鏡と現実
下村はさっきから窓辺に立って、外の風景を眺めていた。彼はこういうことを好んでよくやった。とりわけ自然の景色が好きで、見ていると心が清浄になるように感じていた。
この世は煩雑なほど多くのものが混在している。それらの混沌とした事物が濁流のように氾濫して押し寄せたので、彼の繊細で鋭敏すぎる神経をいちいち傷つけた。次から次へとやって来る情報や刺激は、金槌で思いっきり頭の中にある鐘を鳴らされたように彼の体を蝕んでいった。彼は少しの拍子で死に転がりそうだった。しかし下村は生きていた。彼の生をこの世に残したのは一途にこの行為のおかげのように思えた―「見る」―。それは対象物からは刺激を一切発せず、こちらから働きかけ、またその後も、内面を表出せず済む一方的な行為、つまり一人劇だった。だから「見る」対象は奇抜で刺激的なものではなく、できるだけ安らかな自然の景物が良かった。一人劇の間、彼は雑多な刺激を頭の中で整理し、観念を自分の思うままに紡ぎだし、明瞭な世界の創造を望んだ。しかし鶴が翁、媼に見られないようにして、織り出す観念は人に受け入れられないことが良くあったが、これが彼のアイデンティティの自覚を深めた―「孤高」―。
薄い麦色が目の前を流れ去っている。枯れて乾燥した草木が互いに倒れあっている。荒れ果てている。生の気配がない。また麦色の草木が目の前を流れた。少し行くと、麦色の前面に鉄柵が張巡らされている。柵の縦の棒が一本一本流れ去り、気分が悪くなりそうだった。ふと目を閉じる。暗闇。前方に仄かな明るみ。ゴオー。吹きすさぶ木枯らしの音。目を開ける。交番。丘には住宅街がある。窮屈そうに立ち並んでいる。人の生活の気配が感じられてほっとした。交差点に並ぶ渋滞の車。そうかと思えば電車を追い越す車もある。踏切の音が近づいて遠ざかった。向うから電車を追って走る人の影。ランドセルを背負った小学生。木の棒を杖にしている。白い息。笑い声。キィーキィ。電車の止まる音。向う側の扉が開いた。出ていく人、入ってくる人の足音。静寂。新聞をめくる乾いた音。その中で下村は駅と道路の境にある目の前の眼下の看板を見ている。行くことはないだろうが、地図があってその場所まで目でなぞってみる。日曜木曜午後休診。コンコンコン。慌ただしいヒールの音が遠くから聞こえてきた。踏む地面の質が変わると音も変わってきた。入ってきて車両を横切り隣の車両へ行った。扉が閉まった。住宅街に来た。家家家家。ログハウス。洗濯物、犬小屋、野球バット、ガレージ、鼠色のコンクリート。麦色がまた流れていく。開けたところに墓。眼前に麦色。日が暮れてきてさっきから下村が外を見ていた窓が電車の内部を映し出していた。麦色を背景に女のシルエットが映った。人を透かして見ると、向うに見える草木も枯れているとはいえ、人よりやはり生を感じた。女も端正な感じがしたが、四角い窓のフレームや窓の外に垂れ下がっている電線を見ると、まだ柔らかい感じがした。
枯れた林を通り過ぎ開かれたところに段々畑が見えた。冬だから何にも栽培していなかった。丘の上に幼稚園が眺められた。人気のないところで誰が通うのか分からなかった。離れたところにいかにもぼろぼろの民家があった。また眼前に麦色が通り過ぎてゆく。その前面にはぼんやりと映し出された娘が見えた。立ったまま寝てしまったのかマフラーに顔をうずめていた。そして今まで気づかなかったが、風景を見つめている自分の姿が見えた。下村は自分の風景と女を見る姿が見られることに、一瞬心を踊らせたが、すぐにそれは適わないことを知った。なるほど風景は自分の目の前を通り過ぎている。だから自分の窓に映った眼と後ろに流れる景物を重ね合わせると「景色を見る自分」を見られそうに思ったが、実際眼を自分に集中させると「自分を見ている自分」しか見られなかった。それが僅かな時間であっても、女や自然を見る視線とは明らかに違っていた。
