はじかれた場所で
この世界と平行に並んでいる、似て非なる世界が存在する。何千、何万、いやもっと多く。正確な数すら誰も知らない。
ただし、その世界たちを見渡すことができる場所が、たった一つだけある。
関わりがない人には一生関わりのない場所。しかし、一度関わってしまえば忘れられない場所。
自分の世界からはじき出された人々が、もう一度チャンスを得る場所。
その場所で、ユーキは今、一人の少年と一人の少女に出会った。二人とも違う世界の住人なのに、同じことを言うのだ。
「いつも退屈。いいことなんか一つもない」
自分の居場所への不満をぶちまける二人の話を聞き終えて、ユーキは隣の女性と顔を見合わせた。彼女がうなずいたのを見て、子供たちに話し始める。
これは俺の話なんだけどな、と。
今からもう、ずっとずっと前のことだ。
ユーキは、ふいにその場所へやってきた。眠っていて、目が覚めたと思ったらそこにいたのだ。
白くて太い、まっすぐで水道管のようなパイプが無数に平行に並んでいる。そして、すべてのパイプが果てしなくのびていく。そのうちの一本の上に、ユーキは座っていたのだった。
のびていくパイプをぼうっと見ていると、突然、人が近づいてくる足音がした。近づいてきたのは、一人の女性だった。そのときのユーキより少し年上の、二十代に見えた。
「あなたは、今来た人?」
何を質問されているのかわからず、戸惑っていると、彼女は少し考えた後で、質問を変えた。
「気付いたらここにいたの?」
ユーキが小さくうなずいたのを見て、彼女は教えてくれたのだった。
「このパイプは、一本一本が世界の足跡なのよ」
平行に並ぶ無数の世界。時間がたつにつれて世界はひたすら前へ進んでいき、あとには白いこのパイプのみが残る。
「だからここは、他のあらゆる世界につながっている唯一の場所なの。すべての世界の一部ではあるけど、どこの世界のものでもない場所。どこにも属さない場所」
彼女の話は、意味がわかるようでわからなかった。
「俺は、なんでこんなところにいるんですか?」
ユーキのつぶやきに、彼女は即答した。
「あなたが、自分の世界から消えたいと願っていたから。所属したがらないものは、不要とみなされて世界からはじき出されるのよ。でも一回だけ、チャンスが与えられる。今願えば、戻ることができる。けれど、時間がたってしまったらもう戻れないの」
彼女は、どうする? と問いかけた。
「自分の世界に、帰る? 帰らない?」
「あなたは何者なんですか?」
質問で返すと、彼女は答えてくれた。
「私は、いるだけ。ここへ来てしまった人の選択を見守るだけ。これまでもこれからも、ずっとずっと。あなたがもしこの世界に残るなら、あなたも私と同じになるの」
「ずっと、何年も? 死なないんですか?」
「人間みたいに歳をとって死ぬか、ってことなら、そうやって死ぬことはないわ」
ユーキはつばを飲んだ。
(歳をとらない。死なない)
そう思った瞬間、決断した。
「なら、俺は、俺の世界には帰りません」
「へえ、そう。死にたくないから?」
そう言いながら彼女はふいっとユーキに背中を向けて歩き出した。パイプがのびていく方とは逆向きだ。ユーキはその後を追った。
「はい。俺は絶対死にたくありません」
(人はあっさり死んでしまう。今日まで生きていたのに、明日には死んでいることだってある)
ユーキの祖父母も、親も、そうだったのだから。
祖父と祖母は病気であっという間に逝ってしまった。親は数年前、あっさりと事故で。
そして、ユーキにたった一人いる姉は、ほんの数日前に倒れた。祖母から受け継いだ、遺伝的な病気を発症したそうだ。
『現在の医学では、回復する見込みも手だてもありません』
医者にそう宣告された。
(俺はあんな風に死にたくない。いつか死ぬんだと思いながら生きたくない)
「……引き返すなら、今しかないわよ」
と、彼女は振り向いてユーキを見つめた。
「ここが天国だと思ったら大違いだから。死ぬ心配がないから幸せだ、なんてあり得ないのよ」
ユーキは引き返さなかった。自分の世界へ戻ることだけは嫌だった。
そうしてユーキはこの場所で生きるようになった。彼女はマイと名乗った。
それから何年かの時間が過ぎたと思う。ユーキは歳をとらないまま、マイと一緒に、やって来た人を世界へ帰らせ続けた。ユーキと同じ選択をした人は、一人もいなかった。誰もが迷い、悩んだ末に、結局は自分の世界へ帰っていった。
しかしユーキは、自分の世界へ帰らなかったことを後悔したことは、一度もなかった。
