寄生編!

 

「うっ」

 

 突然右足の指がじんっと痛む。まだ靴下を履いていない小指と薬指が、ドアの角にひっかかって打たれていた。

 

「…」

 

 ったあぁぁぁ~とか言いながら大げさにしゃがみ込みかけて、でも、もうそんなことしても意味なかったなと気付く。そんなことがいつの間にか習慣になっていた自分がおかしかった。

 

「あらあら、痛かったわね」

 

 はっと肩に息がかかり、振り向くとわらら声の滴さんが見上げている。

 

「やっぱり朝からおうちに慣れないお姉さんがいると緊張する?」

 

 滴さんはわららの三つ編みをさらりと指にかけて微笑んだ。見た目も声も慣れている。だから、余計にその微笑みが慣れない。何だか見つめたらだめなような気がして、俺はいやーと笑いながら自分の指を見下ろした。

 

「ふふっ」

 

 せっかく視界から外した滴さんが、ふわっと制服スカートをたたんで俺の足元にしゃがんでくる。狭い床の上に三つ編みが垂れ、まだじんじん鳴ってる指先が、覆い被さる後頭部に隠れた。

 

「や、な何するんすか」

 

「痛いの痛いの飛んでいけ~じゃない」

 

 滴さんの鼻?あご?額?なんか分からないけどなにかが指に触れて、痛みがすっと、ほどけるようにひいていく。

 

「そんな機能あるんですか」

 

「そりゃあねえ、鉛筆があったら消しゴムもないと、真っ黒になっちゃうでしょ?」

 

 「真っ黒」が何を意味するのか…。

 

「書いては消し、書いては消し、少しずつ苦しみを染みこませていく。希望と絶望を繰り返して、疲れきったプレイヤーは安楽死を選ぶのよ」

 

 なるほど、とか思ってしまう。さすがウイルスのプロだ。

 

「じゃあ俺も、治ったらまた痛くされるんですか」

 

「まさかーあ♪ あたしはすずくんを苦しめたりしないわ」

 

 滴さんは顔をあげてにっこり微笑んだ。指の痛みはすっかり消えてしまった。

 

 

 

 

 

「あー」

 

 四方八方振り向きながら、俺はうっすらそんな声を発している。何だか隣に歩いているのが滴さんだと思うと、危機感と違和感と罪悪感がまじって落ち着かない。

 

「すずくんあやしいわよ」

 

「滴さんこそ、怪しまれませんか」

 

「だいじょーぶっ! ぜ~んぜんあやしまれないよ☆」

 

 びびった…突然わららになる。

 

「あのね、あたしがこのユメトムに入ってからの記憶は、ぜーんぶ頭の中に保存されてるの。だから滴ちゃんが入っても、昨日までと同じよ~うに過ごせるのよ」

 

「あ、じゃあ初めて学校行っても困らないんです…困らねんだな」

 

「いやん何それ途中で敬語外すの、きゅんとくるじゃない~」

 

 戻った。

 

「ま、わらちゃんとすずくんのあんなことやこんなこともばっちりデータ化してるから、もう隠そうとしても無駄よ」

 

 どんなことやどんなことですか。別に隠すようなことなんて…あったかな。

 

 滴さんはまたふふうと笑い、わららのような仕草になる。その度にいちいち胸の底がとくっと打って、坂を登っているせいかもしれないけど、やたら体力を消耗する。

 

「どんな風に殺されるの?」

 

 言おうか言わないかうじうじ迷った末、俺はわららに聞いていた。

 

「なんでそんなこと聞くのー」

 

「…とめたい」

 

 言わなくてもどうせ見透かされるから、正直に言う。

 

「いやん格好いいわねすずくん♪」

 

「戻ってますよ滴さん」

 

「いいじゃない、どーせ誰も聞いてないわ」

 

 こういうときに限って背後から宮部が現れるもんなんですよ。

 

「うーんそんなに簡単じゃないのよね、一旦わらちゃんをこの体に戻さなきゃだめだから。それからすぐに睡眠薬してもらって…まあその後は知ってるでしょ?」

 

 わららの声がふっと笑う。カーテン越しの光に縁取られ、かくりと折れたわららの白いひざが浮かぶ。あのときの苦しさも、痛さも、全部わららの体に記録されている。今の滴さんにも、データを通して思い起こせる。

 

「もし中身が滴さんのまま、和渕が睡眠薬したらどうなるんですか」

 

「あら、あたしを殺す気?」

 

 滴さんの言葉がぐっと怖さを引き寄せる。

 

「そしたらわらちゃんの本体は助かるわ。このユメトムの外で生き続け、また違う子のユメトムに侵入することもできる。なんならすずくんが今すぐナイフであたしを刺したって、わらちゃんの生存は保障されるわよ」