麦色の雑木林を過ぎてから、開けたところに地面一面のソーラーパネルがあった。線路が何本も敷かれ、何両か電車の止まった車庫があった。電車と林の間にガードレールが走っていた。それは坂の起伏とともに窓の上下に動いた。車窓の真ん前に来たとき、縦の棒のめまぐるしい連続に気分を悪くし、目を閉じた。ゴオー。木枯らしが吹きぬける。娘の匂いが漂う。目を開ける。ドアの指爪注意の張り紙。ガードレールは窓の上の方に行き、真ん前にはコンクリート塀。コンクリートの隙間から生えてきた草。萎れて逞しさは微塵も感じられなかった。座っている老人の薄くなった頭が視界に入った。もう疲れ果てて、生きているようには見えない。コンクリート塀に微妙に電車が近寄った。外からの光が減り、それにつれて車内がはっきり映し出される。そうかと思うと電車はまた離れていき、ガードレールが見えだし、車内の向こうのコンクリート塀が姿を濃くした。電車はこの単純な動きを繰り返した。下村の体も左右に揺れていた。揺れるにつれて下村は足をばたつかせながらも、地震計の針のように目線だけは娘から離さなかった。体の振動が妙に娘に親近感を持たせた。変な気持ちだった。どうでもいいや―こういう気持ちは誰にも知られたくなかった。いけない快感のような気がした。下村は昔女に揺さぶられたことがあった。どんな時だったかは覚えていなかった。ただぼんやりしていた。遠い記憶でぼんやりしたのか、その時にうつらうつらしていたからかどちらかだろう。女に肩を揺さぶられて、非常に気分の良かったことを覚えている。でも何か後ろめたい快感だった。
娘の手は紺色に包まれた体の中で一点の肌色で寒さのせいか、きりっと引き締まっていてほんのり赤かった。下村はコンクリート塀の前に映る娘を呼吸していた。
電車はいよいよ人里離れたところにやってきた。霜で枯れた草木も白く覆われていた。視界が開けて、段々畑が見えた。広大な土地に木造の小屋がぽつり、白菜のようなものが畑のほんの二列分ほど並んでいた。ダムのような川があったが、水がなかった。山と山の間に空が顔を出した。ほんのりと紅がかった空に雲が細くたなびいていた。
流れ去る風景に下村は固執しなかった。でも、綺麗なものが去ると悲しくなった。自然はいつも同じようで同じではない。春夏秋冬朝昼晩はもちろんのこと、風景を見るこちらの心持も風景を毎回毎回違ったように見せていた。だから儚い一瞬の輝きは出会いの時から悲しみを帯びていた。下村は流れ去っていく景色を見ながら娘を見て、女も同じではないかと思った。今までに何人の女が通り過ぎたのだろう。下村は街で美しい女を見かけると、風景同様悲しく思った。あの人はどこへ行ってしまうのだろうと不安に駆られ、ついていくことも度々あった。でも固執はしなかった。
娘の背後に霜をかぶった雑木林が過ぎてゆく。娘は寝ていたけども、何かに気付いたのか恥ずかしそうに身を縮めた様な気がした。下村は快い身震いがして、急に眠たくなった。
電車がトンネルに差し掛かった時、ゴオ―という音で下村は目を開けたが、娘のはっきりと見える姿がなんだか嫌になって、また眼を閉じた。
下村が起きたとき、娘は反対側の窓から外を見つめていた。下村は暗くなった外の風景とともに窓に反射する反対側の窓の風景を見ていた。無論、車内も視界に入っていた。
暗闇。偶に背の高い伝統がぽつんぽつんと過ぎて行く。外の電灯と社内の蛍光灯が重なった。目を近づけると森林を確認する。窓が額に触れて冷たい。反対側の窓。娘は何を見ているのだろう。ファミレス、スーパーの看板。駐車場の車。ファーストフード店、本屋、CDショップ、店店店。ぽっぽっぽっと電灯がそれに重なっていく。視界が開けて、娘の身体を透き通して街の明かりが見えた。高台から少し低くなっている街の光が遠くの方まで眺められた。ぎっしりと家々が敷き詰められていた。微笑ましい。そこにぱっと明るい店の光が駆け込んだ。また闇。
おばさんが鏡の中で寝ている。あの人はこちらにすわっているのか向う側に座っているのか。自分は窓に映し出された車内を見ているのか、窓に映し出された反対側の窓に反射した人を見ているのか。そんなことできないか。おばさんの向こうの光や反対側の窓から見える光が交錯してわからない。自分は今何を見ているのだろう。像が重なりに重なって何が何だか分からなくなってきた。それでも電車は走り続けている。
下村は頭が痛くなってきて、窓に背を向けて車内を見た。みんな疲れ切って寝ている。白い吊革が電車の揺れに合わせて、一斉に揺れている。人の頭もそれと同じように揺れている。なんだか怖くなった。生きているのは自分だけか。あの娘はもういなかった。いつからいなかったのだろう。まあどうでもいいことだった。
