この地下鉄はフィクションです4
ヒヨコ
CAST
鈴野涼也…県立N高校二年生男子。
三菅久美…学校帰りの「僕」こと涼也とよく地下鉄で乗り合わせる、私立お嬢様女子高校の生徒。地下鉄の学園都市駅で降りる。涼也は内心で密かに「ミス・学園都市」と呼んでいる。
僕はスマホから電話をかけようとして、ためらった。実を言うと、さっきから同じ行動を繰り返している。
──どうしよう……やっぱりこんなこと頼むの悪いかな。三管さんにだって予定くらいあるだろうし……。
僕の中のミス・学園都市こと三管久美さんを思い浮かべ、迷い続ける。
というか、そもそも電話をかける必要性はない。メールだろうがLINEだろうが、どっちでもいい用件ではあるのだ。
──でも……。
思えばしばらく会っていない。声も聞いていない。この際だ、たまには電話をしてもいいだろうか。
──そういえば、前に会ったのはいつだっけ?
今は四月の始め、春休みの終わり。ということは、あれは二週間前のことだ。意外だったが、そんなに長い間会っていないわけでもない。
僕の頭の中で、二週間と少し前まで時間がさかのぼる。事の起こりは、最後に会った二週間前の放課後……の、さらに四日前だ。
学校帰り、いつも通りにホームへ向かって歩いていると、ふいに子供の高い声が耳についた。大人かせいぜい高校生ばかりの駅だからなおさら目立つ。
「サホちゃんサホちゃん、これあげるー」
無意識にそっちへ視線を向けると、改札の前に何組かの親子がいた。子供は全員幼稚園児だ。母親が幼稚園か保育園へお迎えに行って、その帰りの立ち話だろう。母親たちはお互いの話に夢中だが、子供も子供でいろいろとしゃべっているようだ。
さっきの声は、どうやらそのうちの一人の男の子のものだったらしい。糸くず一つ、汚れ一つもついていない、どこかの私立幼稚園の制服を着ていた。
一方彼から何かを受け取った女の子は、字がわからないが「サホちゃん」だろう。興味を引かれてちらっと見ると、彼女が受け取ったのは小さな花だった。道ばたに咲いているような雑草だ。男の子が摘んできたらしい。サホちゃんが小首を傾げた。
「いいの?」
「うん。キレイだと思ったから、ちょっとだけだけど」
照れ隠しなのか、彼が口をとがらせて答えると、サホちゃんはうつむいてお礼を言った。
「ありがと」
彼女は男の子とは対照的におとなしそうだった。お礼の声もごくごく小さい。それでも彼は嬉しそうにお礼に答えた。
「どういたしまして」
──照れてるんだな。
ほほえましい、と思ったのは人生の先輩としての余裕だ。それにしても、花とは。僕の主観だけれど、女の子にあげるには緊張する物の一つだと思う。
そのとき、他の子供たちがクスクス笑いながら口をはさんだ。
「うわー、リュウトの女たらしー」
「サホのこと好きなんだろ」
男の子はリュウトくんというらしい。彼はそう言われても平気で知らんぷりだった。
僕が横を通り過ぎたとき、一人の母親が時計をちらっと見た。
「そろそろ帰りましょうか」
「そうですねー」
子供たちもその様子を察したのか、それぞれの母親のそばへ集まる。ところが、リュウトくんはさっきのサホちゃん親子から離れないままだった。サホちゃんの母親も気弱そうで、娘によく似ている。
そのとき、帰ろうと切り出した例の母親が、彼を呼んだ。
「リュウト。ほら、こっち来なさい」
「んー、はいはーい」
リュウトくんは、さっきまでと打って変わってぞんざいな口調で返事をした。しかしサホちゃんに向き直ったときにはまた笑顔になって、手をふる。
「またね。サホちゃん、サホちゃんのお母さん」
そのとき、僕に彼の幼稚園のカバンの名札がちらっと見えた。漢字は「琉斗」くんだった。琉斗くんは母親の横に仕方なさそうに並んだ。母親が彼に向かって言う。
「はいはーい、じゃなくて、返事は一回」
「……」
「ちょっと、琉斗。聞いてるの。失礼でしょ」
「それはお母さんだっていつも……」
「お母さんがいつ失礼だって言うのよ」
琉斗くんは母親と言いあいながらホームへ向かう。他の親子連れも、ばらばらと解散して帰り始めた。
気づけば僕の足が止まっていた。
違和感があった。琉斗くんが、サホちゃん親子に見せる笑顔と、母親に対するぞんざいな反応の落差が意外だったからだ。幼稚園児の男の子なのに、制服をきれいに保てているのだから、琉斗くんはいわゆる優等生タイプに見えたのに。
まあ、どうでもいいことといえばどうでもいいことなのだけれど。
ホームでアナウンスが鳴ったのが聞こえ、僕は慌てて歩き出した。
──三管さん、いるかな?
