。とりあえず、ここから出よう」
帰りはいきしより短いような気がした。若干のぼっていてしんどいはずなのに不思議だ。俺たちは黙々と早歩きをした。この先どう乗り切るのか、あの黒狼と金狼の争いのことを、俺たちは深く考えないことにしていた。これから先の方が死ぬ可能性が高い。しかし俺たちは行かねばならぬ。そんなことを考えていたら小石につまづいてこけそうになり、俺はもう何も考えないことに決めた。
「出口や!」
明原がぼんやりと明るいところを指さして言った。
「やった―」
「棒読みやな」
田沖が疲れ果てて、冗談も言えなくなっていた。こんなんで走れるのか。もしかして…またもや俺が担がないとだめな悲劇?!
「ほっ―!!」
「眩しいっ」
急に明るいところで、目がつらい。明原はそれを予想していたらしく、一番早く視力を回復した。くそ―、こいつなんでこんなにカッコイイんだ。俺は少し劣等感を感じつつ、目を恐る恐る開いた。
眼下の戦は休戦に入っているようだった。俺は金の群れの中から、守井さんを見つけようとした。が、どこにいるかわからない。心がかき乱される。
「これ、どうやっていく?」
明原は一瞬考えこんだ。そして俺をまっすぐ見て言った。
「走るしかない」
もっと他に方法あるやろ―っ!!!と俺は内心盛大に突っ込んだが、自分も思いつかないので悲しくなった。
「大崎…」
声にふりかえると、見るからに走れなさそうな田沖が立っていた。しかもかろうじて立っているようで、ふらふらしている。
「え」
「ありがとうな―大崎!」
「いや、お前ほんますごいわ」
突然キクモと明原に肩を叩かれ、俺はよろめいた。
「え、ちょっ、待てっ!」
俺は二人を見た。二人はニヤニヤしている。田沖は申し訳なさそうだ。こいつら…俺たちの生死に、てか俺の生死に関わる重要な問題なのに、冗談言って楽しんでやがる!しかもけっこう本気!
俺はもう一度田沖を見た。足元はぼろぼろ、立っているだけで震えている上に、疲れすぎて顔も可哀そうな表情をしている。仕方なく、俺は大きく息を吐いて田沖を睨みつけた。
「お前、三良手記なんか担いでくるからやで」
* * *
2度目の休戦はありがたかった。金狼と黒狼の力は互角で、双方は傷つくだけだった。みんなペロペロと傷を舐めている。黒狼とのあいだは約7,8メートルしかあいていないがさっきみたいなピリピリした緊張感はない。もともとそんなに戦うようなことはなかったのだ。
突然黒狼たちが自分たちの棲家のほうに頭を向けた。私もはっとして耳をたてた。声がする…。これはまずい。
数人の人影が黒狼の棲家から出てきた。なにやってる!声がでかすぎる!!いまや草原にいるすべてのオオカミが大崎たちの存在に、そしてあいつらが黒狼の棲家に不法侵入していたという事実に気が付いていた。全員が注目する中、大崎たちは一言二言しゃべっているようであったが……。どうする気なんだろう?と思ったとたん、大崎たちがまっすぐこちらに向かって駆けだした。
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
しかも奇声をあげながら、すごいスピードで…えぇぇぇぇぇぇ―っ?!黒狼がいるというのに、なんのひねりもなくど真ん中を走っている。大崎だけは田沖を背負っていてほかの二人からだいぶ遅れている。私は黒狼たちを見た。今にも大崎たちを襲うのではと心配だ。黒狼は相当怒っているはず…と思ったら黒狼たちは間抜けなくらい絶句していた。
「ふはぁ―っ!」
金狼の群れを割って、一等の明原がドサッと草むらに倒れ込んだ。キクモもあとに続く。そしてだいぶ遅れて大崎と田沖が無事、黒狼の群れを通過してたどり着いた。大崎は息切らし赤い顔をして田沖を背中から降ろした。