 

 わららの制服はやわらかくしわを寄せ、お腹のところで吊りスカートに収まっている。刺すならたぶんここなんだろうけど、血に染めてしまうにはあまりにもおしい気がする。

 

「あ、じゃあ和渕くんを殺そっかなーって考えた?」

 

「えっ」

 

「ふふ、それはないか」

 

「いや…あと一瞬考えてたら考えてたかも」

 

「ほんとー? 最近のゲームっ子は怖いわあ」

 

「28世紀からしたら昔じゃないですか」

 

 そうねえと笑うわららの声を右耳に浴びながら、俺も無理やりのように力なく笑う。滴さんは俺を苦しめないって言ったけど、今きっと散々に苦しめられている。殺人鬼になりそうな弱っちい自分が、重いかばんを腰に乗せ、コンクリートの坂をせっせと登っていった。

 

 

 

 

 

 まさか和渕が授業中に突然立ち上がって睡眠薬入れたりはしないだろうと思って、何とか1組の教室で授業を受けている。背中側でだだだだっと激しく黒板が鳴っているから、2組はたぶん理科だろう(原子のつぶつぶを高速で表現するのが先生の得意技だ)。隣の教室から絶え間なく聞こえてくるやたらでかい声に、半ば安心しながら長い1時間目が終わる。

 

 チャイムが鳴ってから1分くらいはその場にいれたけど、1分を回ると席を立って廊下に出ていた。休み時間の教室で睡眠薬入れたりはしないだろうと思うけど、もしかしたらどっかに滴さんを連れ出してしまうかもしれない。…とにかくどこにも落ち着いていられなくて、俺は2組の教室前の、廊下の窓にもたれかかっていた。

 

 後ろのドアは閉まっていて、この位置からだと教室の中は見えない。かと言って、前の入り口に立っていても怪しすぎる。トイレに行く人が数人集って通りすがり、だんだん時計が確認できないのが不安になってきた頃、突然目の前の教室の窓ががらっと開いた。

 

「そんなに見張ってなくても大丈夫だよ」

 

「…別に見張ってない」

 

 何だか急にはずかしくなってくる。窓枠に手をかけたまま、和渕が面白そうに笑った。

 

「いや、まさかほんとに見張ってるとは思わなかった」

 

「見張ってない」

 

 訂正したくてずんずん窓際に近寄ると、和渕の頭が教室一段分上にある。高いとこから見下ろしやがって。

 

「安心して、今日は手出さないから。本体を消すのはゲーム終了直前だし」

 

 ほんとに?って言いかけて、俺はもう和渕を疑っていることに気付いた。落ち着いて思い出せば分かる。和渕の嘘はたいていついた瞬間バレる。10年間ゲームの電波を交わした仲だ。

 

「わかった」

 

 わららが消されるのは明日、俺の命日と同じ。…と、とりあえず返事をしても、黙っていると心は収まらない。

 

「頼んでも無理?」

 

「無理だね」

 

「何か可能性ある?」

 

「無いよ」

 

 お互い軽く笑いながら話すけど、俺の期待ばっかりが、一方的に潰れていくのが分かる。

 

「滴さんもわららも厳密に言えばもうウイルスじゃない。だから形式上は、わららが死刑を逃れるためこのユメトムに亡命してるって形になる。その辺を取り締まるのも仕事の一つなんだ。…まあそんなことすずきには関係ないんだろうけど」

 

 和渕が笑う。笑いかけるんじゃなくて、勝手に笑っていた。

 

「僕としては、駆除のチャンスがもう一回出来て嬉しいんだよ」

 

 教室の壁一枚挟んで、和渕の声は慣れない高さから降ってくる。

 

「それを主人公と共有したくて、僕はすずきの友達として潜入したのに。すずきったらウイルスにぞっこんだから」

 

「別にぞっこんじゃない」

 

「ぞっこんだろ、見張りにくるくらいだから」

 

「見張ってない」

 

 和渕は異様に楽しそうだった。だから余計、その楽しげな渦の中で、知らないうちにわららが消えるような予感がした。もうすぐチャイム鳴るからと、和渕は元通りがらっと曇り戸を閉める。それでも和渕が教室に帰っていくのが怖い。怖くてここに立ったままでいる自分がはずかしい。この気持ちのまま残りの人生、あと2日間を過ごしていくのかと思うと、誰もいなくなった廊下でくらくらしそうだった。

 

 

 

 

 

 それからはずっと、教室の中にいた。休み時間も昼休みも、移動教室も今日は一個もなかった。明後日提出の宿題なんてもうしなくてもいいのに、10分休みにせっせとそれを解いていた。掃除も休みで用事も無くてまっすぐ帰ると、家の鍵はもう開いていた。