会ったら、今見たことを話してみよう。そう思いながら僕は琉斗くん親子の後を追うように地下鉄へ乗った。
数分後の地下鉄内で。
僕は三管さんを見つけ、駅での話を報告した。
「……ということがさっきあったんですよ」
長い話でもなかったので、見聞きしたことを一通り説明して、相手の反応をうかがう。
「なるほど。よくわかりました」
探偵さん、つまり三菅さんはうなずいて、ちらっとある方向へ目をやった。
「その親子連れがあの二人ですか?」
確かにそっちには琉斗くん親子がいる。僕はその二人に聞こえないように声を潜めていたのだった。
「やっぱり気づいてたんですか」
「鈴野さんの視線が、さっきから頻繁にあっちを向いていました」
──僕、そんなにわかりやすいのかな。
三菅さんは考え考え話し出した。
「違和感がないとは言えませんが……その話では情報不足ですね。ただし」
「え、何かわかります?」
「『女たらし』という言葉は普通の幼稚園児は日常的に使いません。前にその言葉を知って以来からかいに使っていること、つまり琉斗くんは以前にもサホちゃんに花をあげていることが想像できます」
「ああ、そうか」
「それから、地下鉄に乗ったのは琉斗くん親子だけなんですね?」
「はい」
「なのに他のママ友たちも地下鉄の駅に集まっているというところから、琉斗くんの母親がリーダー格であることがわかりますね。話から察するに、琉斗くんも子供の間ではリーダー的存在なのでしょう」
彼女は相変わらず冴えている。僕は小さく手を上げた。
「さっき言ってた違和感については、想像できるんですか?」
「今の話だけでは難しいですが、できなくはありません。外れている可能性もありますが……」
と、そのとき、ある駅で琉斗くん親子は降りていった。それを見届けてから息をつき、彼女は続けた。
「琉斗くんはサホちゃん親子が、もっと言えばサホちゃんが好きだから、彼女をバカにする母親に反抗しているのではないでしょうか。『お母さんだって』サホちゃん親子に対して、失礼だという意味の言葉もあったようですし」
「えー、でも幼稚園児ですよ。好きとかそんなの思います?」
三菅さんは急に姿勢をのばして指を一本立てた。
「何を言ってるんですか。鈴野さんだって、十数年前のことを思い出してみたらきっとわかります」
「覚えてません」
「なら、想像して下さい。十代には十代の、五歳児には五歳児のドラマがあると思います」
納得したような、できないような。僕はあいまいにうなずいておいた。
その表情を不満ととったのか、三菅さんがくすっと笑った。
「不満があるなら、もう少し情報を集めてきて下さいよ」
僕が次に琉斗くんたちを目撃したのは、それから三日後だった。今度は駅の外だ。
天気がよく、風もない日で、季節を先取りしたような暖かさだった。そのせいか、母親たちは駅前にある公園で立ち話をしていた。子供たちは荷物を放り出して遊んだり何かを話して笑っている。
通りすがりに、子供たちの会話の断片が聞こえてきた。
「サホのママは地味で暗いって琉斗のママが言ってたぜ」
「だからサホも暗いんだー」
「琉斗のトモダチだからグループにいるだけだもんな。なあ琉斗?」
幼稚園児もなかなか怖い発言をする。と思ってちらっとそっちをうかがうと、泣きそうな顔をしているサホちゃんがいた。そしてその隣の琉斗くんは、同意を求めてきた相手にいきなり飛びかかって、取っ組み合いのケンカを始めた。
──ええっ?
