感染編!

 

「うっ…!」

 

突然首を絞められた。目を開けると三つ編みの女子がいた。半袖の袖から伸びる左腕が、俺の首を容赦なくコンクリートの壁に押しつけてくる。

 

「…っ、やめ…てく、れ…」

 

俺はかすかな気道の隙間から必死にかすれた声を出した。彼女はにぃーっと口角を広げる。

 

「やーだよっ」

 

状況に全く不似合いな、幼く、弾んだ声。ぎゅうぅっと絞めつけてくる重圧は、頭の中をドクドク真っ赤にしていく。

 

「し…しぃ、ぬっ…」

 

「死にたいの?」

 

彼女の笑顔がぱあっと開いた。――まるで、初めて一面の雪を見た子どもの顔だ。どう見ても人を苦しめて喜んでいる表情ではない。くらっと回転し始めた視界を振り払うように、俺は必死に首を横に振っていた。

 

途端、一気に重圧が首に食い込む。必死に振りほどこうとするが、その手はまっすぐ首を掴んで動かない。やばい、全く息ができない。ちょっとまじで死ぬかもしれない。今まで生きてきた十五年ちょいの人生は、見知らぬ女子の手によって、こんなにあっさり終わってしまうのか…?

 

「じゃあ死にたくなるまでやってあげる♪」

 

悪魔のようなセリフを吐くと同時に、彼女は突然俺の首から手を離してくれた。俺はぷはぁと音がするくらい大きく息を吸い、コンクリートの壁によたっともたれかかった。開放された管を通り、脳にトクトク血が補給されていく。呼吸を整えながら彼女の方を見てみると、うす桃色の大きい布ペンケースに手を突っ込んでいるところだった。

 

どうしよう…中から首絞めるロープとか出してくんじゃねーか? いや、この状況なら十分あり得る。なんてったってグランドの隅っこで昼寝してたら、わけも分からんうちに突然首を絞められていたのだ。この調子だと次は彼女の手からナイフやピストルが登場してもおかしくない。

 

すっかり身動きのとれなくなった俺のもとに、グランドの向こうから救世主(…で、あってくれ)がやってきた。

 

 

 

 

 

「おーっす! わららー」

 

宮部、同じ3年1組だ。なんやかんやで中1のときから仲いい、精神的には制服よりランドセルが似合う男だ。

 

時間目が体育だから、宮部も俺も昼休みのうちに体操服に着替えていた。しかし彼曰く、その着替える時間のせいで「午後1時の乱」(昼休みのチャイムをゴングに始まるグランドの遊び場を賭けた野郎どものナワバリ争い)にいつも出遅れちまうということだ。

 

そこで我々(俺は弁当の後の必殺睡魔に毎日完敗してるのでよく知らんが)1組は、体育が合同になる2組のやつらと協定を結ぼうと企んでいる。そしてグランドまで一直線に光速ダッシュして、「午後1時2分の乱」を巻き起こそうと…っていや、そんなことはどうでもいいんだ。

 

宮部は首絞め女子の方に声をかけたようである。「わらら」ってのは…彼女の名前か? 同じ中学にそんな名前の人がいたなんて知らなかった。知り合いなんだろうか?

 

「あ! みやべい、お~っす☆」

 

 わららはペンケースから出した緑色のペンらしきもの(凶器じゃなくてよかった)を振りながら答えた。まるい頬がふわりと上がり、小さく白い歯を見せながら、口角をいっぱいまで広げる。――この子本当に、さっき俺を苦しめて笑っていたのか? 同一人物に思えなくなってくる。

 

「女子体育館だろ、5時間目。何すんのー?」

 

 宮部がわららに聞く。それを聞いて初めて、俺は彼女が体操服を着ていることに気付いた。つまり、彼女も俺らと同じ5時間目が体育で――ってことは、わららは2組、隣のクラスの女子だったのか? それにしてはあんまり…いや、全く見覚えがない。転校生だったら紹介ぐらいあるだろうし…。謎だらけの女子はまん丸い目で宮部の質問に答えていた。

 

「今ね、創作ダンスやってるの。あたしの班は「波」だから、ざっばああああんってするのよ。そんでね、後ろに流す曲がすぅ~っげえかっちょいいから、テンション上がりまくりなの!」

 

 本当に踊りだしそうな勢いで話すわららの背中で、腰まで届く長さの三つ編みがぴょんぴょん跳ねる。

 

「そろそろ体育館行こっかな~、男子は外でやるの?」

 

「おう、バリバリ晴れてるし! 午前4時間ぶっ通し授業からの解放~」

 

 全く見知らぬ女子と、だいぶ見知ってる宮部との会話は、何だか見てて変な感じがする。

 

「おとといでマット終わったから…、俺ら今日からハンドボールだよな?」

 

 そう言って俺の方を向いたその瞬間――、宮部は地面にぶっ倒れた。

 

「宮部っ?」

 

びっくりして駆け寄ると、宮部はうずくまって小刻みに震えていた。ど、ど、ど、どーしたんだいきなり? まさかお前もわららに何かやられたのか? やはりペンケースに凶器が潜んでいたか? それともヤバい薬品を飲まされたか? もしや今彼女が持っているペンから未知なる光線が――

 

「…ひっ…くくっ…っぶあはははははははははは!」

 

宮部は爆笑し出した。片方の手で腹を抱えもう片方で地面をばんばん叩き、そのたびにグランドの土が舞い上がる。――どうやら半端なくツボっているようだ。(原因は全く見当がつかないが…)お前は一体何を叫んでいるんだ!とツッコみたくなるくらい口全開で、顔も真っ赤になって笑い続けている。

 

「ははははっ…くひっこ、これっへっへ、…わららがかっ描いたのかはははは!」

 

「ひぃーん☆ やらかすでしょ?」

 

「おっ前まじでへへ…やっらかはは、しすぎだろっほっ~!」

 

 笑いすぎて何言ってるか全く分からん宮部。なぜか自信満々のわらら。そしてさっぱり状況を理解できていない、俺。

 

「そのみどぅっふりんペへへンっ…くく…でつっ次何つけた、はっすんだよっひっひっひ!」

 

「これはねふふふっ、緑色くちびるにに塗ったくっちゃうの♪」

 

「ぐゃはっー! そっそりゃはっ…ま、マははッシュマンっ顔ん~面ん~じゃねーへかよっつ!」

 

「そうなの、スーパーゲジゲジマッシュマン! はははははっ」

 

 もう日本語かどうかさえ怪しい二人の会話から、かろうじて読み取れるキーワード――「ペン」「塗ったくる」「顔面」「スーパーゲジゲジマッシュマン」…そうか、やっと宮部のツボの原因が判明した。俺はとんでもないことをされていたんだ。つまり――、

 

「俺は顔面をペンで塗ったくられて、スーパーゲジゲジマッシュマン(そう、それは数学の教科書に毎ページかかさず登場する、一度見れば二度と忘れられない強烈なインパクトを持つ解説キャラクター。人々は彼をこう呼ぶ、「スーパーゲジゲジマッシュマン」。初めてマッシュマンを目にした者は、その晩98パーセントの確率で夢に見るといわれ(俺もその一人だ)、ノートの隅などに少しでもマッシュマンの落書きをした者は、どんな成績優秀者でもその学期の通知表に「えんとつ」または「あひるさん」がつくという恐ろしい都市伝説もある…。)みたいな顔になってんのか」

 

これは本当にとんでもないことだ。なんてったって、スーパーゲジゲジマッシュマンだ。もしこれでわららの通知表に「えんとつ」が立ってたら、たとえ殺されたとしても慰めにいこう。

 

宮部はまだツボり続けて…というかもはや「爆笑」のレベルを超えて苦しんでいるようにも見えてきた。お前、まじでワライダケか何かわららに食わされたんじゃねーのか。

 

「おっお前へへ…いっひ今きひひっ…気付いたんっかよっはははは! ふー、そっほほんな…くふっ、キョ~レへへっツな顔にされっ、て何っで…ばっ、バっはははレ、なかっ…たんんだひゃひゃひゃひゃ!」

 

 お前今気付いたのかよ! そんなキョーレツな顔にされて何でバレなかったんだよ!――と言いたかったようだ。(だんだん聞き取れるようになってきたぞ)てかお前もう何も喋るな、これ以上しゃべったら呼吸困難で死んじまうぞ。ほら、周りの人たちもこっち見てんじゃねーか。…いや、それは俺の顔の方が原因だな。全く、一体どんな顔になってんだ? 俺も鏡で自分の顔見たらぶっ倒れるかな。

 

 

 

 

 

「すずき、」

 

