恋~その感情について~

 

 

Miss

 

以前のエッセーに「miss」については書きましたが、そのときは骨組みだけを簡単に書いたので、もう少し深く「miss」の感情について考えてみたいと思います。

以前書いたように、「miss」は哀愁の漂う概念なので、無常を解する日本の古文、そして恋についてのことなので、和歌を題材にとりたいと思います。ここでは、主に古今集をとりあげます。(といっても、私がとりあげることのできる歌集がそれしかないからですが)

ご存じだとは思いますが、歌の内容ごとに配列されています。春、夏、秋、冬、賀、離別とかそのようなものです。その中に恋歌という分類があり、古今集二十巻の中の五巻を占めています。恋歌に分類されないものでも、内容から見て恋を思わせる歌は多くあり、和歌の主題は、恋に関するものが多いように思います。私が和歌を題材に選んだ理由はそのようなことです。

では、さっそく和歌をとりあげようと思いますが、次に紹介する三つの歌は「恋」と「死」という二つのキーワードで共通性があります。「恋」と「死」はどのように繋がるのでしょうか。簡単に言うと、「恋しくて死ぬ」また「死にそうなほど恋しい」ということです。過激ですが、「miss」の気持ちに大いに関係がありそうです。

 

今ははや恋ひ死なましをあひ見んと

頼めしことぞ命なりける

 

「まし」は「実現不可能・ためらいの意志」の助動詞で、「今ははや恋ひ死なましを」は「今はもう死ねたらなあ(死んでしまいたい)」くらいの意味でしょう。理由は後に続きます。「あひ見ん」の主語はあの人、ズバリ恋人だと思います。「頼めし」は下二段活用なので、「頼みに思わせた」です。最後の「ける」は詠嘆の意味もこもっているでしょうが、過去の意味もここでは、働いていることを押さえたいものです。あの人の「あひ見ん」という言葉を頼みにして生きながらえてきた、という文脈で、第一句の今と対比させているからです。具体的にいうと、「そういってくれたのに、会ってくれない」という嘆きを含みつつ、「今ははや恋ひ死ましを」と言っているのでしょう。

 

恋ひ死なばたが名はたたじ

世の中の常なき物といひはなすとも

 

第一二句は直訳すると「私が恋死にすると、誰の評判も立ちますまい」となると思いますが、これでは意味が分かりません。続く句が簡単なので、ここはとりあえず、飛ばしておきます。「世の中」は「男女の仲」という意味もありますが(いかにも互いに夢中になった熱い恋を象徴する言葉です)、初めに「死ぬ」という言葉がありますから、ここでは、普通に「世の中」と解しましょう。全体は「世の中で無常なものといったとしても」という意味で、「無常な物」というのは、やはり前の「死ぬ」という言葉から、作者の命のことだと思います。ここで第一二句に戻ると「恋死に」は、思い焦がれて死ぬことですから、死因は一方的にみると「相手」がつくったことになります。作者は思う人にそっけない態度をとられたのでしょうか。こう見ると、「たが名はたたじ」は裏に「紛れもないあなたの評判が立つだろう」という意味があるように思います。この評判の内容は、「あなたが私を殺した」ということで、第一二句だけでも、これを読んだ相手の人はぞっとしたことでしょう。(相手が読んだかは知りませんが)続く句は「無常な物といったって、あなたの罪は消えません」とたたみかけて、徹底的に相手の逃げ道をなくしています。いわば、脅迫だと思われます。

 

恋しとはたが名づけけん言ならん

死ぬとぞただにいふべかりける

 

「恋し」とは誰が名づけた言葉なのだろう、ただ「死ぬ」というのが良いのになあ。意味は簡単、だけど超過激。「恋し」と「死ぬ」が同義であると言っていることから、作者にとって、「恋しい」感情がどれほど、身を傷つけるものだったかがわかります。

ここで作者と書きましたが、先ほど引用した三首は、全て清原深養父の作です。清少納言の曽祖父で、孫には清原元輔がいます。私が古今集を拾い読みしていると、「恋死に」の歌が出てきて、興味を持って、他の所を見ていると、また「恋しに」の歌を見つけました。作者は誰だろうと思って見ると、「ふかやぶ」と書いてあります。「ふかやぶ」の作をページをめくって探してみると、またあります。しかも、「恋死に」の歌です。それを見て、私は「ふかやぶよ、そんな簡単に死んじゃいかん」と手を打って、笑いました。