「あぁ、まじしんどい。もう無理」
「大崎ほんまにありがとう」
田沖は大の字で寝転がっている大崎の横にすまなさそうに正座した。私は嬉しくて、みんなのもとに走った。
「お~、守井さんやん」
「無事やってんな、良かった」
「金狼族来てくれたんやなあ、助かった。俺ら、危なかった気がするし」
「守井ありがとう」
私は大崎を見た。大崎はなんだかつかれた顔をしている。まぁ、田沖を背負って全力疾走したのだから仕方ない。
黒狼が最初の驚きから回復すると憤りがどんどん伝わって来た。してやられた、という顔をしている。黒狼の敵意を感じるからか、不安の気持ちが強まってきた。が、黒狼族の長の紅い瞳と目があったとき、私は黒和についてのことを思い出した。
「守井さん、俺ら玉取り戻してきたで!」
キクモが笑顔で突然ポケットから玉を取り出した。磨かれた美しい玉だ。その瞬間金狼はみな怯えたように下がり、黒狼は牙をむいた。
私は戸惑って大崎の顔を見上げた。黒和が戻りたいと思っているかどうかもわからないのだと、どうやって伝えたらいいのか分からない。しかし大崎と目があった瞬間、分かった。みんなはもうすでにそんなことわかっているのだと。
そんな様子を見ていた金狼族の長はゆっくり陣の後ろまで下がってゆき、少しした後何かを背中にのせて戻って来た。
「黒和…」
「連れて来てくれてたんですね」
大崎が黒和を両腕で抱えて地面におろした。
「そろそろ起きて冗談でも言うときやぞ、黒和」
「これはお前のもんやろ。ちゃんと持っとかなな」
キクモがそう言いながら黒和の口の中に玉を押し込んだ。キクモの目は涙でいっぱいになっている。
「無駄なことを」
黒狼たちは叫んだが、私たちの耳には入らなかった。私たちは息をひそめて待っていた。黒和が戻ってくるのを。
変化はゆっくりしていた。私たちが見守る中黒和はゆっくりと目を開いた。私は嬉しかった。だけどそれに負けないくらいの不安な気持ちもあった。本当に正しいことだったのだろうか。
「黒和、わかるか?」
「……明原」
か細い声で黒和は答えた。とりあえずほっと息をつく。
「…頭が痛い」
黒和が呻いた。
「大丈夫か?」
「分からない…何もわからない」
キクモは黒和の横に座った。何かを知っているような、それでいて知らないような表情をしている。ただキクモは優しくうなずいて黒和の肩に手を回した。
「明原!あれ!」
田沖が声を上げた。見ると黒狼が立ち上がっていた。黒和だけを見つめている。真紅の瞳は黒和に何かを言っていた。
「どうしたらいいのか、分からない…。自分が何をしたくて、何を求めているのかも」
私は尾を下げた。やっぱりどうしようもないことだったのかな――。
* * *
守井さんが諦めたように尾を下げた。俺は黒和をしかと見つめた。そして一歩前に出た。
「俺たちと一緒に探しに行こう」
ベタすぎる~!!!とは思ったが仕方ない。言ってしまってはもう終わりだ。それにこれ以外の言い方が思いつかねぇ。
「俺たちにはお前が必要なんだ。いてほしいんだ。一緒に帰ろう」
黒和の目からみるみる涙が溢れだした。俺の視界も急にぼやけてきた。もちろん涙でだ。
「……みんな」
金狼族が唸り声を上げた。見ると黒狼が近づいてきている。突然黒和がふらふらと立ち上がった。
「黒和っ!」
心配そうなキクモの声をふって黒和は黒狼と向かい合って立った。ひとりと一匹は目をあわせた。しばらくののち――俺たちには永遠かに思えたが、黒狼は群れに合図をし、率いて俺たちに背中を向けて去って行った。黒和はその後姿を見つめている。
そよそよと風が吹き始めた。蘇った草が花をつけ始めた。もう一度何かが始まろうとしていた。