 突然背中から聞こえた声が、俺の肩をびくっとすくめさせた。――初対面の彼女が、教えたはずもない俺の名前を知っていた。もしそれが「鈴木くん」や「鈴木さん」なら、このグランドで遊ぶ数百人の中に、一人か二人ぐらいはいてもおかしくない。でもそれが平仮名の、しかも名字ではなく下の名前の「すずき」なら――、いま教室にいる生徒も含めても、たぶん、俺だけだろう。

 

 女子はともかく、男子で平仮名の名前のやつは、俺だって自分以外にはまだ一人も見たことがなかった。隣のクラスにそんな変わった名前のやつがいれば、下の名前くらい覚えるのかもしれない。でもそれ以前に、何か首を絞めたいような理由があったはずだ。もし彼女が俺に何か恨みでもあるんなら、そいつの名前くらいは覚えていても…。

 

俺が頭の中でぐるぐる考えていることを全部見透かすかのように、わららはにひんと笑う。あんたの名前くらい、知ってるもんね。………

 

「自殺する気になった?」

 

「…え?」

 

「自殺したい?」

 

 …突然、何なんだ? そんなきらきらした目で聞くような質問じゃないだろ。画像と音声の不気味なズレに、俺は半分身震いするように首を振った。

 

「そっかあー」

 

 わららは一瞬軽く尖らせた口先を、またひゅいっと元の笑顔にすくい上げて、

 

「じゃ卒業するまでに殺すね♪」

 

 そんなセリフをぽーんと振り落とすように回れ右すると、ペンケースと上履きを持って体育館の方へと駆けていった。

 

 二束の三つ編みをとんとん揺らしながら、人ごみに消えていくわららの姿を、俺はぼうっと見つめていた。――どうしよう、俺、今日死ぬのかな。いや、それはちょっと残念すぎるぞ。せめてもうちょいぐらいは生きて、メシ食って、寝て、ゲームして、寝て、わらびもち食って、ゲームして、寝て、わらびもち食って、…とにかくまだ死ぬ気は無い。

 

 ふと校舎の時計を見上げると、1時2じゅう…4分? あと1分で予鈴じゃねーか。さっさと並ばねーとまた先生(ちなみに担任)にグランド+3周の刑をくらっちまう。てか俺、顔マッシュマンのままじゃねーかっ。やばいやばい、とっとと洗い流さねーと。

 

 ボールを片付け校舎に戻っていく人ごみを逆走し、俺は水道までダッシュした。(今50メートル走計ったら新記録が出るかもしれない)蛇口にとび掴み息を切らして栓をひねりふと顔を上げ鏡の中の自分を見た瞬間――、俺は地面にぶっ倒れた。

 

 

 

 

 

「いやぁ~今日の体育は最強だった」

 

 宮部が一体どーやったらそんなに汚せるんだとツッコみたくなるほど砂まみれの体操服を脱ぎながら言った。5時間目が終わり、女子は1組、男子は2組の教室でわやわや群がって着替えている。

 

「てかすずき、何であんな中途半端にしかマッシュマン落とさずに帰ってきたんだよ」

 

 面白くこらえるように笑いながら聞いてくる宮部。顔をごしごしこすりまくってたらその拍子にコンタクトが外れ、排水口に流さるのを救出しようと目を凝らしているうちに予鈴が鳴り、ぼやけた視力のまま鏡を覗き込んでOKだと判断しちまった結果だ。(結局その後先生に、とっとと洗い流してこいっと笑いこらえながら命じられた)

 

 黒板にはもう制服に着替えた日番の和渕が、xやらyやらルートやらのチョークの羅列を気持ちいいくらいきれいさっぱり消していた。和渕は隣の2組。家が近くて、小学校入る前から幼なじみだ。彼と一緒に遊んだ場所は、8割以上がゲーム画面の中だったように思う。

 

「昼休み消し忘れてたんだ。午後1時2分の乱に巻き込まれちゃって」

 

「それは…ご苦労さん。俺寝てたけど」

 

 もう一個の黒板消しを持って手伝おうとすると、黒板右下に書かれた名前に目が止まった。

 

「あれ? 俺今日、日番だったっけ」

 

 日付の下の欄、「和渕」の隣に白いチョークで並んでいるのは、俺の名字だった。

 

「いや、ここ2組じゃんか」

 

「あーそっか。じゃあこれって…」

 

 一体誰のことなんだ? 同級生に同じ名字はなかったと思うんだけど…。

 

 突然俺の背後でガラガラっとドアが開く。ちらっと振り返ると、やわらかい耳元からさがる三つ編みが視界に入った。

 

「ごめん、わっちくん! 黒板消すの忘れてた」

 

 野郎ども絶賛着替え中の教室に入ってきたその女子は、首から学年色の日番カードをぶらさげた…わららだった。急いで着替えて来たせいか、制服スカートのたすきがくるくるねじれている。

 

「いや、全然。てかまだみんな着替えてるよ」

 

 ふざけてきゃ~と裏声を出す連中に向かって、わららは大スターのように手を振った。彼女は何かを誤解している。

 

「わっちくん、黒板ね、乾き雑巾でしゅ~て吹いたら、めーっちゃきれいになるよ。すっげく目に優しい色になるよ!」

 

「ほんと? やってみようかな」

 

「うん☆ あたしも一緒にやりた」

 

「僕が消しとくよ」

 

 ズボンに手をかけたまま一時停止している男子たちを眺め、和渕は軽く苦笑いした。

 

「じゃあ6時間目の後はあたしがするね、完璧に!」

 

 二人がしゃべってる間に、俺もとっとと1組の教室に帰ろ…うとしたところを、わららのりんりんした視線に捕まってしまった。反射的に肩をすくめてしまう。

 

「すーずき、」

 

 もしこの笑顔に何の前科もなければ、誰一人彼女を警戒したりしないだろう。

 

「今日、掃除ある?」

 

「え?」

 

 ナゾ発言ばっかりだった彼女が急に日常的な質問をしてきたので、俺は一瞬とまどった。

 

「あ、えーっと今週は休みだけど」

 

「そんじゃあ、ST終わったら2組の教室前で待ってて」

 

「へ?、あの」

 

 待ってて、って何で…

 

「今日すずきは、あたしを家まで連れてってあげなさい!」

 

 わららはぴーんと人差し指を突き出して、得意げに命令した。

 

 今日、すずきは、あたしを、家まで、連れてって、あげなさい! …っていうのは、今日、すずきは、あたしを、家まで、連れてって、あげなさい! …ってことだよな。つまり、今日、すずきは、あたしを、家まで――

 

「いや俺、わらら…さんの家知らないし」

 

「じゃあすずきの家に連れてったげたらいいじゃない☆」

 

 いや、よくないって。何でそうなるんだよ。それにもし俺とわららが誰もいない家に二人きりになったら、それこそ首なんか絞め放題だ。台所には包丁もある、水張りっぱの風呂に沈められる危険性も…って怖い怖い怖い怖い、やっぱ怖いっ。

 

「あの…悪いんだけど、ごめん家までは無理、かな」

 

「ええっ、すずきも迷子になっちゃうの?」

 

 迷子…って、家まで帰る途中でか? すずき「も」ってことは、彼女は自分の家まで帰ることができないんだろうか。やっぱりこの町に引っ越してきたばかりの転校生とか…。

 

「じゃあさ、冒険しましょ! 町を駆け回って、家の場所をつきとめるの☆ お~、わくわくするう」

 

「ちょ、ちょっと待って。わらら…さん、自分の家、分かんないの?」

 

 うきうき喋ってたわららが、ぱちっと俺に目を合わせて答える。

 

「分かんないよ。でもね、すずきには分かるの」

 

 …ますます混乱する俺の様子を楽しむように、彼女はふふふと笑う。

 

「だって今日からあたしの家は…」

 

 銃口でも突きつけるかのように、わららは俺を指差した。

 

「すずきの家なんだもん」

 

 

 

 

 

 6時間目は国語だった。昼休みは毎日欠かさず爆睡しているとはいえ、俺の睡魔がたった10分や20分ごときで退散してくれると思ったら大間違いだ。よって俺は6時間目の記憶はほとんど無い。(昨日の夜俺を誘惑してきたゲームのせいだ)

 

 ST終わったら2組の教室前で待ってて――本当に待ってていいんだろうか? 自分でも自殺的行為にしか思えない。でも逆に約束(一方的だけど)をすっぽかしても殺されるかもしれないし…、どうせなら約束(一方的だけど)を守って死のう。いや、できれば死なないで欲しいけど。

 

「おー、すずき」

 

 俺が生死の狭間で揺らいでいるところに、宮部の能天気な声がかかる。廊下の床から視線を上げた途端、宮部の表情は面白くひくひくつり上がり始めた。

 