 

別れてはほどをへだつと思へばや

かつ見ながらにかねて恋しき(在原しげはる)

 

心をぞわりなき物と思ひぬる

見るものからや恋しかるべき(清原深養父)

さっきの三首は、離れている相手を恋しく思う歌でしたが、この二首は目の前に相手がいます。どちらも、会っているのに、悲しく思う心の矛盾を詠んだ歌です。一首目は、遠く別れると思うからなのかと、と恋しく思う理由が書かれていますが、二首目は何も書かれておらず、心は道理が立たないと、ただ言っています。二首目は、やはり、会えば別れるということが分かっているので、会ううちから恋しく思うのでしょう。

私は、これらの歌の感情に、「かなし」という言葉がぴったり当てはまるように思います。「悲し」と「愛し」はもともと「かなし」と同じように読んでいたそうです。そう思うと、この感情は現代語の「悲しみ」と「愛しさ」が混じったものに思えませんか。これを「かなし」というのかは知りませんが、一見対立しそうなものに、意外な接点があることを興味深く思います。

さて、こんなに恋しいのだったら、会わなくてもいいじゃないかと、思うかもしれません。恋ではないですが、それと同じような考えで書かれた歌

 

世の中の絶えて桜のなかりせば

春の心はのどけからまし(在原業平)

 

ことならばさかずやはあらん桜花

見る我さへにしづ心なし(紀貫之)

がありますが、本当に桜がこの世からなくなったらいいとか、咲かないでほしいわけでないでしょう。

恋も同じですね。思う人がいなくなったら、いいとか、魅力的でなかったらいいとかいうことは、本心では思いませんね。

私がここまで、哀愁のこもる「miss」について説くのは、現代社会に失われがちな感情の一つだと、考えるからです。現代は、人間の不快を解消するために、「便利」な社会へと突き進んでいるように思えます。そのため人間の不快だと感じる感情が、排除される傾向もあります。私はそれを危惧しています。

「笑えば笑うほど、悲しい。でも笑ってほしい」彼女を前にしてこう言う。この感情こそ「miss」だと思います。

 

 

Love

 

I love you」の訳を月が綺麗ですね、などといった人がいるそうです。有名な話らしいのですが、私は微かに記憶しているだけで、一言一句合っているかは知りません。それに倣って、ひと月ほど前に開かれた県の文芸交流会で、その訳を考えたそうです。私は友人から、それを聞いて、自分の意見を求められたので、その時咄嗟に「御身」だと答えました。

私は、「miss」の感情の他に、自分の内に新しい感情が芽生えてきているのに、段々気づいており、それがいい機会に友人から訪ねられて、こうして、ここに書けることを嬉しく思います。

まずは、新しく湧いた感情と「miss」の違いから説明します。

一言でいうと、「miss」の感情は一方的なわけです。前章『missについて』から言葉を借りますと、「miss」の感情は、「悲し」と「愛し」の混じった「かなし」い気持ちです。それは、自分の中だけで、完結しており、相手への働きかけがありません。「羨ましい」とは違いますが、見ているだけのような感じがします。それに比べて、新たな感情は相手への働きかけが存在します。

そして新しい感情を、私は「御身」と表現しました。ですから、それは「love」と近いと思っています。

御身という言葉に私たちは親しみがありません。日常、使う人は高校生にはまずいないでしょう。「御身ご大切に」と相手の体を気遣うときに、ひょっとするというかもしれません。

「御身」と表現したのには、特別なわけがあります。それは横光利一の短編『御身』です。

初めて読んだときの印象は、主人公が過剰な心配症であるということです。それくらいにしか覚えていなかったのですが、久しぶりに読んでみると、自分の新たな感情が、的確に記されているように思いました。

主人公(二十歳ほど)は、姉の赤子のことを始終気にして、生まれるときや、生まれた後、病気の兆候がすこしでもあれば、過剰な心配をします。それが尽く取り越し苦労に終わり、主人公が振り回されるだけの存在であるのが、この話の面白いところの一つです。

赤子を大切に思い、「御身、御身」と世話をする。十分すぎるほど、命の重さを感じ、真摯な態度をとる。そういう姿に、自分は「love」を重ねてみたわけです。

本文を少し長いが、引用します。(体調を崩した赤子の様子を手紙で知らせるように書くが、返事はまだ来ない。)

 