ドアが開いた。スーと冷気が入ってきた。下村ははっとした。僕は今まで何も見ていなかったのではないか。何を見ていたのだろう。急にそんな思いに胸を詰まらせた。遠くの方で鳴る木枯らしの轟音が彼の身体をこわばらせた。
「あっ」奇妙に赤い芍薬の花が季節を間違えて落ちていた。一輪だけで、茎も葉もなかった。彼は自分の身がちょっとした一押しで滅ぶほど弱っていることを知った。気づくと家まであと一駅だった
夜の取材
「ただ今、今帰ったよ」
「お帰りなさい、外寒いでしょう」
「うん」
「今日は堀井さんがいらっしゃるのね」
「ああ、そうだったかな、何時からだったかな」
「もうそろそろでしょ、その前に一服なさったら」
「ああ、ありがとう」
道子は風呂から上がってきたばかりの風で少し火照って肌が赤くなっていて、艶めかしかった。匂いのある霧のようなものが出ていた。下村は風呂上りの彼女が最も美しいと思っていた。
「桜子はいないのか」
「ええ、絵を習いに行っているわ」
道子は下村の五つ年上で結婚したときから落ち着きがあり、頼りになった。下村と道子は見合い結婚だった。当時二八の道子は出戻りだった。前の家族で何があったかは知らない。聞こうともしなかった。下村も小説家で仕事についてどうこう言われるのを嫌った。そんな風で二人とも互いに干渉をし合わないで、ある意味、冷めた夫婦だった。しかし下村はそれが良かったし、道子もそれで良いようであった。それでうまくいっていた。下村は道子が出した玉露を啜った。
一服すると、堀井が来て取材を受けた。記者時代の同輩で互いに昔からよく知っていた。
「君もそろそろ新作を書くんだってね」
「うん、大体心積もりはある」
「ふーん、そうか、久しぶりだな」
「今日はなんだ」
「うん、今日は新聞の取材だ、作家の姿を探訪だ」
「そんなの作品でやってくれ」
「まあそういうな、新聞のコラムだ、読んだことないか」
「うん、ないね」
「毎日書いているんだけどね」
「新聞はあまり読まない」
「昔から新聞も本も読まなかった、よく作家になったものだ、その頃から思っていたけどどうして読まないんだい」
下村は前にも聞かれたことがあったが、返事はいつも曖昧で、毎回少し違った内容を応えていたので、堀井は納得いかないような顔をしながらも、ああ、そうかと聞き流していた。
「うん、それは違うと思うな、僕は読まなかったから作家になれたんだ。世間はその僕を新鮮に思っているんだ。読まないことが僕のオリジナリティーを保っているんだ。もし、人類の歴史を引きずって本なんか読んで、他の人物の真似事なんかしていると世間は退屈するだろう。ほら、ショーペン・ハウアーなんていう人が、読書は他人に物事を考えてもらう行為だなんて言ってたじゃないか。僕は自分自身でものを考える人でありたい。…。」
「ゴーン、ゴーン」
その時、客間の時計が鳴った。
いつもなら何にもないことだが、その時窓ガラスに映った加湿器の蒸気が彼を故郷の思い出に誘った。時計の顔がぼやけていた。
彼の家は山頂に寺のある山の麓だったので、毎日六時と一二時に撞く鐘の音がおろしのように山を下って聞こえてきた。
下村の家族は父親と母親と弟だった。下村はこの家族を理屈ではあまり好きにはなれなかったが、理屈を抜きにするとやはりほっとする時があった。母親は鷹揚な人柄だったが、それでいて、頻繁に干渉し、それがかえって人を食ったような態度にさせることがあった。自分では浅学だと謙遜しながら、人が知らないこととなるとここぞとばかり舌が回った。そうして挙句最後に言う言葉は、「常識でしょ」だった。彼女の鷹揚さが彼女を「賢く」させることを拒み、常識の範疇にとどめておくことを好んだ。そして、「常識」を知らない人に対して、自身がバカにしていないという確信は、自身の優位性を決定的なものにとし、人を見下す原因となった。しかし、これは彼女だけでなく「人のいい」人の典型だった。彼女が憐み、同情を知るクリスチャンだったことは少なからず影響していた。弟は母によく似て、知識を武器に人を食った目で見ていた。父はよくわからなかった。ただ、文化とは程遠い人だった。それはそれで良かったが、後年母の影響でよくわからない人になってしまった。もう少し自信を持ってもよかった。