「えっ、もしかしてまだマッシュマン落ちてないのか?」

 

「いや…くっ、ざ、残像が…」

 

 忘れてくれよ! とか思いつつ俺も何気に、自分の脳内に浮かぶ残像にウケている。だめだこれ、何かすっごいゲンシュクな雰囲気のときに思い出してしまったら大変だろうな。

 

 それから1分ぐらい俺たちは二人廊下の隅っこで音もなくツボり続けた。何やってんだ。

 

「で、誰か待ってんの?」

 

「いや、何か見知らぬ女子に、家まで連れてけって言われて…」

 

「おおおおお! 何かすげーな、モテてんのか?」

 

 そーゆーわけでは無いと思う。

 

「誰から誘われたんだ? 2組の女子って。ももしかして、鈴木とか?」

 

「いや、さっき俺に落書きした人」

 

「…へ? わららのことか?」

 

 宮部はアホっぽ…いや、子どもっぽく目を見開いた。そういえばこいつはわららと知り合いだったな。

 

「それに自分の家が、俺んちだとか言ってるし」

 

「え、そりゃそーじゃん。わららはお前の…」

 

「おまたせっ!」

 

 白い雑巾片手に、わららが教室からぴょこっと出てきた。

 

「すずき、みやべい、見て! 黒板めっちゃきれーでしょ」

 

 2組の教室を覗くと、確かにチョークの筋一つ無い深緑が、蛍光灯の光をてらりと白く照り返していた。

 

「おお! 天才だなお前」

 

「ふっふふぅー♪ 明日の1時間目、絶対先生びびるよ」

 

 こんなに係の仕事を楽しむ生徒ばっかだったら、先生も苦労しないだろーな。

 

「そんなに黒板消し好きなら、1組の分も代わりにやってくれよ。俺そろそろ日番回ってくるからさー」

 

「ふふーん、断るっ。明日の休み時間はすーちゃんとダンスの続き考えるもん」

 

「す、すーちゃんって、鈴木のことか?」

 

「うん、体育同じ班だから。すーちゃん走るのは遅いけど、踊るのは楽しいの」

 

「おお~、見たい。いや、見たいわけじゃないけど。あのー面白そうだし、うん。いいなあ~」

 

 鈴木さんは1年のとき同じクラスだったけど、ほとんど喋ったことが無かった。他の人ともあんまり喋らないみたいだったが、時々ほんわりとした関西弁を使ってクラスの女子と会話していたのを薄っすら覚えている。

 

 宮部がわららとそんな会話を続けてくれるおかげで、俺は下校中死の危険にさらされることは無かった――この横断歩道を渡るまでは…。

 

「ほいじゃ、また明日~」

 

「うん、ばいばいー」

 

 いつも通りの軽いノリで宮部が手を振る。ああ宮部、頼む、行かないでくれ…。

 

 信号の無い横断歩道の前で、彼女は首をぶんぶん振っている。――どうやら「右見て左見てもう一度右見て」を高速で実践しているようだ。なかなか車が途切れない。

 

「すずき、車にひかれても死んじゃだめだよ」

 

「は…?」

 

「渡るよっ」

 

 わららが弾んだ声で車道へ飛び出す。危な…と思った瞬間首がぎゅっと絞まる。わららが俺のネクタイを掴んでいることに気付く頃には俺もすでに車道のど真ん中を突っ切っていた。耳の隣で鳴るクラクションに「ごめんなさい…」と呟いた声もかき消され、もつれそうな足の下に白と黒のしましまが交互に目まぐるしく流れて…、

 

「ぅぐっ」

 

 俺は黄色い点字ブロックにつまずくように転がり込んでいた。痛い。ネクタイで締まった首も痛い、点字ブロックに打った頭も痛い、通行人のみなさまの視線も痛い、頭上に聞こえるわららの声は…、

 

「ははは~面白かったね♪」

 

 100%、無傷だった。

 

 

 

 

 

 おうちをきいてもわからない割には、すっかり冒険気分でるんるん先頭を進むわらら。視界に入る位置にいることはまだ安全に思えるが、油断は禁物だ。次いつネクタイ掴んで車道へ放り出されるか分からない。単に車が途切れるのを待ちきれなかったのか、俺を危険な目に合わせたかったのか、面白そうだからやってみたのか…。(あえて車が大量に通るタイミングを見計らっていたのかもしれないな)

 

 それにしても…わららは一体俺をどうしたいんだ? 突然首を絞められたかと思えば俺の顔に衝撃的な芸術を施し、自殺するだの殺すだの、画面の向こうでしか縁のなかった言葉を次々目の前で浴びせてくる。このまま黙って彼女について行くだけじゃ、一瞬先も予測できないような状況がずっと続いてしまうだろう――

 

 一番怖いのは知らないことだと聞いたことがあったので、俺は思い切って聞いてみることにした。

 

「あのさ、何で…その、首絞めたりしたんだ? 昼休みのとき」

 

「くびしめたりって何?」

 

 くるんと振り向いたわららに、きょとんとした顔で聞き返された。…え、何だ? しらばっくれてるのか? それにしては本当に何も知らないかのように首を傾げている。――ああもしかして彼女の精神は、何らかの魔物に乗っ取られていたのかもしれない。そして普段はやらないような危なっかしい言動を、乗っ取られた魔物に操られていたんだ。(年がら年中現実離れしたゲームばっかりやってると、こんなノリの発想しか出てこない)

 

 そうだ、そうに違いない。短い前髪に人形みたいな三つ編み、たすき付きのスカートにくりっと三つ折にした白靴下。このまま約50%ぐらいに縮小したら、幼稚園児にも見えるくらいだ。こんな子が人殺しなんて思いつくはずがな

 

「ねえ、何で死んでくれなかったの?」

 

 まじかあああああ。

 

「お顔に落書きしたら、殺せると思ったのに」

 

「え、…落書き?」

 

 まさか、マッシュマンの呪いで俺を取り殺そうと…

 

「滴ちゃんが言ってたの。あ、滴ちゃんはね、あたしの上司さんなのよ☆」

 

 上司? ――ひょっとして彼女は、スパイ組織か何かに雇われた手下なんだろうか。幼い笑顔でを油断させ、影でたんまり報酬もらってるとか…(年がら年中現実離れしたゲームばっかりやって(以下同文))

 

「ターゲットの男の子を指名手配犯そっくりの顔に整形したら、その人自殺したってー♪」

 

 わららは面白そうに笑う。どっからどー見ても悪役だ。

 

「整形ってよくわかんないけど、落書きみたいなもんでしょ? だからすずきを殺すために、マッシュマンの落書きしたの! でも頭がかくん、かくんってなってるから、動かないように首押さえながら書いたのよ」

 

 首を押さえながら…ということは、彼女はただ上司の真似をして俺に整形もどきを施し、うとうとしている俺の頭を動かないように押さえたら、結果的に首を絞めるほど力を入れてしまっていた、ってことか? 彼女は本当に人の殺し方を理解しているのだろうか――話せば話すほど、ナゾは深まるばっかりだ。

 

 ばってんにたすき掛けしたスカートの背中を、二束の三つ編みがしっぽみたいに並んで揺れていた。 

 

 

 

 

 

 そうこうしているうちに、家に着いてしまった。いつもなら家に着くということは、ゲームの続きと、運がよければ冷蔵庫のわらびもちにありつけるという幸福を意味するのだが、今日は話が違った。

 

「あの、ここが俺ん家なんだけど…」

 

「へー、ちっこいね!」

 

 そんなにストレートに言われたのは初めてだな。いーじゃん広かったらさびしーじゃん。

 

 かばんのポケットからひも付きの鍵をひっぱり出して、鍵穴に差し込もうとしたとき――わららのかばんに繋がれた鍵が、すでにそこにささっていた。

 

 わららと目が合う。ひぃん、と短く笑って、わららが鍵を回した。

 

「ちょちょっと待って。何でうちの鍵…」

 

「だってあたし、この家の子だもん♪」

 

 なるほど、だから俺と名字が一緒だったのか。てことは俺とわららは双子の兄弟だ。どっちが年上なんだろーなー…っていやいやいやいや、おかしーだろ。一体何なんだこの状況は?

