りんごあたま

 

 午前7時48分。今日も俺は無事電車にのった。ズボンについたゴミなんかをとる。気だるい朝である。背負っていたカバンをおろし、俺は扉の横にもたれかかった。周りを見渡すと、いつもの通勤・通学の顔ぶれだ。学生は単語帳などを開いている。俺にも小テストはある。だが電車の中では勉強しない主義なのだ。

 

「ママ、アップルマン」

 

2歳ぐらいの男の子が、その母親に抱っこされて窓の外を指さした。つと見ると、母親と目があった。母親が軽く会釈をする。俺も笑顔を返した。同じ駅からのる、顔見知りである。

 

 がたんガタン―。

 

 「次は、明代。明代です」

 

 降りるのはこの次の駅である。次かーと思ったその時、扉が開いて明代から、ある男がのってきた。黒い長いコートをかぶりサングラスをかけたその男は、のってきた瞬間から殺気を放っていた。電車内が急に静まりかえった。扉がゆっくりと閉まり、電車が動き出すと男はにやりと笑った。車内に鋭い銃声が鳴り響いた。

 

 

 

 数分後、明代駅から電車は駅をとばして走り続けている。男は複数の仲間とともにこの電車をのっとったらしい。さっきからトランシーバーで連絡をとっているようだ。俺の携帯はすでにとりあげられていて、外と連絡はとれない。しかし多分、警察も気づいているだろう。ニュースになってさえいるかもしれない。男は以前として、情緒不安定な様子を見せている。さっきからナイフの刃の光り具合を確かめているのだ。このままだといつ何時、誰かが殺されてもおかしくない。

 

 

 

 俺が家を出てからはや1時間ちかく。この男とその仲間は一体何がしたいのだろう。乗客たちは端に固まって、おびえている。小さい声であの母親が男の子をあやしている。大人ならこの緊張感に耐えられるだろうが小さい子供には厳しいのだろう、アップルマン、アップルマンとぐずっている。母親も大丈夫、アップルマンが助けてくれるからねなんて言っているが…俺は内心焦った。いや、アップルマンってそんなに強くないんだよ~と心の中で叫ぶ。

 

「ママーアップルー」

 

 男の子がついに大声を出した。男が苛々しはじめたのがわかった。

 

「おい、そいつを黙らせろ」

 

乗客は目をそらし、母親は必死になって子供をなだめようとした。

 

「殺されたいのか!」

 

男がナイフを振り回しつつ、一歩前にでた。ふるえる両手で我が子を抱きしめている母親と、俺は目があった。

 

 どっくん。どっくん。心臓の音が大きくなった。できれば、目をつぶっておとなしくしていたい。そうすれば俺は死なないかもしれない。ここにいて見て見ぬふりをしている大勢の乗客と同じように。でも後悔しないだろうか。この子には俺よりたくさんの未来が、無限の未来がある。この子を見捨てたことをずっと忘れられないだろう。どくどくどく――。

 

 殺されるかも。心臓の動きを感じながら俺は思った。今生きていること。それはあの男に殺されたとき、あっけなく終わる。その終わり方を俺は知らない。こわい。

 

 しんとした車内にただ心臓の波打つ音だけが聞こえる。なんて俺は馬鹿なんだ。そう思いつつ一歩前にでる。どくどくどく――。あと戻りはもうできない。家族の、友達の、仲間の顔が浮かんでは、消えた。

 

「ちょ、ちょっと待った!」

 

声が震える。

 

「あ、あなたはもしかして!?」

 

乗客の一人が声を上げた。俺はうなずいた。

 

「アッポーアッポーフルーティアップルー♪へーんしんっ!」

 

「果樹園の平和を守る!果汁戦隊、フルーツレンジャーアップルマン参上!!!」

 

微妙すぎる空気が車内に流れた。なぜなら俺はリンゴ頭にマントを着た、文字通りアップルマンに変身したのだ。本当は俺だってもっと格好いいほうが良かった。でもそうなんだから仕方ない。

 

「ぼく、よく頑張った。もう大丈夫だよ」

 

正直大丈夫とは程遠い。アップルマンのスーツは、ナイフにも銃弾にも全く意味をなさないのだ。いわばリンゴ頭がついているだけで、あとは普通の人となんら変わりはないのである。その上、技という技もない。何がアップルマンなのだろう。

 

 男はあまりのことに口をパクパクさせていて、そのせいだろうか、たいてい敵が吐く「なんだお前は」という台詞さえ言わずによろよろとナイフを構えた。普通の人と同じアップルマンはどうやって戦うというのか。死にもの狂いで必死にやるだけだ。

 

 男がナイフを振り回した。目前に繰り出される刃のきらめきに圧倒される。男はだんだん迫ってきている。膝がガクガクふるえた。男が大きくナイフを振った。

 

「危ない!」

 

あの母親の声と同時に俺は夢中でしゃがんだ。

 

「あっ!葉っぱが!葉っぱ!」

 

男の子が泣き出しそうに叫び、俺ははじめて頭の葉っぱが切られたらしいことに気が付いた。いや、全く問題ではないのだけれど。とくに葉っぱはアップルマンにとって重要なものではないのだ。コスチュームだし。

 

 大きく空振りをした男がぐらついた。俺は唯一の武器、リンゴ頭で頭突きをした。柔らかいリンゴに、ナイフが刺さる音がした。

 

「アップルマン!」

 

覚悟していたことだった。死ぬかな―そう思ったとたん、死ぬならばせめてこの子を守りたいと思った。ナイフが刺さったまま力任せに男を押す。

 

「くそやろ―!」

 

目標はドアのガラス部分。渾身の力を振り絞って俺は男を投げ飛ばした。

 

 鈍くガラスが割れる音と同時に俺は崩れた。

 

「アップルマン!」

 

乗客たちが駆け寄ってあおむけに寝かしてくれた。俺は両手をゆっくりと明りにさらした。涙が溢れてきた。さっきよりも鼓動を感じる。死ぬということ。俺はこのままこうやって―この先に何があるのだろうか。

 

 どっくん。どっくん。尽きることのない未来とその希望が、それを求めることすら、すべてが永遠の空虚へと落下していった。

 

 

 

 「次は新明町~新明町。夏池神社前です」

 

俺はカバンを背負った。俺は今日もこんなことを妄想しながら学校へ行く。扉が開き、俺は平和な一日に感謝して電車を降りた。

 

 定期券を取り出す。しかし―。ふと考える。俺は本当にあんな勇気を出せるだろうか。俺は去りゆく電車をふりかえった。何故かリンゴ頭が見えた気がした。

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