枝垂桜
伽藍洞
私がまだ、そいつと疎遠になってしまう前、私とそいつはよく、並んで帰り道を歩いた。とにかくいろんな話をして笑いあったのだが、どんな話をしていたのか、それはほとんど忘れてしまった。もう一度話をすると思い出すのかもしれないが、それはもう叶わないだろうから、思い出すことはできない。
別に、私がそいつとの時間を大切に思っていなかったわけではない。ただ私とそいつの距離はあまりにも近すぎて、その日常の会話がなくなることなんて夢にも思わなかっただけ。本当に大切にしていたものは、なくしてから気づくとはよく言ったものだ。なくした後に残るのは後悔と懐古の念だけだった。
それでも、そいつがほんとうに聞いてほしいと思って語った話は、私も覚えている。そいつがそんな話をするのは、決まってしだれ桜が一年で一番輝く夜だった。
その年、しだれ桜が一番輝いていたのは、三月の二十七日の夜だった。丹色のはげた橋の欄干をはらはらとなでた桜の花びらが川面を覆って、天の河のようだったのは、今でも鮮明に目に焼き付いている。そいつはその欄干に背をもたせて、ちょうどしだれ桜の真下に立った。そいつがそうやって立ち止まって私に話すことは、そいつがほんとうに聞いてほしいと思っていることだ、というのは長い付き合いの中でよく知っている。だから、私はそいつの横に立って腹にその欄干を押しつけながら、そいつが話を始めるのをじっ、と待った。
ごうごうと吹きすさぶ冷たい風の音だけが響く時間が随分と長く過ぎて、私はついにその沈黙の重さに耐えられなくなった。桜の花びらが敷きつめられた川面から目を離して、ちらとそいつの様子をうかがうと、そいつはぼんやりとしだれ桜を眺めているようだった。
「古事記って読んだことある?」
そいつの話は唐突に始まった。いつも通り、なんの脈絡もない言葉から。
「あるよ」
「――そう」
しだれ桜からこぼれ落ちた花びらが川下の方へ吹かれていった。私はそれをぼんやりと眺めた。
「それがどうかした?」
「天之御中主神は?」
「知らない」
ごう、と音をたてて、冷たい風が後ろから吹き抜けた。何が言いたいのかわからない、ただぽつぽつとしたそいつの問いかけは、花嵐にかき消されてしまった。
また重い沈黙が落ちた。私はやっぱり耐えきれなくなって、やっぱりしだれ桜を眺めているそいつをじっ、見た。
ふいに、そいつは私の目の奥を見透かすようにのぞいた。そいつは少しためらうように唇を震わせて、口を開いた。
「どうして生きてるの?」
さっきからしきりに騒いでいた風がふっ、と消えた。せわしなく舞っていた花びらも動きを止めた。きーん、空気が張りつめて、めまいを感じた気がする。
そいつは私を責めようと言っているわけではなかった。なぜ生きているの、という言葉には、生きている意味がないのに、という意味がたいてい含まれているものだが、そいつのそれは違っていた。ただ純粋に私の答えを求めているだけだった。
「――死ぬ意味がないから」
私の口からこぼれた答えは、あまりにも消極的で、使い古されていて、そして、私の答えではなかった。
止まっていた時はまた、動き出す。風はごうごうととぐろを巻き、花びらは踊りだした。そいつは私から目を離して、ざあっ、と音をたてるしだれ桜をまぶしそうに仰ぎ見た。
「天之御中主神っていうのはね、カミサマなんだ。古事記のはじまりに出てきて、子どもも創らずに独身で身を隠して、それ以来ずっと姿をあらわさないカミサマ」
そいつははじめの問いかけの種明かしをしているようだった。
「特に何をしたとは一切書かれていないカミサマなのに、その存在は絶対に必要だった。天之御中主神は原初神だから。世界は原初神が生まれたときに創生されるものだから。これはね、日本神話だけじゃない、どこの神話にもいる、性別のないカミサマなんだよ」
「それがどうかした?」
そいつは懇切丁寧に説明しているようだったが、私はそいつが何を言いたいのか、まったくわからなかった。そいつがしきりに口にするアメノミナカヌシノカミというカミサマが、そいつの話したいことにどう結びついているのか、まったくわからない。
そいつは私の方を見たようだった。でも、私はそいつの方を見返す気がしなくて、やっぱり川面に浮かぶ桜の花びらをじっと見つめた。
「ねえ、どうして生きてるの?」
どくん、と心臓の震える音がした。筋肉がこわばって、まばたきをしようとするのをこばんでいた。
「――自己満足だよ」
しだれ桜の枝の先が、風に弾かれて高く跳んだ。砂嵐が視界の端を侵食して、ぐらっ、と身体が倒れそうになるのを、ぐっ、と欄干を押してこらえる。喉の奥の奥に何かがつかえて、息を吸うのがひどく苦しい。
「自己満足が欲しくて生きてるんだ」
浅く息を吸って、震える息を吐く。ごく、と唾を飲み込むと、はりついた喉はそれを受け付けないで吐き出した。
「生きてる意味なんて、考えるだけ無駄だ。私は神じゃない。全てを知っているのは神だけなんだろう? お前が昔言っていたことじゃないか。私は、私自身は、自己満足が欲しくて、少しでもそれが得られるなら、必死にそれにしがみついて生きているんだ」
自分の声が遠くに聞こえていた。視界を侵食する砂嵐はいよいよひどくなって、世界が反転しそうだった。
誰かに認められている、という思い込みが自己満足だと教えられた。虚しいものだけど、誰だって欲しいものだと教えられた。
なんて見苦しいんだろう。なんて愚かなんだろう。声にして改めてそう思う。それなのに生きることをやめられないのは、自己満足を得ることの快楽を覚えてしまったからだ。
「――そう」
そいつはそう呟いた。もう私の方を見ていないようだった。
「じゃあさ、自己満足が得られなくなったら死ぬの?」
「――どうだろうね。でも多分、そうだと思うよ。死んじゃったら誰かしらは可哀想だと思ってくれる。それはね、つまり認められるってことだろう? だから、それを求めて死ぬかもしれない。自己満足を得る手段がそれしか残されていないんだったら」
あんなに騒いでいた風はしいん、としてもういないようだった。そいつは相変わらずしだれ桜を眺めていた。
「私はね、性別がないんだ」
「そう」
風もないのに、花びらはくるくると落ちていった。
「だから、君の気持ちはわからない」
「そう」
花びらが川面に落ちる、りん、という音さえ聞こえる気がした。
「私はね、君のように安らぎを求めて死ぬことはできない。死んだら何も残らないことは私が一番わかっていることだから」
「全てを知っているのはつらいこと?」
「そうかもね」
あれほど花びらを散らしたのに、しだれ桜は爛漫に咲き誇っていた。そいつは名残惜しそうに枝の先を引っかいて、歩いていくようだった。私はそいつの背を追いかけて、肩を並べた。
「綺麗な月だ」
そいつにわかって欲しいと思ったわけではなかった。ただぽろり、とこぼれてしまった呟きだった。
あれからもう随分と時が過ぎた。あの夜輝いていたしだれ桜は今日限りで切り倒されるらしい。私は、さようなら、とそいつに言った。
安らぎはすぐそこにある。
〈お題〉
無性別