寸刻み
時刻は夜八時過ぎ。仕事から帰宅した私の家の前に黒色の物体が蹲っていた。私の家はマンションの六階にある。エレベーターを降りてすぐ左へ曲がり、五歩ほど歩いてもう一度左へ。その通路の突き当たりが私の部屋だ。心身ともに疲弊し、やっとの思いで辿り着く愛しの我が家。だが、そんな私の視界にドアの前で蹲るそれが入って来た。
全てを察した私は華麗な左向け左を決め、間髪入れずに携帯を取り出し友人へ連絡した。
「もしもし? いきなりで悪いんだけどさ、今日君の家に泊めてくれないか? ああ、ちょっと帰れない訳が出来て」
「ちょっと待て!!」
背後から私の腰辺りへ抱き付いて来た人物があった。そいつはエレベーターへ向かおうとする私を引き止め、
「友人が自宅前で土下座待機してるのに無視はないだろ。あんたには思い遣りの気持ちってものがないのか?」
「ごめん、また後で掛け直す」
止むを得ず電話を切り、携帯をポケットに突っ込む。振り返ると、くたびれたスーツを着た一人の男が私の腰に縋りついていた。何時頃からあの体勢で居たのだろうか。近隣住民への風評が心配すぎる。
「取り敢えず離してくれないか」
男はパッと顔を輝かせ、手を離して三歩ほど後ずる。同時に、私はUターンして階段へダッシュした。
「さらば」
「待って!」
今度は足の辺りに抱き付いて来た。タックルの如き勢いである。私と男はそのまま縺れ合って地面に倒れた。
「頼む、話聞くだけでいいから!」
「離せっ、聞く話なんか無い!」
「友達だろ? お願いだ、いや、お願いです」
引き離そうとする私と離れない男。平日の夜の静寂に騒がしい音が響き渡る。
「そんな殺生な、聞いてくれるだけでいいんだって!」
「それだけで終わればな」
その時、不意に私達が争っている場所に最も近い部屋のドアが開いた。中から住人らしい男性が顔を出し、
「……」
「……」
「……」
私達二人と目があった瞬間に大慌てで内側へ引っ込む。勢いよく閉められたドアの向こうから、奥へと駆け込んで行く音がした。
「取り敢えず話だけは聞いてやる」
「ありがとうございます」
場所は変わって私の部屋。私は渋々男を家に招待することにしたのだ。彼は諦めそうになかったし、何よりこんな時間に大声で言い争うのは私自身の沽券にも関わる。もう手遅れだと思うが。
この男は私の知り合いだ。本人は先ほど、厚かましくも友人だと主張していたがそんなことは決してない。その関係は、彼が今から述べるであろう用件で私を訪ねて来た回数が三回を超えたあたりで、私が一方的に破棄した。
「単刀直入に言え」
「ああ」
彼は再び全力の土下座をかまし、
「金を貸してくれないか?」
「断る」
「……」
僅かな沈黙。その後、彼はゆっくりと仰向けになった。
「そうか。君は、僕に死ねというのか」
「理解が早くて助かる。出口はあっちだ」
「ベランダじゃねぇか!!」
「死ぬんだろ」
その瞬間、彼の顔はシワまみれになった。目尻から大きな涙が、鼻からは鼻水が溢れる。汚らしいことこの上ない。
「後生です、一生のお願いなんです。ここ四日間、何も食べてないんです。餓死しちゃう!」
すればいいと思う。
「そもそも、まだ給料日から一ヶ月経ってないだろ。どうやったらこんな短時間で全財産を失えるんだ」
「スられたんだ」
「どこで?」
「パチンコ屋」
「スったんだよ、それは」
呆れを通り越して最早感心する。清々しいほどの屑っぷりだが、当の屑は未だ金を無心してくる。
「なんで貸してくれないんだ。こんなに必死で頼んでるのに」
「逆ギレとか最低だよ、お前は。今まで何回貸した? 何回返した? 考えれば分かるだろう。そんなお前に、何を担保にまた金を貸せるんだ?」
「人としての最低限の面子とか?」
「それを失くした君に何が出来ると言うのだ」
「……」
とうとう彼は口を閉じた。勝利である。可及的速やかに御退出願おう。出口はどちらでも構わない。
「では、さような」
朗らかな別れの挨拶に被せるように、玄関の方で扉をノックする音が聞こえた。外へ出ると、そこに警官が二人立っていた。
「あのー、ついさっき、このマンションのこの階で男性二人が争っていると、通報があったのですが」
「えーと」
「死んでやる!!」
答えに詰まる私の耳に、背後より友人の怒声が届いた。見れば、彼は既にベランダの柵に足を掛け、今にも身を乗り出そうとしている。
「君、待ちなさい!!」
慌てて引き止めにかかる警官達。二人がかりで彼を羽交い締めにする。
「もう生きてたって希望は無いんだ。死ぬしかない」
それでも暴れ続ける彼を取り押さえると、警官の片方が私に対し、
「一体何が?」
私が答えるよりも早く、またしても背後から――つまり今度は玄関の方から――声が聞こえた。
「お巡りさん、その人達です! 僕の家の前で争ってた二人」
それは、友人と争ってたあのとき目が合った住人だった。
「取り敢えず、署まで来てくれるかな?」
「はい」
私は項垂れながらそう呟くしかなかった。
お題
「それを失くした君に何が出来ると言うのだ」
仏谷山飛鳥