(どいつもこいつも、決断力がないだけだ)
内心では、帰っていく人々をバカにしていた。
そんなとき、まだ十歳にも満たないある少女に出会った。
ここへ来たときのユーキと同じようにパイプに座っているのを見たとき、ふと、前にも会ったことがあるような気がした。
そんな違和感を抱えながら、マイと一緒に少女に声をかけた。
帰るか帰らないか。質問を投げると、急に少女が泣き出した。
「あたし、もう帰りたくないの」
少女が泣きながら話す内容をまとめると、こういうことらしかった。
少女の母親には、遺伝的に疾患がある。それでよく入院しているため、参観日にも来られない。来られたとしても、薬の副作用で髪が抜けていたり顔色が悪かったり。それが理由で学校でいじめられている。
「でもね、でもね。それが理由じゃないの」
母親は、周りに何か言われるたびに辛そうな顔をするそうだ。
「あたしがいなかったら、お母さんはあんな悲しそうな顔しなくて済むんだもん」
そうやって泣きじゃくっている少女を見て、ユーキは直感した。いや、一瞬にして確信した。
(この子は……)
ユーキの姉の娘だ。泣いているところなんか、そっくりだ。
(姉ちゃんは生き延びたんだ)
ユーキは思わずしゃがみこんで、少女の頭をなでていた。
「なら、お母さんは、君と一緒にいるときに嬉しそうじゃないのか? 嫌そうなのか?」
話しかけると、少女は首を横にふった。
「ううん。嬉しそう……」
「なら、帰ってやれよ」
泣いている少女の顔を正面から見つめた。袖口で涙をふいてやる。
「な? お母さんが待ってる」
まだぽろぽろと涙を落としながら、少女は何度も何度もうなずいた。
そうやって少女が世界へ戻っていった後、マイにたずねられた。
「あなたは、あの子もバカにできる?」
ユーキがにらんでも、マイは言葉を止めなかった。
「『決断力がないんだ』ってバカにできるのか、きいてるのよ。答えなさい」
返事はできなかった。
(帰ってくれて、よかった)
それが本音だったからだ。少女の涙で袖口が湿ったところは、想像以上に長い間、湿ったままだった。
ここまで話して一回話を切ると、少年の方がじれてせっついてきた。
「そ、その後、どうなったの?」
ユーキは、少年を見下ろした。
「それからまた何年も過ぎたと思うけど、姉ちゃんに似たあの女の子には、もう会うことは一回もなかったんだ」
「……そうなんだ」
そのときの姉の娘と同い年くらいのその少年は、うつむいた。並んで立っている少女も、うつむく。
足元は、いつまでも変わらない白いパイプ。遠くへ果てしなくのびていく。そして、いつまでも変わらないマイも横にいる。
ユーキはマイと一緒に、そんな二人を見つめた。
少年はユーキをおそるおそる見上げた。
「後悔してる? ここに残ったこと」
ユーキは笑ってみせた。
「俺がいなかったら、あの女の子はきっと戻れていない。あの子の母親……俺の姉ちゃんに辛い思いをさせずに済んで、よかったとは思ってるよ」
そっか、と少年はため息をついた。そして勢いよく顔を上げた。
「ユーキさんは後悔してないんでしょ。じゃ、やっぱり僕もここに残りたい」
(何を言うかと思えば……)
ユーキは吐き捨てた。
「バカかお前は」
少女の方も、いつの間にかすっかり調子を取り戻している。
「えーっ、だって……。ずっと死なないってかっこいいじゃなーい。不老不死?」
「まったく……」
そのとき、黙って話を聞いていたマイがすっと少女の前に出た。
「ずっと死なないのが幸せだと思う?」
「え?」
マイは少女に話し始めた。
今からするのは私の話なの、と。
記憶にある限り、マイはここにいた。誰から生まれたとか、そんな記憶はない。
(私は、人の形をしただけの、人ではないものなんだわ)
それは悲しみではなかった。人としての感情もなかったからだ。
そうして淡々と人々を送り返し続けた。
だがあるとき、マイの前にある男性が現れた。彼は幼い頃からしょっちゅうこの場所へやってきていた。
悩みやすい性格なのか、甘ったれなのか。いや、自己肯定感がひどく薄かったのだ。彼は悩みをぶつけては、誰かに認めてもらいたがっていた。
子供の頃は、
「お母さんにしかられた」
「友達がいじめてきた」
そんなものだった。
もう少し大きくなると、
「好きな子に彼氏がいるんだって」
「今の成績じゃ行きたい学校は無理かも」
そんな悩みになった。
大人になってからは、仕事の悩みや結婚についての悩み。
あまりにたびたびやってくるため、マイは、彼を簡単に送り返す方法を発見した。