下村は出来が悪かったので(初めから出来の良い人なんていないのだが)こういう環境の中で、知識に対する劣等感があった。小さい頃は見返してやろうとよく勉学に取り組んだものだが、ある時自分が人を見下すために勉学に励んでいるのではないかと思うことがあった。その頃から本などはあまり読まなくなっていた。
「それと僕は知識というものをあまり好まないね」
「そうらしいね」
客間のテレビは大河ドラマを流していた。
「そうだ、会社の同輩で若い頃よく「大河ドラマの会」みたいにしてよく集まって鑑賞したもんだ。君はほとんど来なかった。君はその時から一人だった。」
「うん、最初に行ったきりだ。男連中が尊大に知識をばらまいているのが暑苦しくて嫌だった、そもそも歴史というものを好んだことがない。小説のようにして読むのは嫌いじゃないが、ノンフィクションだと言って議論するのはかえってばかばかしい気がするね。」
「今日はいやによくしゃべるね」
下村の頭の中に落ちていた赤い芍薬の不気味さがよぎっていた。古い木造の駅舎木枯らしでがんがん鳴っている。そとでは、木枯らしで雨戸ががたがた音を立てている。外は暗い。
「うん」どもり気味になった。
「いや続けてくれ」
「うん、特にはないが少し話を広げると、学校で歴史を教えるのはどうかと思うね。それは、世間の人からばかにされないように学んでいるとしか思えないね。歴代天皇の暗記とかね。この前の新聞で「文部省高校日本史を検討」というような見出しがあったけど、遂に廃止かと思って期待したけど、義務化に向けて検討するということだった。現行の教育課程では日本史は必修ではないから、自国の歴史を知らない生徒が出てくることを危惧しているらしい。外国の人に聞かれたときに答えられないと日本人として恥ずかしいだろうと思ってやっているのかもしれないけども、今の政府はいかにも愛国心が強いね。またこういう人もいる。自分たちの先祖や民族の歴史を学ぶことによって、今の自分たちの姿を明らかにしようとする。今の人々のバックグラウンドを知るということだろう。それが現在のコミュニケーションや平和につながる。そういう姿勢はなかなか殊勝だけども、そんなことほんとに歴史からわかるのか。そういうことは民俗学に任せておいた方がいいのじゃないかな。それとか、世界の各地域のバックグラウンドを知るには、和辻哲郎の『風土』なんかはいい。風土的性格から形成される人間の考察をしていてなかなか面白い。よく覚えていないが柳田國男もこんなことを言っていた。小石を飛ばすように歴史の一点一点をなぞって、その背後にいる無限の庶民を除け者にして出来上がるのを「歴史」とするのはおかしい。それよりも無限の庶民こそ、「歴史」が語る対象になるのではないか、みたいなことをね。柳田の言う歴史を歴史哲学者が「横の歴史」と呼び、一方で一般の歴史を「縦の歴史」と呼んでいた。現在の世界を映し出すことのできる鏡はまさに「横の歴史」だと思うね。」
鏡という言葉が今日の電車の中の娘を思い出させた。あの娘を僕は直接見なかった。鏡を通してしか見ていない。ではあの娘は本当にいたのか。鏡に映る姿の本体が存在しないなんてあり得るだろうか、いやあり得ない。鏡に映った自分は確かにそこに存在していた。いやこの「確か」という言葉さえ本当なのか怪しくなってきた。僕はあの時本当に自分を見ていたのだろうか。その時カレーの匂いが漂ってきた。乾いた音が聞こえた。堀井が新聞をたたんだ音だ。
あっそうだ、匂いだ、匂いがある。確かにあの娘からは匂いがした。
「なるほど、なかなか面白い意見だね」
カレーの匂い。下村の告白は小学六年の時だった。告白した時もカレーの匂いがしていた。
「君が生活や仕事の中で心がけていることはないか」
堀井はそういって前屈みになりながら、湯呑みをとって啜った。下村はセーターの隙間から胸の上に繁茂している卑猥な黒い物体を見た。
あいつも毛深かった。下村が性的なことに興味を示し始めたのは、世間では早い方だっただろう。幼稚園の時からその兆しはあった。告白した相手は毛深く起伏があり野獣のような体だった。少なくとも小学生の自分はその誘惑に耐え切れなかった。制御できなかった自分を恥じて、そのことは思い出さないようにしていた。だから、下村は中三と大学の時と合わせて告白は三回したことがあるが、恋は二度しかしたことがないと思っていた。