 

「たっだいまー!」

 

 誰もいない家の廊下に、わららの声が明るく反響する。俺も地味にただいま…とつぶやくが、もはや自分の家に帰って来た気がしない。

 

「あたしのお部屋はどこっ?」

 

 まんまるい目をきらきらさせて、わららが目の前で振り向く。俺は散らかった靴の中を後ずさりするように、狭い玄関のドアに背中を貼り付けた。

 

「ごめん、母ちゃんと父ちゃんと俺の部屋しか知らない…」

 

「じゃあすずきの部屋をのっとりに行こう☆」

 

 そう言って小さな白い運動靴を踏んづけて脱ぎ捨てると、お化け屋敷探検にでも行くかのように、白い三つ折り靴下は急な階段をかけ上がっていく。絶対待ってくれるはずがないんだけどやはり「待って」と言いながら、俺も寝坊したとき並にばたばた追いかけた。

 

 

 

 

 

 もし自分の部屋をゲットしたらぜったい畳の上で昼寝するんだ!と小学生の俺が選んだちっこい和室は、今やその4割が物置(主にゲーム機及びカセット及び得体の知れないプリントの山)と化している。

 

「わぁ~、せまいっ基地みたい!」

 

 階段の上から聞こえる案の上の歓声…それ、褒めてんのか?

 

「ベッドはあたしが上ね、ぜったいね!」

 

 ベッド、の上? 俺の部屋にあるのは一段のちゃちい寝床だったと思うんだけど…。

 

「…何だこりゃ」

 

 部屋の様子がいつもと違う…というか、すっかり変わっている。今までは壁際の元・勉強机(現・物置)まで3歩は歩ける距離にあったのに、今は入ってすぐのところに移動している。ベッドは二段になっていて、元から狭い部屋がさらに半分狭くなったような感じだ。そして俺の机の向こうにはもう一つ同じような机が置いていて、全く見覚えのない服やらモノやらが積んである。まさか…

 

「ここが、あたしとすずきの一緒のお部屋なのね♪」

 

 

 

 

 

 わららは元々俺の机やら何やらが置いてあったスペースをうろちょろしながら、ふっふふ~♪ とナゾの歌を歌っている。一応入り口側半分が俺の陣地で、奥側半分がわららの陣地のようだ。向かい合わせで置かれた同じ机がその境界線になってるみたいだが、元々狭い部屋なのでほとんど一緒くたになっている。…なんて冷静に分析している場合ではない。どうなってんだこの状況は? 俺が学校行ってる間に、この部屋に何が起きたんだ?

 

 ふとわららを見ると、制服スカートのホックを外し、両肩のたすきに手をかけているところだった。

 

「あ、着替える…?」

 

 俺が遠慮がちに聞くと、わららが

 

「うん☆」

 

 とうなずく。そしてそのまま手を止めずにたすきを下ろし始めたので、俺は慌てて回れ右し、その辺に置いてたパーカーとズボンを拾って部屋を退散した。

 

 俺も制服着替えようと、部屋の前でちまちまシャツのボタンを外していると、突然背後でがらがらっとドアが開く。振り返るとわららは葉っぱのような黄緑色の、袖の広がったワンピースを着ていた。

 

「似合うー?」

 

 わららが両手でスカートをぱんっと掴んで自慢する。ふわっとした布の色が、何だかこびとみたいだ。

 

「あ、うん。似合ってる…と思う」

 

 褒めないと殺される…からとかじゃなく、本当にその服装が、三つ編みの雰囲気とかに似合ってるなーと思った。制服よりも少し丈が短いので、靴下を脱いだはだしの足から膝まで元気に見えている。

 

「ひぃーん♪ でしょ?」

 

 わららの笑顔が一面にふわっと広がる。…また褒めたくなってしまうような表情だな。わららはまた、ふっふふ~♪ とナゾの歌の続きを歌いながら、狭い部屋の奥に戻っていった。

 

 俺も着替え終わって部屋に入ると、わららは何やら自分の陣地にあるものをあさっているようだった。宝探しでもしているようなうきうきした背中に、俺はこの際思い切って聞いてみることにした。

 

「あのさ、すっごく今さらなんだけど、」

 

 引き出しにつっ込んでいた三つ編みの頭が、こっちをくりっと振り向いた。

 

「…あなたは誰ですか?」

 

 わららはにひっと俺を見ると、ふーふーふーと怪しげに笑う。そしてちょっと考えるような素振りをしてから、120パーセントのにっこにこで答えた。

 

「宿題終わったら教えてあげる!」

 

 …そんな声で言ったらますます母ちゃんみたいなセリフだな。

 

 

 

 

 

 向かい合わせの机越しに、わららは「ねー、気になる?」とわざとらしく聞いては、「まだないしょー」と嬉しそうに繰り返す。まるで4歳児みたいなしゃべり方が、彼女の初々しい雰囲気に似合っていた。

 

「終わったよ、宿題」

 

 3分置きに話しかけてくるわららに見守られながら、俺はようやく手首の運動を終え、とりあえず埋めた単語プリントを教科書に挟んだ。もし彼女が正体を暴いた瞬間赤ずきんのオオカミ状態になってしまった場合、俺が人生最後に書いた単語はscientestか。いや、sientistだったけ? sicantist…あれ?

 

 …まあサイエンなんちゃらのつづりなんてどうでもいい。(いやよくねーぞ受験生)とにかくわららは、お待ちかねの正体を発表してくれるのだ。

 

「そいじゃ、教えてあげる。あたしの正体はね…」

 

 自然と上がってしまう口角から、ひひひと小さな声が漏れる。何でも透き通してしまうような肌には、言いたい気持ちが隠しきれないようだ。

 

 わららは俺の目の奥に、ピストル型の指を得意げに向けた。

 

「あなたを殺すためにこの世界に侵入した、コンピューターウイルスなの!」

 

 

 

 

 

 ランドセルしょって帰ってきて真っ先に今日あったことをに話すいちねんせいみたいな表情で、わららは俺に説明してくれた。

 

「今日のお昼の12時、あたしはこのユメトムの中に侵入したの」

 

「ちょっ…と待って、ユメトムって何?」

 

「ユメトムはねー、ゲームなの☆」

 

 わららはこの世界に侵入したウイルスだと言った。ユメトムの中に侵入したとも言った。そしてユメトムはゲームの一種であるらしい。ということはつまり――、

 

「ここは、ゲームの中の世界なのか?」

 

 冗談だよな…なんて言ってる状況じゃなかった。わららはぽかんとしている俺の様子を楽しむようにくり返す。

 

「今日のお昼の12時、あたしはこの“ゲーム”の中に侵入したの」

 

 

 

 

 

 この「ユメトム」がわららというウイルスに感染した瞬間、このゲームの設定は一瞬にして書き換えられた。自分を取り巻く人々の記憶を書き換え、3―2の黒板の片隅に名前を載せ、この部屋は狭さは半分になった。つまり、最初から俺とわららは双子として生まれてきたことになったのだ。

 

 わららが自分の家を知らなかったのも理解できる。今日のお昼の12時宮部や和渕を知ったのも、弁当&昼休みの頃だったそうだ。

 

「このゲームのプレイヤーの名前は、ミヤベ」

 

「宮部…?」

 

「でもみやべいのことじゃないよ」

 

 そうだろーな、こないだ俺ん家で一緒にゲームしたときはびびった。ボタンの操作を全然知らないのだ。あいつの家には何と一個もゲームがないらしい。あんな遠くまでハンドボール投げ飛ばすより、指先でボタン押す方がよっぽど簡単だと思うんだが…。

 

「ミヤベちゃんは女の子なの」

 

「あ、そうなんだ。女の子って…何歳ぐらい?」

 

「えーとねー、今年で715歳!」

 

 …まじかよ。まさかの俺より7世紀年上だ。

 

「あ、でもまだ714歳だよ。お誕生日もうちょっとだから」

 

 じゃあまだ699歳上か。

 

「ミヤベちゃんがこのユメトムを始めたのは、だいたい2年半くらい前。そしてこのゲームを全クリするのが約半年後ね☆」

 

 …どういうことだ? 今から2年と半年前といえば――俺が中学に入った頃だ。そしてこのゲームを「全クリ」するというのは、半年後、丁度卒業する頃になる。と、いうことは、

 

「俺が中学入学してから卒業するまでの3年間をゲームにしたゲームがこのゲームってわけなのか?」

 

自分でしゃべっててもワケ分からなくなりそうだ。

 

「その通~ぅり! ミヤベちゃんの体内に侵入したとき、確認したの☆」

 

「ちょっと待って、体内って…さっきコンピューターウイルスって言ってなかった?」

 

「そうよ、コンピューターに侵入したんだもん」

 

「じゃあ体内に侵入したってのは…」 

 

「どっちもよ☆ 体内に組み込んであるコンピューターに侵入したの」

 

そんな近未来的設定をさらっと言われても。

 

