いきなりだが、読者は「あはれ」の意味するものをどう解釈しておられるだろうか。もちろん歴史的仮名遣いで書いたのは意味がある。
中学時代、「あはれ」はただ単に「趣がある」という言葉で片付けられた。一体「趣」とは何であるか。その頃の自分は答えることができなかっただろう。僕の愛用している新明解国語辞典によると、「そのものの持っているいい意味での特徴」と記されている。うん、そんなものだろうと、今では頷ける。しかし高校に入って「あはれ」を「趣がある」とだけ訳していると、それでは間に合わない。しみじみと心が動かされる、美しい、面白い、悲しいなどのいろいろな訳語が出てきて、語の意味も自ずと深くなってくる。(最後のものは、現代語にもその用法があるものである。なぜ現代にそれだけが残ったかは後で話そう。)語源としても、物に触れて深く感じたときに発する「ああ」や「はれ」からできた語だという説明が、色々な参考書でなされている。そして何と言っても、現物つまり古文に当たってその場に応じた「あはれ」の意味を確認する作業を何度も続けてくるうちに、自分なりとも、「あはれ」の語義がぼんやりと見えてきた人も多いことと思う。
したがってここから、「あはれ」という語に関する話をするのだが、読者の方のこれまで積み上げてきた「あはれ」に対するイメージを一掃して、新しいものを導入させようというようなことは思っていない。もとより、そんなことは不可能で、無用のことと思っている。ただ読者の思想の一片に影響を与える、そして先人の言を借りるのだから、その一片をより大きなものにしようと努力を試みたい。
二つ目の質問をしよう。読者は本居宣長の「もののあはれ」論は知っておられるか。名前だけなら大半の方は知っているだろう。授業で習った方もいると思う。僕は内容を知らなかった。本居宣長といえば、小学生のとき国学者だと習った。中学では、「古事記伝」を書いた人だと教わった。国学はよく蘭学と並べられるから、つい最近まで、西洋と東洋の対比がイメージにあり、なんとなくだが儒教と関係があるのだろうと思っていた。しかし、それは全く違うようだ。古典回帰を試みる国学は中国から伝わった儒学を否定する立場をとる。少し考えれば分かるようだが、考えなかったので分からなかった。そしてもっと驚いたのは、彼には理屈というものがないということだ。「学者だから、理屈がないのはおかしい」という読者はおられまい。なにしろ古事記というものは、神武天皇がいたということを何の躊躇もなく書いている書物だからだ。これも先と同様、考えてもみなかったので分からなかった。
これらの誤解は、つい最近読んだ、相良亨(さがらとおる)氏の著書「本居宣長」で解けた。氏は和辻哲郎氏に師事し、日本倫理思想史を専門とした。和辻哲郎氏といえば、「日本倫理思想史」という著書が、現在岩波文庫で刊行されているが、大変面白く読んだ。彼の研究の集大成だと言う。また「古寺巡礼」という著書は、若者の間で大変人気だったらしい。僕も読んでみたが、周りで読んでいる人はそう多くない。何しろその若者と言うのは、百年ほど前の若者である。
さて、相良氏の「本居宣長」であるが、これは三十年ほど前の作で、二年ほど前、講談社学術文庫から刊行された。学術文庫だけあって、名著である。だから、この本が本居宣長研究に与えた影響は大きいのだろうが、昨今の他の人が書いた本居宣長の著作や、高校の倫理の資料集を見ると、どうもそれが全て定説になっているとは思えない。なるほど、それを採用しているところもあるが、僕が大事に思うことが省かれていたりする。具体的にいうと、「神道論」と「もののあはれ」、歌、物語の相互関係である。(資料集に載っていないのは、字数が許さないだけかもしれないが…)それが惜しいことだと思われるから、それを述べつつ、徐々に「もののあはれ」論へ説明を加えたいと思う。これが本論ではあるが、その相互関係があってこそ、話が深くなっていくと思うので、いささかまどろっこしいかもしれないが、まずは本居宣長自身に焦点を当てて、話を進めていきたい。
宣長の生涯を簡単に述べよう。本名栄貞。伊勢松坂の木綿問屋の次男として生まれる。二十歳前、医学修行のために上洛。徂徠学、契沖に啓発され、同時に和歌にも親しんだ。帰郷後、医師として開業。その傍ら、和歌に関する書物を書く。のちに研究対象を「源氏物語」に移し、またその後、日本古代精神の究明として、「古事記伝」が書かれる。以上、この通り。
さて、彼は儒学を否定していたといった。そして、友人に送った書簡に、儒学とかいう学問は将来国を治めるような人がすることであって、自分みたいな人が学ぶものではないというようなことを言っていた。そして、宣長は歌を詠むことについては、詠みたいから詠むのだということを言う。これを聞いたとき、ぼくは世の中を生きようとしていない人だなと思った。なぜこの人が、後世に名を残しているのだろうか。