 

「ただいま…」

 

 ゆっくりドアを開ける。返事が無い。わららの靴はある。俺は玄関にかばんを落として、たたっと階段を上がる。

 

 部屋の隅っこに、わららは俯いていた。制服のスカートをひろげたまま、人形のように両足を出して座り、首を向こう斜めに傾けている。ゆっくりそばに寄ると、覗き込んだその表情は、やからかいまつ毛を伏せて寝息をたてていた。中身は滴さんって分かっているのに、それでも吊りスカートのお腹がやわらかく上下するのを見るとほっとしてしまう。

 

 しばらく白い制服のお腹を見ていると、わららの右手が振動していることに気付く。もしかしたらこの電話が滴さんからで、ここにいるのはもうわららなんじゃないかと思ってしまった。それくらいここで眠っている姿は、後ろめたさを感じるほど懐かしかった。

 

「もしもし。わららさんですか」

 

「あ、すいません俺です」

 

 おててケータイの声は、狐さんからだった。

 

「それなら丁度いいです。先日ご注文を承りました、ゲームカセット「戦国ホトトギス4の巻~下剋上の五・七・五~」の件なのですが」

 

 すごい、めっちゃ覚えてくれてる。

 

「注文ルートの都合上、そちらの世界までお届けするのに、少なくとも二日はかかってしまうのです」

 

 …なるほど、届いた頃にはお届け先が消えているのか。

 

「お役に立てなくて申し訳ございません」

 

「いやいや、ぜんぜん、わざわざありがとうございます」

 

 だめだ、狐さんみたいな人にゲームねだるのは申し訳ない。ねだるならテンション高いときの母ちゃんか、サンタさんだ。

 

「何か他にお力になれることはございませんか」

 

「あ…」

 

 閉じられたわららのまぶたに視線がいく。俺が黙っていると、片耳が塞がっていても、その寝息がすうと大きく聞こえてくる。――受話器の向こうの狐さんに、何が遠隔操作できるわけでもない。ウイルス同士で殺しあうなんて事例に、インストールされた知識が対処できるかは分からない。でも――

 

「彼を殺してしまってから、私の生きる目的はなくなってしまいました」

 

 狐さんの言葉が、耳元で繰り返す寝息をさえぎった。

 

「恋人が死んでしまってから、いつだって彼のことを考えていた。恋人の代わりに彼を思っていた。そして彼が死んでしまったら、今度は彼を殺してくれた人にばかり電話をしているのです」

 

 全く変わらない音質のまま、まるで恋心を打ち明けるかのように耳元で話される。 

 

「じゃあ俺が死んじゃったら、わららのことばっかり考えるんですか」

 

「わかりません。とにかく今は、もう彼を殺してくれた人への恩返しが、唯一の生きる目的となっているのです」

 

「じゃあさ、狐ちゃん」

 

 耳元の声にびくっとする。急にわららの口が開いていた。

 

「助けて欲しいの」

 

「どうされたんですか」

 

「あたしとーもくんを殺しちゃったからね、罰として滴ちゃんに殺されちゃうの」

 

 寝起きのやわらかい声色が、ふっと表情を変える。

 

「あなたがわらちゃんにとーもくんを殺させたからね、あたしが今わらちゃんを殺そうとしてるの」

 

「…あなたは、滴さんですか」

 

「そうよ」

 

 わららの声で短く答える口元は、笑っているようで笑っていない。いつもそれぞれ電話口の向こうにいる二人が、異様に同じ電波で繋がっていた。

 

「それなら少し、お話かまいませんか」

 

「どうぞ」

 

 また同じリズムで短く答え、滴さんは自分の右手にそっと耳をかたむけていた。

 

 長い空白が流れる。自分の恋人を殺した本人が、今自分の流している空白を聞いている。自分の上司を殺した本人が、自分に対して告げる言葉を待っている。それぞれがそれぞれの大事な人を殺し合い、それぞれが相手とは別の人に復讐を果たしている。頭の中の秒針がそろそろ一周する、受話器はそっと言葉を告げた。

 

「いえ、特にありません」

 

「そう」

 

 滴さんが笑う。顔はわららだけど、明らかに滴さんの表情だった。

 

「あたしもあなたに言いたいことがあったのよ、でも忘れちゃったわ」

 

「そうですか」

 

「お互い様ね」

 

 滴さんがまたわららの頬をゆるめる。

 

「ふふっ、すずくんに代わる?」

 

「いえ、結構です」

 

「そ」

 

 滴さんは一文字だけ告げて、そのままぱっと耳から右手を離した。そっか、こっちからおててケータイ切るときはそうやってすればいいのか、なんて俺は今さら納得していた。

 