当然相手も応戦し、母親たちが慌てて止めに入った。そこまで見届けてから、僕はまた足が止まっていたことに気づく。気を取り直して駅へ向けて歩き出した。でも、今さっきの光景が頭の中から離れない。
手を出したのは琉斗くんだった。この前の、平然とからかいを無視する様子とは矛盾する感じだ。
そのとき気づいた。
──サホちゃんのことをバカにされたから怒ったのか。
だとすれば三菅さんが言っていたままということだ。
再び、数分後の地下鉄内で。
「……ということがありましたよ」
そう報告すると、三菅さんはあきれたようなおもしろがるような、複雑な表情をしてみせた。
「まさか本当に情報を集めてくるとは思っていませんでした」
「いや、たまたま見かけただけです」
「そうですか。でも、これで鈴野さんも納得したでしょう? からかいが自分ではなくてサホちゃんに向かうと、琉斗くんは怒るんですから」
僕はうなずいた。
「はい。なんか『男の子』って感じでした」
思っていたことを口に出してみる。
「僕としては、琉斗くんはサホちゃん親子のことをバカにする母親が嫌なんじゃないかと。サホちゃんに対するプラスの感情じゃなく、母親に対してのマイナス感情だと思っていたんですが。三菅さんはどうして違うと思ったんですか?」
「直感です」
──えっ?
「と言いたいところですが違いますよ。私、勘はよくないので。根拠は花です」
脱力した僕は聞き返した。
「花?」
「古今東西、誕生日などの記念日以外に異性に花をあげるという行為は、それなりに相手を大切に思う感情がなければしませんから。母親に対する反発以前の問題です。周りの友達の前でサホちゃん親子と自分の親に対する反応を変えるのも、あまりにわざとらしいですし。もしかしたら計算かもしれません。サホちゃんが居づらくならないために」
──なるほど。幼稚園児には幼稚園児のドラマってことか。
琉斗くんを応援したいような気もした。
次に琉斗くんを見かけたのは、翌日。駅の出入り口だった。いつもの子供たちと一緒にいて、母親たちは前を歩いている。
「かえせって」
かなり怒っているのがわかる琉斗くんの声がした。それでも大声をあげていないのは駅の中だからだろうか。見ると、一人の背の高い男の子が手をいっぱいに上に上げていて、その手に握られたものを取ろうと琉斗くんがジャンプしている。
目を凝らすと、琉斗くんが取り返そうとしているものが何かわかった。花だ。サホちゃんのために摘んできたものだろう。
周りはけらけら笑っていた。サホちゃんはまた泣きそうだ。
琉斗くんは背が高いほうではなく、どう頑張っても届かない。それでもまだ諦めずにぴょんぴょん跳ねている。
「かえせ!」
──しょうがないな。
僕はさりげなくそこに近づいて、男の子が上げている手からひょいと花を抜き取った。
「えっと……駅でうるさくしちゃダメだよ」
そう声をかけると、幼稚園児たち全員が僕を見上げた。僕はふいに照れくさくなって、琉斗くんに向かって花を差し出した。
「はい、これ」
「あ、」
彼はどうやら、ありがとうの「あ」を言いかけたらしい。が、そこでちらっとサホちゃんを見た。サホちゃんはじっと僕を見上げている。口も少し開いていた。
琉斗くんは唇を噛んで、首を横に振った。
「いい」
「え、どうして?」
僕が聞くと、彼はサホちゃんをちらちら見ながら答えた。
「ボクが取り返したんじゃないから、あげられないもん」
そのとき、前のほうにいた母親たちが振り向いて子供を呼んだ。
「琉斗、何やってるのー?」
「もう行くわよ、サホ」
全員がわらわらとそっちへ行く中、一人だけ残った琉斗くんは、花を持った僕を見ていた。
「お兄ちゃんにその花あげる。『カノジョ』にでもあげたら?」
言い捨てて、彼はたっと母親のほうへ向かった。
「はあっ?」
大声を出したときには、琉斗くんは母親と合流していた。僕は一人で間抜けに花を握って突っ立っていた。
三度目に、数分後の地下鉄内で。
「……というわけで、花をもらいました」
まだ握っている花を示すと、三菅さんは吹き出した。
「す、すみません。見たかったです。高校生が一人で花を持って大声を出していたと思うと……」
「はいはい、どうぞお好きに笑って下さい」
僕は肩をすくめて目をそらす。『カノジョ』にあげたら? と言われたことは言いそこねた。
花をぼんやり見ていると、いつの間にか立ち直った三菅さんが話し始めた。
「琉斗くんの気持ちは、わからないでもありませんよ。例えば花を取り返したのが私だったら、もしかすると受け取ったかもしれませんね」
──意味がわからない。
続きを待っていると、三菅さんは続けた。
「きっと、好きな女の子の前ではいいところを見せたいんです。颯爽とやってきた『お兄ちゃん』にいいところを持って行かれたら、悔しいし対抗したくなるのは当然でしょう。大声を出して母親に伝えることはしなかったのも同じ理由では? リーダー格の母親に出しゃばられて解決しても、自分の力ではありませんし」
「ああ……そう言われると僕にもわかる気がします。『男の子』のプライドですね」
「そういうものかもしれませんね」
そううなずいてから、三菅さんはしみじみとつぶやいた。
「琉斗くんみたいに、あっさりと女の子に花をあげられる男の子は少数派でしょうね」
「そうなんですか?」
僕は手元の花を見た。小さな花がふるふると揺れている。
「ええ。この前も言いましたが、花をあげるのは敷居が高いと思いますよ。卒業式や入学式などの祝い事を除けば、花をあげるのは敬愛や愛情の現れです。特に異性に対しては。ほら、プロポーズのときに似合うのは花束でしょう?」
「そうですよね……」
そのとき、車内アナウンスが流れた。
「次は、学園都市。学園都市です」
──どうしよう。
減速し始めたのに花の揺れは大きくなる。
──ああもう、本当にどうしよう?