「このゲームの中では、今は、21世紀の設定だけどね、ほんとうの世界では、今ちょうど28世紀なの! ミヤベちゃんの脳みそのデータをくちゅくちゅくちゅ~っていたずらしてね、記憶も感情も全部ぱあーにしてあげる♪」

 

 いかにもウイルスらしい内容をいかにもウイルスらしくない喋り方で宣言される。幼い表情と電子的なセリフと今見ている景色とゲーム中の設定と何もかもとが頭の中でこんがらがって、もはや何を信じていいのやら、気持ちいいくらいさっぱり分からなかった。

 

 

 

 

 

  薄紫に染まった窓の向こうから、カラカンとポストを開ける音が響く。母ちゃんだ。

 

「おかえりーっ♪」

 

 階段の上からわららが言うと、下からただいまーと返ってきた。たぶんそうだと思うが、母ちゃんの記憶にも、わららの存在が上書きされているんだろうな。

 

 それにしても、夜ごはん前に宿題が終わっているなんて奇跡だ。いつもなら母ちゃんの足音がするまで全く危機感芽生えないもんな。(がんばれよ受験生)

 

 いつも父ちゃんは仕事で遅めに帰ってくるから、夜ご飯は母ちゃんと二人だ。でも今日はお茶碗3人分、お椀3人分、野菜炒めは大きい皿にまとめて3人前だった。

 

「いっただっきま~す☆」

 

 さすがに母ちゃんの前で殺されることはないだろうから、俺はわららが一人増えたテーブルで、いつも通りにご飯を楽しんでいた。

 

「あのねー、今日すずきのお顔に落書きしまくったの!」

 

 わららは母ちゃんに今日学校であったことを片っ端からしゃべっているようだ。(もちろん、昼の12時以降の内容)母ちゃんの記憶にわららが上書きされていたことは、宮部や和渕がわららを知っていたことよりも大きく違和感を感じた。

 

 俺とわららはほぼ同時にごちそうさまを言って、わららは風呂、俺は皿洗いを命じられた。

 

 

 

 

 

「すずきー、おふろ空いたよー」

 

 部屋の入り口に現れたわららを、一瞬別の人かと思った。昼間はぴょこっと耳を出して子どもっぽくまとめていた三つ編みが、今はくくらず腰まで波打たせ、はらりと頬を覆っている。音符もようが散りばめられた白い七分袖のパジャマを着て、肩に乗せたタオルの上に垂れるひらひら細く濡れた髪は、ひと波ひと波に部屋の電気のつやが乗っていた。

 

「これ何ー?」

 

 わららが俺の机に放り出されたゲームのカセットを指差す。右に首を傾げれば、右肩のタオル乗った髪の束がたわむ。

 

「あ、それ? センギスだよセンギス、戦国ホトトギスの略な。最初はホトトギス鳴かねーんだけど、あちなみにホトトギスはとホホさんってあだ名設定だから。そんで弓とか刀とかでばったばったやっちゃったら「鳴かぬなら殺してしまえ」をゲットできんだ。もちろん「鳴かせて見せよ」とか「鳴くまで待とう」とかも入ってるけど、それ以外にもプレイヤーの天下取りぶりで、とホホさんの五七五は何通りもあるんだよ。これ先週やり始めたばっかだから、まだ15種類ぐらいしかクリアしてねーんだけど、昨日「鳴かぬなら、姿楽しめ」とか出てどーゆー意味だよってな。わりとムズいから5回に1回くらい負けんだけど、そんときは「ホトトギス」が「とホホです…」になったりして、ちょっとかわいらしーだろ。あと武装アイテムもクリアするたびに変わ」

 

「要するに昔の時代のゲームなんだね♪」

 

 わららがにっこり笑う。

 

「すずきはさ、何でわざわざ昔の時代設定にするの?」

 

 ひらひら波打つ湿った髪をふわっと肩から浮かせて、わららが覗き込むように聞いてきた。何でって…

 

「だって21世紀より16世紀の方がサバイバルじゃん。今ならフツーに過ごしてたら死ぬことなんてあんまり無いけど、昔はいつも命懸けで戦わないと生き延びれなかったし。でも21世紀の現実で実際命懸けで戦うだなんて無理だから、16世紀に設定したゲームの中で戦ってみたいんじゃないかな」

 

 我ながらなかなか筋の通った答案を作れたんじゃないか? と国語のテストで調子乗ってるときみたいなことを心の内で思ってたら、

 

「ユメトムも一緒だよ、」

 

 わららがいろんな意味で恐ろしい答案を返してきた。

 

「だって28世紀より21世紀の方がサバイバルじゃん。今なら体内にチューブ差し込んで栄養素を体内に送ってるけど、昔は生き物の死骸を食べないと生き延びれなかったし。でも28世紀の現実で実際死骸を食べるだなんて無理だから、21世紀に設定したゲームの中で食べてみたいんじゃないかな」

 

 …授業だったら赤ペンで「対句」と書くとこだな。

 

「すごいな」

 

 いろんな意味で。

 

「すずきの脳みそがしょぼいだけよ♪ あたしの耳は盗聴器だもん」

 

 わららが長い髪をかけてみせた耳は、精密機器から程遠いようなやわらかい桃色だ。

 

「つまりユメトムはね、この21世紀を体感できる時代物ゲームなの☆」

 

「いや、でも別に俺、歴史の中心人物とかじゃないし…」

 

「中心人物だよ。だってこのゲームの主人公だもん。この世界で起こる出来事は、み~んなすずきの目ん玉を中心に映されるでしょ?」

 

 もっともなことを言っているのかどーなのか。中心人物ってのは、そーゆー理屈でOKなのか? 

 

 

 

 

 

 脳内に大量の?マークを抱えながらも、俺はとりあえず風呂に入ることにした。普段風呂場とトイレ以外のドアはほとんど開けっ放しなんだが、今日は何となく脱衣所のドアを、久々にがららっと引っ張り出した。閉じ込められたような狭い空間が、何か新鮮だ。(本来は閉めるのが普通なんだろうけど)

 

 いつも俺が一番最初に風呂に入るので、最初からびっちゃんこの風呂場は違和感があった。壁にも床にも温かく残る水滴は、さっきまでわららが使ってた証拠だ。わららが使った濡れタオル、わららの身体が浸かっていた湯船…ううぅ、あんま考えない。

 

 俺が今生きているこの世界は、実は「ユメトム」というゲームの中のフィクションの世界…らしい。右手を適当に動かして、お湯にちゃぷちゃぷ音を立ててみる。こんな動作の一つ一つも、ミヤベが選択して、俺を操っている動作なんだろうか。それとも元々ゲームの中にプログラムされている動作なんだろうか。

 

「実感ねーなあ…」

 

 今こんなことをぐるぐる考えているのは誰なんだ? この感覚を感じているのは「すずき」?「ミヤベ」? 今までの記憶は誰のものなんだ? わららは誰を殺しに来たんだ? 何も分からない。

 

 俺は一体、誰なんだ?

 

 

 

 

 

「すずきっ、2段ベッドだよ! はしご上って上がるの、すげえ~☆」

 

 風呂上がって部屋に戻ると、わららがベッドの上でごろごろ転がりまくっていた。三つ編みを解いた髪は大人っぽく見えるが、中身は一緒だ。

 

「でも下も隠れ家みたいでいいなー。明日は下で寝る! でもね、今日は上なの」

 

 ということは明日は俺が上か。ちょっと楽しみだな。

 

「すずき、電気消して」

 

「え、もう寝るの?」

 

 時計はまだ9時前だった。

 

「眠いから寝るの。電気消してっ」

 

 ただ寝るだけにしては、何か楽しみなことでもあるような声でわららは俺に命令した。どっからどう見ても眠そうには見えないが、俺は言うとおり電気を消した。ぽちっと部屋は真っ黒になり、カーテンの向こうにだけ少しぼうっとした明りが見えている。

 

 俺が下のベッドに入ると、上からごそごそ何かしている音がする。と、突然天井にぽちっと丸い光の輪が映し出された。

 

「うぁっ?」

 

 頬の上を、何か湿ったものがこそばくかする。ベッドの天井を見ると、わららが布団をマットごとめくって、懐中電灯で自分の顔を照らしていた。

 

「うぅ~らぁ~めぇ~しぃ~やぁ~」

 

 まだ乾ききってないわららの髪の毛が、ベッドの隙間からゆらゆら垂れ下がる。できる限り怖さを演出しようと、目と口とをまんまるく広げて、呪われたようにびったりと張り付いている。…正直言って、めちゃ怖い。

 

 わららがぽちっと懐中電灯を消す。

 

「ひひひひひ、ゆーれいみたいだった?」

 

「あぁ、びっくりした…」

 

「でしょ~? やっぱ2段ベッドの上っていいねっ」

 