さて、この問題は後に残しておいて「もののあはれ」論の話をする。京都遊学時代の直後、歌論を書き、そしてこの物語論、「もののあはれ」へとつながる。「もののあはれ」とは何なのか。宣長は『「もののあはれ」を知ること』が大切であると説いている。それは、あるものを見て、「しみじみと趣があるなあ」つまり「あはれ」と思うことではない。そして、「あはれ」というものは、自分の元からある感情ではない。では何であるか。『「もの」のあはれを知る』ではなく、『「もののあはれ』を知る』ということだ。つまり、宣長によると、ものには、それぞれそれに触れたときに感じるある特定の感情があるらしい。花を見ると美しい、子供を見るとかわいい、暗闇は怖いなどの感情が「もののあはれ」である。つまり「もののあはれ」とは、自分の感情ではなく、ものそのものに内在しているものである。自分が働きかけて感じるのではなく、ものから働きかけてくるということだ。だから「もののあはれ」を知らないと、どれ程美しい花を見ても、美しいとは思えない。もののよさを知ることこそが、この世をよく生きる秘訣だということである。
では、「もののあはれ」はどのようにして知るのかということだが、ここで出てくるのが、物語である。物語によって「もののあはれ」を知るのだ。これに説明はいるまい。「ああ、あの子かわいいわ」とか「この人の境遇はなんて不幸なんだ」。物語の中で、子のかわいさを知ったり、悲しむことを知るということだ。
「もののあはれ」を知ると、その次にどうするのか。積極的に「もののあはれ」を知ったものに、近づこうとするだろう。でも、制限なしにそんなことをしようとすると大変なことになるだろう。本居宣長の研究した「源氏物語」を見ると、明らかである。「源氏物語」で知った「もののあはれ」として第一に挙げられるのは男女間の交流だろう。では、それを知った人皆が好色家になってもよいか、というと宣長はそうではないという。では、彼が否定していた儒家や道理、理屈に倣わなければいけないのかということであるが、それも違う。本来「もののあはれ」というものは、あらゆるものに内在するものだと先にいった。そこから、宣長はこの世界は「もののあはれの海」だという。なるほど、鳥にも花にも「もののあはれ」があるのだから、例を他にも挙げるとこの世は「もののあはれの海」になりそうだ。そしてその例には、他人に対する「おもいやり」「同情」「共感」なども含まれている。それを広げると世間への「思いやり」、つまり世間のならいを憚って行動を改めることも、「もののあはれ」を知った人にしかできないことであるらしい。「世間のならい」が彼の否定する「儒仏教戒」と同じだとしても、それに従っているわけではない。あくまでも「儒仏教戒」を嫌うことは「もののあはれ」を知る人の行動ではなく、それに憚って同情の念でいる態度なのだ。
さて、また次の疑問が生じてくる。「もののあはれ」を知ってしまうと、我慢することが多くなって、生きづらくするではないかということだ。なるほど、情事の「あはれ」を知らなければ、それを欲さなくて済む。また人の「あはれ」―気持ち―を知らない人は、好色家になるが、それを知っている人は、周りを憚り我慢することだってある。言い換えれば、「もののあはれ」を知っている人ほど、フラストレーションが溜まりやすい。
そのはけ口として、登場するのが和歌である。そして、どうしようもない状況で、つい吐いてしまう嘆息のようなものが「ああ」「はれ」つまり「あはれ」である。和歌に嘆息(ため息)交じりのものが多い理由がこれで分かっただろう。(「嘆息」…「自分をめぐる暗澹たる過去、現在及び将来について絶望の思いを深くする意」『新明解国語辞典』)のちに、どうしようもない気持ちつまり「せんかたない」気持ちが歌では、抑えきれずに神に委ねることになる。これが、所謂「神道論」また「古事記伝」執筆へとつながっていく。
ここで本題であった「あはれ」の話は終わりであるが、宣長の神道論について、もう一言。神道論に対する宣長の態度は、基本的に人為を否定し、神に委ねるということで一貫している。もちろん、人為の中には道理や、道徳も人間が作り出したものとして含まれる。そこで、宣長は人為に溢れた今の世ではなく、神の純粋な秩序によって保たれていた遠い昔―古事記―の世を理想としていた。人為に満ちた今だからと言って、神の手を離れたわけではないらしい。つまりこの世には善の神と悪の神がいて、人為を作らせるのも結局は(悪の)神の仕業であるということだ。
以上、「あはれ」に関する話を主として、相良氏の宣長解釈を適度に紹介した。