下村は窓の方に立ち上がって、
「どんなときにも孤高でありたいね」
「塵俗の世を低く見て、花の声、声なき者の言の葉を解するものは幸なり。」
「ふっ。とにかくあらゆるものから関係を切りたい。人間の集積してきた観念とか思想とか科学とかそういうものがないところへ行きたい。」
下村は窓を開けて女の影を闇へ葬った。
「僕は人類の子供にはなりたくない。なったとしても突然変異の子だ。どうせなら何も関係のない宇宙へ葬られたい。」
下村はもう一度闇を見つめた。女の影が息を潜めて蠢いているように思った。手をついたとき、手すりの冷たさが下村をぞっとさせた。
昔の都で
数日前の寒さが嘘のようだった。季節は三寒四温で段々暖かくなり春に向かっていく。その日は実に麗らかな日だった。下村は奈良行の電車の中にいた。道子と桜子も一緒だった。
「今日はどこを回るの」窓の外を眺めながら桜子が言った。桜子の髪を照らす暖かい日朱雀門を過ぎると桜子の眼差しは下村の方にあった。
「どこか行きたいところある。」
「わかんない」
「うーん、そうだな…」
「あ、せっかくだから桜見に行こうよ、吉野の桜って有名じゃない」
「うんそうだね、でも吉野はちょっと遠いね」
「そうなの、残念だわ」
「まあ、そこまでいかなくてもきれいな桜は見えると思うよ」
「うん、それでもいいから絶対見たい、だって私桜の子だもん」桜子は無邪気に笑いながら言った。下村は目を動揺させながら、さっきから黙り切った道子を見た。道子の瞑った眼の間から滴が一滴落ちたような気がした。
下村は京都や奈良に来るたびに、関西に住んでいてよかったと思った。有名な神社や仏閣、旧跡が至る所にあり、博物館の展示も名品が並んでいる。他の地域に住んでいると、修学旅行で来たきりで、人生に一回しか来ない人もいるだろう。その人は後は美術や歴史の資料集を眺めることしかできない。そういうことを思うと自分は恵まれているなあと思った。
博物館には海住山寺の四天王が来ていた。高さは十五センチほどで大きくはないが、精巧な作りで顔にそれぞれの方向を表す色が付けられていた。あまり見たことのないものだった。
博物館から出ると、鹿が近寄ってきた。
「あら、かわいい」桜子が手を差し出すと、ぺろぺろと嘗められた。
「ああ、くすぐったい」
「やめときよ、鹿は食べ物しか興味ないよ」
「そうなの」桜子は少しがっかりしたように俯いたが、すぐに思い返したように、
「その方がよくない」
「えっ」
「じゅんすいじゅんすい純粋、うん、純粋よ」
歩きながら自分の言葉を噛みしめるように言った。そして恥ずかしそうに向うを向いて小声で言った。
「正直な子たちだわ、純粋な気持ちを表して」
「あっ綺麗」赤くなった顔が急に元に戻った。
「本当だ、桜だ、枝垂桜だ」
「あら、本当、ここどこかしら」道子が口を開いた。
「神社だろうね」
「鳥居に書いてあるわ、氷室神社だって、それにしてもきれいね」
二人が見とれているうちに、桜子は走って境内の階段を上りお参りをしていた。
「パンッ、パンッ」
桜子の手を打つ音は人ごみの喧騒の間を通り、響いてきた。怖いほど冴えていて生命のけなげさに悲しくなった。
「あの子綺麗ね」
「うん、本当に綺麗だ、怖いくらいだ、誰に教わったんだろう」
桜子の礼も美しかった。ピシッと改まっているわけではないが、しなやかさの中にも筋が通っていて何よりも美しかった。
祈りの内容が綺麗で礼の形が美しくなるのか、礼の形が美しくて祈りの内容が綺麗になるのか、どちらかがわからなかった。それは日常でもよく思うことであった。心が綺麗で姿勢が美しくなり容姿も整ってくるのか、容姿が整っていて姿勢が美しくなり心が綺麗になるのか、どちらかがわからなかった。
「ああ、本当に綺麗」放心したようだった。瞑った道子の眼の目頭が小刻みに動いていた。
いつもは冷静で少々のことでは動じない道子がこんなにも取り乱しているのを見たのは久しぶりであった。