 まさかコレがやりたくて上を選んだのか? 布団を元に戻す音と一緒に、ふふっと小さな声が漏れる。

 

「ねえすずきー、」

 

 目を開けても閉じても変わらない真っ暗の中で、わららの声はすぐ耳元でささやかれたようだった。

 

「…悪夢、見てね♪」

 

 

 

 

 

「おはよー!!!」

 

 目を開けると三つ編みの女子が…わららだ。夢じゃなかった。――いや、ある意味ここはユメの中だったのか。わらら曰く、ここはゲームの中の世界なんだから。

 

「みかんとヨーグルトどっちがいい?」

 

「りょーほー」

 

 俺はぼんやりしたまぶたのまま即答して、物理的にありえない位置に蹴り飛ばされてしまった布団を拾いに身体を起こした。みかんとヨーグルトはちょっと砂糖かけて一緒に食べるんだ。

 

「あのね、ウイルスのお仕事には、守らなきゃいけない大事なキノコがあるの」

 

 学校に向かう道で、わららは俺に説明してくれた。

 

「…きのこ?」

 

「うん、キノコ!」

 

 朝っぱらからこんな満面の笑顔でうん、キノコ!と言われるシチュエーションって一体…。

 

「おはしと一緒だよ、避難訓練の」

 

「あー押さない、走らない、しゃべらない?」

 

 小学校のときによくやったやつだ。避難訓練では「しゃべらない」なのに校長先生めっちゃしゃべってるじゃん、ってへりくつ言いに行ったら、担任の先生に笑ってもらった記憶がある。

 

「嫌われない、逃さない、殺さない。3つ合わせて~きのこ!」

 

「あれ? 殺さないって…殺しにきたんじゃないのか?」

 

「うん、でもすずきを殺しちゃダメなの。あたしが殺したいのはミヤベちゃんだもん」

 

「どーゆーこと?」

 

「あのね、21世紀と違って、今はもう病気とか事故じゃ絶対死なないの。本人が「死にたい」って思うまでは、絶対に死ぬことができないのよ」

 

 死因は100%が自殺…というわけか。

 

「どうせこの時代、人間はゲームの中の幻を見ることくらいしか生きがいがないの。だからこのゲームの世界でひっどい目にあわせるの。そしたら生きる価値を失って、本人が「死にたい」って思って、必然的に自殺しちゃうってわけ☆」

 

 人類の未来はそんなにえげつないのか…。朝っぱらからすごいスケールの話だ。

 

「死にたいって思って死んだら、人生最後に「死にたい」って望みを叶えながら死ねるでしょ? でも生きたいって思って死んだら、人生最後の望みはぜったい叶わないの」

 

 そりゃまたもっともなへりくつだな。自殺防止ポスターの「命を大切に」だなんてスローガン、わららにとっては変な宗教ぐらいにしか思えないんだろう。

 

「でももし、ゲームの中の主人公であるすずきを殺しちゃったら、プレイヤーはゲーム機をぶち消しするでしょ? そしたらこのゲームの何もかもがリセットされて、いっちばん最初、つまりすずきが中1になった日からやり直すことになっちゃうの。だから、あたしはすずきを殺しちゃだめなのよ」

 

 うーん…分かったような分からないような。とりあえずわららは、俺ではなく「ミヤベ」を殺しに来たんだな。

 

 わららが突然立ち止まる。分かれ道になっている場所だ。いつも左側の大きい道路を通るのだが、わららがぴんっと指差したのは、右側の静かな小道だった。

 

「ね、この細っい道から学校行ける?」

 

「うーん、たぶん…」

 

 俺は通ったことないが、たまにその道を通って登下校する人は見かけることはある。

 

「じゃあ行ってみる! 冒険するの☆」

 

 三つ編みをふらんっと回して振り返ったわららの目は、文字通り、きらきらしていた。

 

「よーし、迷子になったら遅刻だっ」

 

 そう宣言するとわららは駆け出すように、家と家の間に吸い込まれていく。――彼女は日常生活のあらゆるものをゲームにしてしまうんだな。

 

 

 

 

 

 今日は体育もなく、ほとんど教室の中にいるので、学校にいる間は死の危険にさらされる心配もないだろうと…油断していた。4時間目の終わりを告げる至福のチャイムが鳴り、これを食うために午前中授業を受けたと言っても過言ではない例のブツをかばんから出し、宝箱でも開けるように袋の結び目をほどくと、ふわっとしたクローバー模様の弁当箱が入っていた。

 

「お~!すずきの弁当かーわいっ」

 

 宮部がやたらテンション高く覗き込んでくる。この弁当箱は…誰のだ?

 

「すずきーっ」

 

 声のする方を見ると、教室の入り口にわららがひょっこり顔を覗かしていた。その手に持っているのは…俺の愛するいつもの弁当箱じゃないか。

 

「あたしね、そっちのお弁当がいいの」

 

 わららが指差したのは、机の上のクローバー柄の弁当箱。…なるほど、朝カバンに入れるとき入れ替わっていたのか。

 

「ごめん、逆になってたのかな」

 

 俺が少し慌ててわららの弁当箱をドアの方に持っていくと、わららは俺の目を見て、いひっと口角を上げた。

 

「すずき、玉子焼き一個あげる!」

 

「え、いいのか?」

 

 わららは俺の左手にわららが持って来た俺の弁当箱を持たせ、俺が右手に持っていたわらら弁当のふたをわららが左手で開け(ややこしーな)、にぎった箸を玉子焼きにフスっと刺し、そのまま俺の口元に突きつける。

 

 …どうすればいいこの状況? 15年間同じ家で育ってきた仲の設定なら、このままぱくっとかぶりついちゃってOKかもしれない。でも俺的に彼女は昨日知ったばかりの女子であって、しかもこんなクラス全員の視界に入る教室の入り口で、しかし俺の両手は二人分の弁当箱でふさがっていて、

 

「はいどーぞっ」

 

 お箸を俺の口の中に強引に突っ込む。なぜかひゅーひゅーぅと野郎ども数人の声が聞こえるが、俺はあまりに勢いよくつっ込まれた箸が喉に刺さるんじゃないかと、別の意味で心臓がどくんとしていた。

 

「あたしにもちょーだい!」

 

「ふぇ…?」

 

 一個あげて一個もらったら結局一緒じゃないかと思いつつ、俺がわららのくれた玉子焼きを味わいながら、右手に持っていたわららの弁当箱をわららに渡し、左手に持った俺の弁当のふたをわららに渡すことで空いた右手で開け(ややこしーな)、箸でやわらかい玉子焼きをはさむ。そのままコレをどこに運ぶべきか迷っていると、わららは突然魚のように、黄色いふわふわのエサにぱくっと食いついてきた。

 

「む~ぅ、もいひーねえ♪」

 

 おいしそうに頬張りながら、小っちゃい子みたいにほほ笑むわららを眺めているうちに、俺は全く危機感を失っていた。ほっぺいっぱい動かして、もぐもぐごっくんしたわららの小さな口は、去り際に俺の耳元で笑うようにささやいた。

 

「あたしのお口にはね、睡眠薬が入ってるの」

 

 

 

 

 

「お前らなー、何か双子ってゆうよりか、新婚ホヤホヤ感が漂ってんだよなー」

 

 そりゃ俺にすれば実際昨日家族になったばっかだもんな。てか、相手の口に触れた箸の睡眠薬を気にする夫婦がどこにいんだよ。

 

「なあ宮部、睡眠薬ってさ…飲んだらどうなんの?」

 

「知らーん。眠くなるんじゃね?」

 

 じゃあ俺飲んでも飲まなくても変わんねーじゃねーか。

 

「いや、何か自殺に使ったりするって聞いたことあるから…」

 

 そこまで呟いて、止めにした。何か心配されそうな気がしたからだ。そうだな、別に何錠も大量に飲んだわけでもない。それに今朝言ってたように、わららはこのユメトム内で俺を殺してはいけないんだ。大丈夫、少なくとも死にはしない。ただ今日の昼休みから6時間目までにかけての睡魔は、わららが口いっぱいにぱくついた箸のせいにしよう。

 

 

 

 

 

 家に着くと、玄関の鍵が開いていた。一瞬どきっと胸が鳴ったが、わららも同居人だったことを思い出した。

 

「ただいまー」

 

 廊下に返事が返って来ない。玄関には俺より一回り小さい白運動靴が、確かにころんと二つ脱ぎ散らかしてある。

 

「ただいま…」

 

 もう一度言ってみるが、反応がない。が、何か2階のほうから声が聞こえる。階段を上って近づくと、わららが誰かと喋っているのが分かった。

 

「うん、そーなの☆ でしょ~? だねー、ふう♪」

 

 わららは耳元に手を当てて、誰かに電話しているようだった。

 

「へへへ~ うん! すずきにかわるね」

 

 そう言ってわららは自分の耳に重ねて当てていた両手を…手だけを俺に差し出した。

 

「あれ、受話器は…?」

 

「滴ちゃんから!」

 

 滴ちゃん、というのは、確か昨日話していた「上司」のことだったっけ。わららは俺の背中側に回りこみ、後ろから両手を回した。また首でも絞められるのかと警戒したら、わららは俺の口元と耳に、それぞれ左と右の手をかざした。

 

 わららのふっくり小さな手の温度がわずかな空気の層を伝わって、俺の耳と口元をそわそわ温める。電話ごっこでもするつもりなんだろうか…?