「そう、大変なのね」
「大丈夫よ。あなたを見てる人はいるわ」
「困ったらいつでも来なさい。話だけなら聞いてあげるから」
とにかく肯定する。そのかいあって、彼はいつも満足してさっさと帰っていくようになった。
ほんの子供だった彼がみるみる成長しても、マイはいつでも同じ姿だ。いつまでも、ただ彼を肯定し続けるだけの存在だった。
やがて彼は結婚した。嬉しそうに報告してきたのだ。
(人はいつか死んでしまうのに。彼の奥さんだって彼を残して死ぬかもしれないのに、どうしてそれほど大切に思えるのだろう)
マイはふと、それを口に出した。
「あなたの奥さんは、あなたを残して死ぬかもしれないわよね。逆に、あなたが彼女を残して死ぬ可能性だってあるわ」
彼は不愉快そうにマイをにらんだ。
「そりゃそうだけど、それが何だよ」
「あんまり大切に思っていたら、別れるときに辛くないの?」
マイの素朴な疑問は、彼をさらに不愉快にさせただけだった。
「……君にはわからないよ」
「どうして?」
「君が人間じゃないから。歳もとらない、死ぬこともない。そんな君が人間のことなんか、わかるもんか」
彼はそう言い残し、ぷいと帰っていった。
(そうよ。私は人じゃない。そんなの当たり前のことじゃないの)
マイはそう思ったが、同時に、自分が手を強く握りしめていたのにも気付いた。
彼はそれから、彼の世界の時間で何十年もたつ間、マイの元へは来なかった。
マイが次に彼に会ったのは、彼がすっかり老人になった頃だった。
「死ぬ前に、君に会って謝りたかったんだ」
彼は、相変わらず見た目の変わっていないマイに向かって頭を下げた。
「あのときはごめん。君を傷つけてしまったと思う。それから、いつでもおれの話に付き合ってくれて、ありがとう。君はきっと、おれのことを一番知っている……」
そこで彼は一瞬言いよどみ、言い切った。
「人間だよ」
マイが返事をできずにいる間に、彼はマイに背中を向けた。
もう帰らないと、と言う彼に、マイは小さくつぶやいた。
「ここに残ればいいのに。そうしたら、ずっと生きていられるのよ」
彼は振り向かないで、返事を返した。
「でも、妻にも子供にも二度と会えないじゃないか」
「……そうね」
マイは精一杯落ち着いた声を作った。
「さようなら」
片手をひょいと上げて元の世界へ帰っていった後ろ姿が、マイの見た彼の最後の姿だった。
「きっと、彼が亡くなってから何百年もたっているんでしょうね。でも、私の記憶には残ってるの」
小さな二人の聴衆は、今度はマイをじっと見つめていた。少女が訪ねた。
「……今でもですか?」
マイは少女を見つめて答えなかった。
しばらくの沈黙が流れた。
少年も少女もうつむいているところへ、マイは静かに声をかけた。
「帰りなさい」
ユウキも付け加えた。
「ああ、帰った方がいい」
二人は、ごく小さくうなずいた。
二人をそれぞれ別の、元の世界へ帰らせた後、ユーキはマイに目線を向けた。
「えらくよくしゃべってましたね」
マイが肩をすくめた。
「それはあなたもでしょ。でも、そうね。なんとなくかしら。あの女の子、雰囲気が彼にちょっと似てる気がして」
「あれ、偶然ですね。俺もそう思いました」
「え?」
ユーキはため息をついた。
「男の子の方は、俺の姉ちゃんや姉ちゃんの娘に雰囲気が似てたなって」
少女は母親に揺り起こされた。
「起きなさい、学校に行く時間でしょ」
「うん……」
(マイ。マイ)
夢の中にいた彼女の名前は、なぜか聞いたことがあるような気がした。
思い切ってたずねてみると、母があっさりと答えた。
「ああ、ウチに昔から伝わってるおまじないよ。もしも世界に見捨てられても『マイ』だけは自分を認めてくれる。だから大丈夫……って。お母さんも、子供の頃にお父さんから教えてもらったのよ」
少女は知らず知らずのうちにほほえんでいた。
「『愛』じゃなくて『マイ』なんだって。誰かの名前なのかもしれないね」
母はそう言って、窓を大きく開けた。
少年は自分の部屋で、はっと目を覚ました。
(ユーキ。ユーキか)
夢の中にいた彼の名前は、なぜか聞いたことがあるような気がした。
両親にそれとなく聞いてみると、父親が手を打った。
「ああ、そういえば何だか聞いたことがあるな。確か、父さんのおばあちゃんが言ってたんだよ。辛くても苦しくても、世界から見放されてたとしても『ユーキ』は見放さないんだ。だから大丈夫だよ……って。おばあちゃんも、さらにその親から教えられたらしい」
少年の口元がほころぶのに気付かず、父親は首をひねった。