地下鉄が完全に停まって、ドアが開いた。
「鈴野さん、じゃあまた」
「はい……」
発車ベルが鳴った。その瞬間僕は足を踏み出した。ドアが閉まるぎりぎり直前にホームに降りて、彼女に花を突き出す。
「あのこれ、もらって下さい」
「私がもらっていいんですか?」
「ぜひどうぞ」
僕がうなずくと、三菅さんは僕の手から花を抜き取った。
「ありがとうございます」
「いや、小さい花ですけど」
と、さっきの彼女の言葉が頭の中でよみがえって、バカなことを思った。
──今度、花とか買ってきたら……まず僕が恥ずかしいな。
それを察したのか、三菅さん……僕のミス・学園都市が、ふふっと笑った。
「鈴野さん、まさか学校帰りに花束を買ってきたりしませんよね? 恥ずかしいです」
「……ですよね」
やっぱり僕はわかりやすいらしい。
「まあ、ちょっと、欲しいですけど」
「え、本気ですかっ?」
僕らの後ろで地下鉄が走り去った。
これが、二週間前。三月のことだ。
僕は改めてため息をついた。
思い返すにあれは、絶好のチャンスだったのだ。あの局面でもう少し気のきいたことが言えていたなら、今こうやって電話するのをためらうような微妙な関係ではなかったかもしれない。
そのとき、電話が鳴った。
ぎょっとして画面を見ると、三管久美、の表示。
──彼女、どっかで見てるんじゃ……?
くだらないことを思いつつ、電話に出る。
「もしもし……」
『お久しぶりです、鈴野さん。今、ご迷惑じゃないですか?』
いつもと変わらない調子なのに、なぜかいずまいを正してしまう。
「あ、はい。実は僕も電話しようかと思ってたんですよ」
『そうですか。ではお先にその用件をどうぞ』
僕はどう切り出そうかと一瞬迷ってから、ストレートに答えた。
「えっと、僕の高校……N高校の文化祭に来ませんか? 五月なんですけど」
『あら? 用件、同じですね』
「え」
彼女は明るい声で続けた。
『友達と、一度N高校の文化祭に行ってみたいという話になったので、案内していただこうかと。だから、予定は空いています』
「はあ……」
『案内していただけます? お忙しいとは思うんですが』
運がいいのか悪いのか。僕は一番言いづらい話を出した。
「えっと、それが……実は、僕の友達から頼まれたことがあってですね。文化祭の生徒会企画に参加して欲しいっていう話なんです」
『はい?』
「言ってしまうと、探偵素質のある人に参加して欲しいっていう無茶苦茶な依頼で」
三管さんはしばらく黙り込んだ。何かを考えているようだ。
『……もしかして、「N高校ミステリースタンプラリー!」みたいな企画ですか? 謎解きをして答えを探すとか?』
「さすがです。早い話、サクラに近いので、申し訳ないんですけど」
『この手の企画は、ある程度得意な人がいないと盛り上がりませんからね』
僕は慌てて付け加える。
「……でもネタバレはしませんから。というか僕も何も聞いていませんし」
その言葉に彼女は少し笑った。
『わかりました、詳しいことはまた今度教えて下さい。お役に立てるかはわかりませんが、参加しますね。なので』
「はい?」
『友達の誘いは断って一人で行きます。案内して下さい、文化祭』
笑いを含んだ三管さんの声。僕はスマホを耳に当てたまま大きくうなずいた。
「はいっ、もちろん!」
(めずらしく)続く