 

「もしもし、すずくん?」

 

 突然わららの手の中から女の人の声が聞こえた。びっくりしてわららを振り返る。

 

「あたしのお手々はケータイなの☆」

 

 そんなサイボーグかアンドロイドみたいな発言されても…。金属とも電子とも縁のないやわらかそうな丸い手の中で、俺はあんまり息を吹きかけないようにそっと口を動かしてみた。

 

「えっと、もしもし…」

 

「はじめまして、わらちゃんの同業者の者です♪」

 

「ああ、はじめまして…」

 

 確かに通じている。すげえ…わららは一体、本当に、何者なんだ?

 

「すずくん、あたしのこと知ってる?」

 

 滴さんは俺のことをすずくんと呼ぶようだ。

 

「はい、ちょっと。あのー指名手配犯の整形をして自殺に追い込んだって」

 

「ふふふ、そんなイタズラもしたっけな」

 

 滴さんが笑っている表情が電話越しに伝わる。ウイルスってみんなこんな笑い方をするんだろうか。

 

「何なら電話越しにすずくんを自殺に追い込んであげよっか?」

 

「え…、」

 

 受話器から呪いの歌でも流れ出すのかと思って、俺はわららの温かい手から耳を遠ざけた。

 

「冗談よ♪ いくらあたしでも、わらちゃんの獲物を横取りしたりしないわ」

 

 そうか、俺は今わららの獲物だったんだな…。

 

「わらちゃん、みんな暴露しちゃったみたいね。自分の正体も、この世界の正体も」

 

「あー…そうですね」

 

「ふふっ。そんなことする子初めてよ。とーもくんに怒られちゃう」

 

「とーもくん、って?」

 

「あたしたちの頭目よ。頭目ってのは、「ボス」って意味ね。つまり我らがボス、頭目のとーもくんってわけ☆」

 

 そんなだじゃれみたいなボスでいいのか…?

 

「ウイルスを使って次々とユメトム内に侵入し、その人間を自殺に追い込んで、そいつのコンピューターを乗っ取るのが目的ね。――ふふ、すずくんにとっては、トンデモ設定じゃないの?」

 

「うーん…、まあそうゆう設定には慣れてるっていうか」

 

 山積みのゲームのカセットをちらっと眺める。

 

「すずくんにとってわらちゃんは、完全にワルモノよ♪ ちょっとは疑ってみてあげない?」

 

「疑う…」

 

 そう呟いたきり、電話は沈黙が続いた。今俺の背中にぴったり立っているわららに、この会話は聞こえているんだろうか?

 

 それから数十秒くらい経って、右耳からまたふわりとした笑い声が戻る。

 

「ふふふ、あたし悩める中3の少年とか、どストライクだから♪」

 

 そんなセリフをいたずらっぽく残して、滴さんは電話を切ったようだった。わららが俺の顔から手を外す。

 

「すげえ…ほんとに電話つながるんだな」

 

「へへーん、すげえでしょ? ほかにも身体のあっちこっちに、い~っぱいいろんな機能があるの☆」

 

 そう言ってわららはファッションショーのようにくるりと一回転する。なんだか武器やらピストルやらも機能も仕込まれている気がするが、あんまり考えないようにした。

 

 

 

 

 

 昨日と同じように母ちゃんが帰ってきて、昨日と同じようにご飯を食べ(今日はとりなんばうどん)、昨日と同じようにわららが風呂に行き、昨日と同じように俺も風呂に入る。修学旅行の二日目の夜みたいに、特別だったことが少しずつ慣れていく。こうやってわらら一人増えた家の中が、当たり前になるんだろうな。

 

 疑ってみたら? …確かに、そうだよな。ウイルスに、ゲームに、コンピューターに、こんな非現実的な設定フツ―におかしいじゃないか。どうして今まで疑ったりしなかったんだろう。

 

 もしかしたらわららがこの世界に侵入したと言った一昨日の午後0時から、学校中を巻き込んだ壮大なドッキリが始まっていたのかもしれない。どっかの番組で「中学生にこんなドッキリをしかけたらどんな反応をするのか!?」的なコーナーがあって、俺の身の回りには監視カメラがたくさん付いていたり…なわけないか。

 

 じゃあこんなのはどうだろうか。もともと俺とわららは双子の兄弟だった。でも今日の昼12時の瞬間、どっかに頭をぶつけるなりなんなりして、わららに関する記憶が全部ふっとんだ。それに気付いたわららが、あたしウイルスなのー♪とか名乗っていたずらしている…とかな。

 

 いや、でも昼の12時だったら、ひたすら4時間目の終わりのチャイムを待ち、弁当までのカウントダウンを始めた頃だ。頭をぶつけるとしたら黒板にくっついてるジャンボ定規の磁力が急激に弱まり俺の頭上に倒れかけてくることくらいしか思い浮かばない(このシチュエーションもどうかと思うが)

 

 どれもたぶん有り得ない。でも、どれももしかしたら有り得る。どれが本当なんだろうか? どれが本当であってほしい? どれが本当であっても――それが本当に本当かどうか、俺にはきっと分かりっこない。誰が嘘を付いているのか、誰の記憶がおかしいのか、誰の常識が偽物なのか…。

 

 

 

 

 

「すずき、ベッド交代しよ! 今日はあたしが下なの」

 

「あー、そうだったな」

 

 人生初の2段ベッドの上…少しわくっとしながら、木のはしごに足をかけた。のぼりきった布団の上にふわっと乗ると、見下ろす部屋の景色が新鮮に見える。

 

「これなにー?」

 

 下からわららの声が聞こえて、柵から乗り出して見下ろす。小っちゃい子みたいな手が指差したのは、俺がさっき外したコンタクトだった。

 

「これ、コンタクト。視力上げるやつ」

 

 ゲームは一日30分、律儀に計ったキッチンタイマーを使わなくなったのは何年生の頃からだろう。隠れ家のようにかぶった布団の中で、目をこすってまぶしい画面を操作しているうちに、学校の視検査を当てずっぽうで答えることしかできなくなっていた。(わかりません、と言うのが気に食わなかったんだろう…)

 

 メガネは目と目の間に近づけたとき生まれるあのぬじぬじ感が苦手で、ちょっと怖いけどコンタクトがいいーと選んだのを覚えている。――まあそんなプチ歴史なんてどーでもいいんだ。わららの口からはまた得体の知れないカタカナが飛び出していた。

 

「それつけれるんだったらさ、21世紀ってアイズホンもあるの?」

 

「…アイズホン、って?」

 

「目にくっ付けるやつ☆ このコンタクトみたいな形にコード繋いでて、目に入れたら機械の中の映像が見れるの」

 

 コンタクトにコード…何かすげえ未来的なアイテムだな。

 

「えーっとねー、イヤホンの目バージョンみたいな感じ!」

 

 なるほど、わららの説明で大体のイメージが分かった。何かのふろくでゲットした自分のイヤホンは、音楽、というか、ほとんどゲームのBGM聞くためだけに使っている。(イヤホン通すと低い音が聞こてさらにテンションが上がるからなー)スピーカーで聞く代わりにイヤホンを使うようなノリで、画面を見る代わりにそのアイズホンとやらを使うってわけか。

 

「目がふたつあったら、立体的に見えるでしょ。だからアイホンじゃなくてアイズホンなのよ」

 

 わららが得意げに解説する。28世紀の雑学はとんでもないことになってるな。

 

「すずきが今見ている景色は、みんなミヤベちゃんのお目々に差し込んだアイズホンから流れる映像ってこと。まだ生の眼球を使って世界を感じていた、遠い昔、21世紀の幻なの♪」

 

 つまり俺がコンタクトを外しても、ミヤベさんはまだコンタクトとイヤホンの合体もどきをつけている。うぅ~、意識しすぎると自然に目を閉じることも出来なくなりそうだ…。今は強引にでもまぶたをくっつけようとする、睡魔の力に感謝しよう。