その夜姉から手紙が来た。それは所々塗抹された粗雑な文字で、

「幸子は種痘から丹毒になりましたが、漸く片腕一本で生命が助かりました」

とただそれだけが書いてあった。

彼は片腕を切断された幸子が、壊れた玩具のように畳の上でごろごろ転がっている容子を頭に浮かべると、対象の解らない怒りが込み上げてきた。彼はペンをとって葉書へ、

「幸子を姉さんのような不注意者に与けて置いたと云うことが、こんな罪悪を造って了ったのだ。」

と、書いた。書いている中に涙が出て来て、インクをつぐ時壺の中へうまくペンのさきが嵌まらなかった。

彼はその葉書を持って外へ出た。

「とうとうやって来た」

彼は自分を始終脅かしていた物の正体を明瞭に見たような気持がした。その形が彼の前に現れたなら必死になってとり組んでやると思った。不思議な暴力が湧いて来たがしかしどうとも仕様がなかった。その中に幸子の大きくなってから一生彼女の心を苦しめる不幸を思うと、もう彼は暗い小路の中に立ち停って了った。

「俺の妻にしてやろう」

ふと彼はそんなことを考えると、自分と姪の年の差を計ってみた。それから自分の顔と能力とを他人に比べた。

「何アに、俺に不足があるもんか、必ず幸福にしてみせるぞ。他人の誰よりも俺は愛してやる。よしッ、何アに」

彼は又歩き出した。が、壊れ人形のような姪の姿がちらちらすると又涙が出てきた。

「罪悪だ、実に馬鹿にしている、罪悪だ!」

彼は何か出張った石の頭に躓いてよろけた。

「糞ッ!」と彼は怒鳴った。

 

ここまで心配していますが、姉は手紙で、毒は体へ回らず、片腕で止まったから、命の心配はいらないということを言いたかっただけで、後に赤子の腕は二本とも無事だったことがわかります。

次も引用

 

俺のどこがそんなに嫌いなのだろう。それに何ぜ此奴がこんなに可愛いのだろう。

彼はすぐ友達へ出す葉書にこう書いた。

「愛と云う曲者にとりつかれたが最後、実にみじめだ。何ぜかというと、吾々はその報酬を常に計算している。しかしそれは計算しなくてはいられないのだ。そして、何故計算しなくてはならないかと云う理由も解らずに、然も計算せずにはいられない人間の不必要な奇妙な性質の中に、愛はがっしりと坐っている。帳場の番頭だ。そうではないか?」

ここには、愛の姿が的確に示されていると思います。(「愛」は「love」や「御身」とほぼ同義とみなす。)

そもそも、愛というものは、与えるものなのでしょうか。つまり愛するというのは、愛を与えることなのでしょうか。そうだとすると、愛は相手が受け取らないと成立しません。なぜなら、何か(たとえばパン)を与えたという、「与える」行為の成立は、与えられる相手がいなければなりません。パンを与えたという人がいれば、パンをもらったと言う人が必ず存在するはずです。

「与える」行為は、大体の場合、与える側が損をして、貰う側が得をします。しかし、愛が受け取られるとき、与えた側は損なんかせず、逆に、嬉しい気持ちになります。「与える」という行為であったとしても、作中でいう「報酬」が得られるわけです。

また、作中では、愛が受け入れられないのに愛してしまう姿を、「報酬」をよい方に計算してしまうためと、自虐的に言っていると思いますが、これは「愛」が受け入れられなくても、成立することを示しているのだと思います。なんでこんなに、可愛いのだろう。そういう気持ちが働いて、愛したくて愛したくて、どうしようもなくなってしまうのです。これは、親が子供に対して持つ場合が多いように思います。

ここまで見てきたように、「miss」に比べて「love」は面白みに欠けるかもしれません。「命は大切だ」そういう言葉を、幼いころから、実感のないまま、教えられてきた私たちですから、「love」の安定感を「ダサク」思うのも無理はないでしょう。

しかし、「miss」の起伏の美しさを知っていても、やはり人間として―命あるものとして―安心を求めてしまう性質に気付いたとき、命は今までになく、実感に迫って、重みを帯びてくるのではないでしょうか。芸術や小説の対象になりそうな「miss」を追い続けて疲れたときに、ふと休憩を求めて顔を覗かせる人間性に、「しゃあないな」と「love」を認める。

miss」を知って、「しゃあないな」と命の重みに負けて、「love」をする。こういう「love」はまた違ったものに見えてきませんか。

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