前も桜の木の下だった。結婚して一年程経った春のことだった。そのとき二人は京都に出掛けていて、帰り際円山公園に寄った。二人とも自由な人柄だったから、下村がベンチに寝そべって月を眺めているとき、道子は近くにいなかった。そんなのは気にせず、下村は枝垂桜とその向こう側に顔を出している月を見ていた。
月と桜。幻を見るようだった。現に起きているのか寝ているのか、うつらうつらしてきた。
「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかやあかあかあかあかや月」
この歌がこんなに身に沁みたことはなかった。
「こん、こん、こん、こん」
何かの足音が聞こえてきた。近くで鳴りやんだ。人の気配がしたが起きる気にはならなかった。
「ねえ」道子が肩を揺すった。
片目を開けると、乱れて垂れ下がった髪の向こうに、枝垂桜と煌々とした月が見えた。
道子は平常心を保とうとして息を無理に整えているようだった。いつもは冷たいほど冷静な道子が取り乱しているのを見ると、ただならぬ予感がした。
「どうしたんだ」そうして起き上がると、道子が赤子を抱いていた。
「どうしたんだ、それは」
道子は下村に赤子を渡すと、こらえ切れずベンチに突っ伏して泣いた。下村が道子の泣いたのを見たのは初めてだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「…。うん」
「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい」
「…」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
下村は自分に謝っていないことを知った。何かもっと重いことだった。月を見た。桜を見た。何か空から降ってきそうな音がした。山が鳴った。
「しぜん、自然」嗚咽とともに漏れてきた。
「自然、そう自然、うん、自然だわ、自然が人を生んだって本当だわ、桜の木の下にすやすや眠っていたの」
下村は道子の初めて熱くなった姿を愉快に思った。
「うん、僕だってそう思うね」
下村はそれっきり詳しいことは聞かなかった。道子は隣で泣いていた。それ以上問い詰めてみても何にもならないことだった。実際花見のシーズンに桜の木の近くで捨て子が見つかるのはよくあった。
「こんこんこん」
「ああ、本当に綺麗」
「こんこんこん」
段々と桜子の足音が近づいてくる。足音がやんだかと思うと、道子は桜子に抱きつかれていた。
「私は幸せよ。桜の木から生まれて、お母さんとお父さんに育ててもらって、こんな嬉しいことないわ」
道子は出るのに任せて涙を落としていた。
枝垂桜が垂れ下がりそれに包まれるように抱き合う二人を見て、下村は宇宙の奇跡を思った。
それから下村は観光客の煩わしさを思って、どこか静かで落ち着いている場所を探した。
氷室神社の脇道を通って、細い道をあちこち歩いていると、国道に出る少し前に依水園という庭園に行き着いた。隣に吉城園というのがあって、そちらの方が大分規模が大きそうであったが、なるべく静かなところが良くて依水園に入った。
依水園は、思った以上に良いところであった。下村は奈良や京都が観光地化しているのを残念に思っていた。もう、昔の姿は残っていないなとも思っていた。しかしこういうところもまだ残っていたかと嬉しくなった。
少し小さな丘を登って向う側へ下った。それからまた坂を上ると、茅葺屋根の茶室があった。下村がそこを通りかかった時、中の女が偶然顔を見せて軽く会釈をして奥へ入って行った。
「ああ、きれい」桜子は見とれていた。
下村も綺麗だと思った。一日にこの庭に来る人の数は限られているだろう。実際今ここにいるのは下村の家族だけだった。あの人はどういう思いで一日を過ごしているのだろう。娘盛りをこんな質素なところで過ごすのか。どうすればあれだけ綺麗な会釈が出来るのだろう。どうすれば、こんなところに閉じ込められて心を清く保つことができるのだろう。あの女の美しさが下村の頭を離れなかった。
桜子は茅葺屋根を一心に見つめていた。茅葺の何を見てどんなことを思うのだろう。絵を描く桜子には何か特殊な感覚が備わっているのだろうか。現実の風景が四角いフレームに切り取られ、彼女の表現すべき抽象的概念が風景から浮遊し彼女に訴えかけてくるのか。
彼女は息をするのも忘れていた。