 

 

 

 

 

次の日、わららは学校に行く道で、またアンドロイド的サイボーグ的機能を披露してくれた。

 

「あのね、あたしの名前考えたのはね、とーもくんなのよ♪」

 

 とーもくんって、確か…我らがボス、頭目のとーもくんか。

 

「ね、ね、何か紙あるー?」

 

「紙?」

 

 俺は歩きながらカバンのチャックを開け、とりあえず一番上に乗ってた理科のノートを引っ張り出した。

 

「これで大丈夫かな」

 

 ノートを渡すやいなや、わららはその表紙を額にぴとっと貼り付けた。それに合わせてわららの黒目もぴとっと上を向く。

 

「あたしのおでこは、プリンターなの☆」

 

 はたから見れば何やってんだと思われそうなポーズのまま、わららは自慢げに紹介した。そのまま数十秒立ったところで、そ~っと額からノートを離すと…

 

「じゃじゃーんっ、これがとーもくんが書いたお手紙!」

 

 薄緑色のノートの表紙に、小さくうねうねと曲がった線が、影のように浮き出ていた。

 

「…これ、何語?」

 

「えいご! ほら、ユーアーわららって」

 

 YOU ARE…確かにそう見えなくもないが、このぐにゃぐにゃの線は何だ? Wにも、INにも見える。筆記体なんて全然知らないのにかっこつけて何となくを繋げて書いてみた、的なノリなんだろうか。

 

「「YOU ARE WA 2xra」って書いてるのよ。「2xra」が「2×ら」で、「らら」って読むの。すごいでしょ~☆」

 

 そんななぞなぞみたいなメッセージを送るなんて、とーもくんもなかなかお茶目な方だな。俺の名字みたいな名前にも、そんな遊び心のある由来があるんだろうか。(今度母ちゃんに聞いてみよう)

 

 そうこうしているうちに、昨日わららが「冒険」しに行った細い道に来た。

 

「昨日は迷子ならなかったのか?」

 

「…リベンジなのっ」

 

 遅刻したんだな。

 

 

 

 

 

今日は2時間目が体育だったが、わららに会わなかったので平穏だった。他のチーム同士が試合している間、楽しそうにボールを投げまくる宮部を眺めながら、俺は和渕と語り合っていた。

 

「今センギスやってんだけどさ。中古で買った」

 

「ふーん、僕まだやってないな。面白い?」

 

「うん、最初ホトトギスは鳴かねーんだけど、あ、そんでホトトギスはとホホさんってあだ名な。それで弓とか刀とかでばったばったやっちゃったら「鳴かぬなら殺してしまえ」をゲットできるし、もちろん「鳴かせて見せよ」も「鳴くまで待とう」も入ってんだよ。でもそれ以外にプレイヤーの天下取りぶりによって、とホホさんが言う五七五が何通りもあってな。これ先週やり始めたとこだから、まだ18種類ぐらいしかクリアしてねーんだけ」

 

「また貸してもらっていいかな」

 

「うん、いいよ」

 

 小学校のときから何本ものカセットを貸しまくり借りまくりするうちに、もはやどのカセットが誰のものだか分からなくなってきている。(和渕と俺の共通財産だ)

 

「僕はねー、何か知らないアニメのゲームしてるよ」

 

「アニメ知らないのに買ったの?」

 

「うん、設定が何となく魅力的だったから。学園モノって感じかな? 主人公とか周りの人は、たぶん元のアニメのまんまなんだけど、プレイヤーはその学校の世界に転校生として参加する…みたいな」

 

「ふ~ん。そのアニメ見たりした?」

 

「ううん、だってゲームの方が面白いじゃん、自分で画面の中を操れるんだから」

 

「だよなぁ…。でもそのゲームを操る俺が、さらに誰かに操られているのかもしんねーよ」

 

「はは、そーだね。僕らが動かしてる画面の中のキャラ達だって、自分では自分の意思で動いてるつもりなのかも」

 

 最近は一瞬先も未知なわららと一緒にいすぎたせいか、見慣れた和渕とはすらすら受け答えできるのが面白かった。

 

 

 

 

 

 今日は弁当も、ちゃんと自分のが入っていた。5時間目の理科の用意を枕用に積み上げ、俺はせっせと昼寝のスタンバイをする。今月の席替えは窓際をゲットできたから、ときどき顔をなぐってくるカーテンが。

 

 薄緑色の理科ノートには、今朝のうねうねした暗号が怪しく浮き上がっている。何も表紙に印刷することなかったんじゃないか…? 「YOU ARE WA 2xra」…、「YOU ARE WA 2xra」…、「YOU ARE WA 2xra」…、――これ最後の「2xra」のとこ、もしかしてここだけカタカナで「ユメトム」って書いてんじゃないか?(何年経っても「Wednesday」が覚えられない宮部が、こないだ解答欄にカタカナで「スィヨ~ビ」と書いていたのを思い出す)そしたらこれは、「YOU ARE IN A ユメトム」、あなたはユメトムの中にいる。…もしこれが本当に「ユメトム」と読むのだったら、わららはこれを自分の名前だと信じ込んでしまっているだけということになる。それか反対に、俺が今信じ込んでいるだけであって、「2×ra」が「ユメトム」に見えているのかもしれない。どっちにしろ、ここにうねうね書かれている暗号の形は変わらないが――

 

「…あー、何だ」

 

声に出して呟いてみる。運動場で走り回る遠い歓声に、上書きされるくらい小さな声で。疑ってみたら? …そうだな、わららの言うとおり、俺のしょぼい脳みそを疑ってみるよ。ウイルスが侵入し、何度も殺されかけ、体中がケータイやらプリンターやらになっていようが…。

 

それがどうしたんだろうか、何も変わらないじゃないか。ここがゲームの中の世界だろうが、リアルの世界だろうが、俺が見ている景色は変わらない。

 

 目の前にわららが現れてから、俺の脳内は何回「かもしれない」をくり返しただろう。俺がもし本当にドッキリ用の隠しカメラを発見したところで、そのカメラ自体が「アイズホン」とやらの流している幻かもしれない。もしジャンボ定規によって記憶喪失していたとしても、そもそも俺の脳みそはウイルスに侵入されているかもしれないのだ。

 

 「そんなわけねーだろ」って思ったところで、そう判断しているのは一体何だ? 完全に正常で全く狂いが無いと保証できる脳みそなのか、ウイルスのいたずらによって記憶も感情もくるくるぱーな脳みそなのか、所詮俺には何一つわからない。

 

 ひるがえるカーテンがやたらと見せたがる雲は、もしかしたら空に描かれた絵だったりするし、机に腰掛けて何かしゃべっている女子たちは、実は放課後なんちゃらレンジャーに変身しているかもしれない。頭も目も耳も何もかも疑っちゃえば、何だって、何だってあり得る。

 

 正答率30%の超ふっく雑な公式使いまくり問題を、グラフぱっと見いだけで解けた優越感だった。それから「もしかしたら」、俺の名前の由来は「涼しい気持ち」の略かもしれない、なーんて適当なことを思った。

 

 

 

 

 

 玄関のドアを引っ張ると、鍵がかかっていた。わららより先に家に着いたのかなと思ってカバンのポケットを探っていると、家の中からとたとた駆け足の足音が近づいてくる。

 

「あいことばはっ?」

 

 新設ひみつ基地に友達を招待するときみたいな弾んだ声で聞いてきた。

 

「あいことば…、やま?」

 

 適当に答えると、向こうでひひんと声が漏れる。ドア越しでも、わららの表情が浮かんでくる。

 

「山? じゃあねー、うーんとねー、森!」

 

 その場で考えてる時点でもう合言葉じゃないんだけどな。山、森、山もり…?

 

「んーと、わら」

 

 ちょっとした期待を込めて、ドアに向かってそう返してみた。

 

「ふふーぅ♪ び、も、」

 

 面白いほど期待通りのひらがなが聞こえてきて、俺の口角は一人で勝手に上がる。

 

「ち」

 

「ぴんぽんぴんぽーん☆」

 

 がちゃっと古い鍵を回して、わららがドアを壊すくらい勢いよく開ける。向こう側に俺がいることなんかおかまいなしだ。

 

「冷蔵庫にね、わらびもち入ってたの! すぅぅぅぅ~っげーぶるるんなのよ♪」

 

「おおーいいな、おいしかった?」

 

「むゅふふ~、最っ強においしそうだった☆」

 

 おいし…そう? わららはわらびもちの頬をふわっと広げる。

 

「一緒に食べよっ」

 

 殺人ウイルスも、おやつの一人占めはしないんだな。

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