「彼らはここを去るのですか?」
田沖が金狼族の長の息子である若オオカミに聞いた。若は人語が話せるからだ。
「そうだ。しかし彼らのことは心配せずともよい。彼らがここから存在しなくなることなどないのだ」
黒和が振り返った。複雑な表情をしている。黒狼はいて欲しくないという気持ちと黒狼のように生きたいという気持ちの中で揺れているようである。それを見透かしたように若は口を開いた。
「人の子よ。君の心に我らはいる。金狼族と黒狼族は憎き敵同士であり、相反するものであり、また一つのものでもあるのだ。光と影が一つのものであるように。一つのものであるがゆえに闘うのだ」
よくわからないが…俺は何かを感じた。黒和も真剣に聞いている。若は黒和をしっかりと見つめた。
「退屈な日常で自分を見出すのは難しい。生きている意味さえ分からなくなる。自分が何者なのか、どうして生きているのか、ここにいるのか。もしかしたら自分は何者でもないのかもしれない。ここにいる意味もないのかもしれない。自分の中は空っぽで無意味で空虚な存在に思えるかもしれない。だが決してそうではないのだ。我らが黒狼と闘うかぎり、ここには命の風が吹く」
金狼のその美しい青い目に吸い込まれていく。水のように清らかで、深く――。
「我らは助けとなったりはせぬ。我らには喜びも悲しみも与える力はない。励ますこともできぬ。ただ寄り添おう。幸せになれ。黒狼の強大なる力を恐れるな。たとえ我が金狼族が最後の一匹となっても我らは立ち上がり、必ず勝つ。恐れるな友よ。わかるか、我らが君自身であるということが……」
青い瞳の中から戻ってきたと思ったとき、俺たちは最初の砂浜にいた。若も金狼族も姿が見えなかった。波の音が大きく聞こえる。黒和が波打ち際に近づいてかがみこみ、打ち寄せる波を指でパチンとはじいた。
「…あれ?」
ふりかえるとオオカミ姿から戻った守井さんがいた。自分で驚いた顔をしている。
「守井!もとに戻ってんな―!」
俺は守井さんの周りを一周まわった。しっぽがない!あのふさふさのしっぽ…ないとかなり違和感を感じる。
「守井さん、本当にありがとう」
明原が真剣な顔で言った。
「守井さんがいなかったら、この作戦は成功しなかった」
「まぁ、その他にも色々と、な」
キクモが俺の方を向いてにやっとした。
「な…なんやねん!」
不覚にも顔が赤くなる。何故だ?!どこに赤くなる要素がある??
顔を上げて見たら、守井さんも顔が…赤い?いや、これはただの俺の希望的観測というやつなのか…?
俺たちは顔を見合わせた。突然笑いが弾けた。ふたりで笑う。そのうちキクモも田沖も明原も笑い始めた。黒和も笑い始めた。ひときわ大きな声で笑っている。黒和が一緒に笑っていることが幸せで、俺たち全員が無事なのが幸せで、なにかよく説明できないけれど、幸せというものは説明ができないことなのかもしれない。
俺たちが笑っている間にまわりの景色に変化が起こってきた。ゆっくりと大きな森が消えてゆき、見慣れた建物が現れ始めた。雲が動きはじめ、海風が吹いた。太陽はゆっくりと空を移っていくし、カモメの声が聞こえてきた。
「帰ってきたんだ」
「大崎、ありきたりのセリフはくなや」
「他になんかあったやろ」
「今の、俺ちゃうし!」
「ほんま、大崎は――。なぁ、守井さん」
「そ、そうやな…」
「お前ら…」
黒和までにやっとしているのを見て俺は、もう、ほんとうにかなしくなった。涙が出そうだ。
「黒和まで!許さんからな!待てぇ―!」
俺たちのふるさとの砂浜で鬼ごっこが始まった。
白いひひるが一匹ひらひらと舞い、その後見ることはなく、あの世界にいくことももうなかった。俺たちはもう知っていたから――。