寸刻み
そこは業火に包まれた場所だった。それは空さえも例外ではなかった。まるで地を這うそれが雲にまで引火したように、大地も天空も紅蓮と黒煙で溢れかえっている。黒と赤以外には一つも色を持たない、凄惨極まりない光景であった。
それもそのはず。何せ、ここは罪深い人間が死後に叩き込まれる場所。
所謂、地獄と呼ばれる場所なのだから。
その一角。轟々と燃える火炎の音に負けず劣らず、人間の声が響き渡る所があった。それは悲鳴。異形の獄卒に苛まれる罪人達の絶叫だった。
獄卒は彼らの背中に鞭を打ち、その度に悲鳴と助けを乞うすすり泣きが上がる。しかし、獄卒達は容赦しない。ただ黙々と己の職務を全うする。
「よーし、交代の時間だ」
獄卒の一人――鞭を持たずに罪人達の間を歩き回っていた者――が叫んだ。その声を合図に獄卒達は鞭を持ってその場を離れる。休憩の時間だ。勿論、獄卒の、である。交代で入って来た別の獄卒が前の担当と入れ替わる。当然、罪人に休憩は無い。
「ふぅ」
場所は変わってこれまた地獄の一角。一人の獄卒が休憩していた。手元のマグカップにはドロドロした赤褐色の液体。中身は伏せておく。過酷な獄卒労働だ。この心休まるひと時が唯一の生き甲斐である。彼が生きているかどうかは置いておいて。
「さて、行くか」
彼は側に立て掛けてあったマイ鞭を手に、次の仕事場へと向かう。今日から新しい罪人を担当することになっているのだ。
「番号二十二番!!」
「完了です!!」
「二十三番!!」
「万端です!!」
「よし。かかれ!!」
『イエッサー!!!』
そして響き渡る悲鳴。火の爆ぜる音に、鞭が空を切る音が追加される。獄卒達はめいめいに鞭を振り、己の腕前を存分に発揮する。いつも通りの仕事場。代わり映えしない風景。
である筈だった。
「…………ん?」
違和感に気付いたのは刑を始めてより数刻が過ぎた頃。最早自動化の域にまで達した鞭打ちを続けていた彼は、不意にその手を止めた。
「おい!! そこ、何をしている!!」
すぐ異変に気付いた主任がこちらへと向かってくる。身の丈十二尺。筋骨隆々の巨躯の上では、虚ろな目をした馬の首が口から怒りの泡を吹いている。獄卒である彼も、普段なら震え上がっていたことだろう。
だが、今日は違った。その異常への注意が、主任への恐怖感を上回ったのだ。
彼が担当していた罪人。他の凡百と全く違わないその男は、苦悶の声も悲鳴も漏らしていなかったのだ。
「聞いているのか? 貴様……」
主任もそこで足を止めた。彼の洞穴の如き眼は驚愕に見開かれていた。何を隠そうこの罪人は、鞭打ちの最中にも拘らず至福の表情を浮かべていたのだ。
「…………」
「き、貴様」
主任は彼の方へ振り向いて言う。
「何をしている? しっかり打たんか!」
「打っています。いつも通りなんですなのに!」
「ええい、貸せ!!」
主任は彼の手から鞭をひったくると、その豪腕で罪人の背中へと振り下ろした。目にも留まらぬ早業である。更にそこから十文字、そして斜めへと、縦横無尽に振るわれる鞭先は見る見るうちにそこへ傷を増やしていった。
「ああ」
その時、漸く罪人が声を上げた。
「とても、良い…………」
これまた幸福そうに。
「………………」
「………………」
「あれ?」
罪人は絶句する二体の異形に振り返り何でもないように、
「続けてくれないんですか?」
「そうか…………」
主任の肩は震えていた。それを見る獄卒達の肩も震えていた。彼の身を揺らすのは、屈辱への怒りか、獄卒としてのプライドか。ともかく、それが正の感情でないことは明らかだった。
「そんなに痛いのが望みなら」
主任は鞭を獄卒に返すとその罪人の首根っこを掴み、そのまま何処かへと引きずって行った。
そして数年の後、地獄の一角にはうなだれる主任と、満足そうな様子の罪人の姿があった。
あれから、地獄に存在するありとあらゆる拷問が試された。剣山、釜茹で、毒壺、猛火…………などなど。しかし、どれもこの男に対しては少しも効果を持たないようだった。
「何故、お前はどの地獄でも少しも苦痛を感じないのだ」
「苦痛が私にとっての喜びだからです」
「………………」
むしろ、その苛烈さを増すごとに彼は苦しむどころか、ますます歓喜するばかりであった。
「もうよいわ」
とうとう閻魔大王さえも諦め、この人類史上類を見ない稀代の変態は現世に送還されることになった。
「なるべくすぐ戻ってきますからねーー!!」
朗らかにそう宣言し、三途の川を渡っていく罪人を苦々しく見送った獄卒達は、早速新しい地獄の開発に取り掛かった。
〈歓喜〉