 

 

 

 

 母ちゃんが帰ってくると、滴さんは完全にわららになった。いただきまーすって言うときも、いってきまーす(※風呂)って言うときも、もしかしたら本当にわららを戻してくれたんじゃないかと、思い当たるたびに胸の辺りがとくっと血を入れ替える。もし、もしもだけど、さっき狐さんと電話したときに滴さんの気分が変わっているかもしれない…なんて想像している自分をまたかき消して、それでもまた期待して、

 

「あのさ、」

 

 風呂上りのわららに話しかけてしまっていた。

 

「なに?」

 

「今、えっと…まだ、滴さんのままですか」

 

 それを聞いた向こうの表情を見て、少し首を傾げていて、それでもまだ希望がゆらいで、

 

「そんなこと期待してたの?」

 

 滴さんに微笑まれてしまっていた。

 

「あたしが心入れ替えて、わらちゃんを返してくれたと思った?」

 

 縦にも横にも首をふれなくて、俺は力なく笑ってみせた。滴さんの言葉は迷いなく、俺の下手な期待をつぶしにかかる。

 

「心入れ替えたり、するんですか」

 

「さあ」

 

 滴さんはわららの声を使って楽しそうに笑う。

 

「すずくんがあたしの心を射止めてくれるなら、結果は変わるかもしれないわ」

 

 …そんな冗談でさえ、頭の選択肢に加えられ、せかせかと射止める文句を考えてしまっている。ひらひら三つ編みぐせのついた髪が、少し湿り気を含んで両肩のタオルに乗っている。一番上までボタンをとめても首元の涼しげなパジャマは、たくさんの小さな音符マークに包まれている。もうこの体の中にわららはいない。どんな服を着ても、どんな髪になっても、どんなにそっくりに笑っても――

 

「あきらめた方がいいわよ」

 

 滴さんは笑っていた。

 

「これが人間の運命なのよ。自分で夜空を曇らせといて、プラネタリウムを作るの。ホンモノがいなくなって、代用品で楽しむ。上手に楽しまなきゃ」

 

 ふふっと頬を和らげて、滴さんはその場でターンする。ほどけた髪の束が軽やかに浮き、白いパジャマの裾がふくらみ、一回転してきた表情はどきっとするほど懐かしい。

 

「ね、すずき」

 

 騙されれば完璧なんだ。見た目も、声も、全く同じ。中身だって、滴さんの演技力にかかれば本物同然だ。あとは俺が騙されるだけ。

 

「…やま」

 

「もり!」

 

「わら」

 

「びーもっ」

 

「ち」

 

「ぴんぽんぴんぽーん!」

 

 わららはその頬いっぱいに、小さな口角を広げた。

 

 

 

 

 

 布団がなま暑い。布団をとってもまだ、なま暑さが顔から足までまとわりついてくる。寝れなくて、このまま寝ようとするけど、寝ようとするほど寝れないってことは分かっていた。

 

 一階に下りて冷蔵庫を開ける。喉も渇いていないのに、麦茶を出してコップにそそぐ。うーんと鳴る冷蔵庫の音と自分の喉の音を聞きながら、体の芯ばっかりが冷えていく。とりあえず飲みきってコップを置くと、時計の音がはっきり聞こえてきた。

 

 テレビの下の機械がぼんやりと、緑の11:56を光らしている。リズムよく点滅する「:」が、俺の寿命を削っている。たまたま1階に置きっぱなしだったゲーム機を見つけて、ぼんやりしたまま手探りで電源を入れていた。

 

 小4の冬にサンタさんからもらった、2つくらい古い種類。あの日はたまたまおばあちゃん家に泊まっていたのに、ちゃんとその辺の事情も分かって、わざわざ例年のルートから外れて、この慣れない枕元まで届けにきてくれた、すごいなあと思っていた。

 

 暗闇に四角い画面が、ぼうっとふちを滲ませながら光る。静けさに慣れた耳に、オープニング曲がじりじりと鼓膜を震わす。ときどき思いっきり目を悪くしたい衝動に駆られることがあった。何か気に食わないことがあったとき、明るさMAXの画面を痛いほど焼き付ければ、視界にフィルターが出来るような気がしていた。

 

 次にちらっと目をやると、まだ11:59だった。あと何回点滅を待ったら日付が変わるだろう。カウントダウンゲームでもしようかと見つめていると、5、6秒経った頃に音もなく0:00に変わった。

 

 命日がやってきた。緑の「:」は同じリズムで刻まれていく。画面をぱたりと閉じる。音も同時に止まる。ピンクのようなオレンジのような残像が、じわじわ闇に浮かび上がる。また時計の針が聞こえてくる。ぼんやりと、外の電気か月かに透けた、カーテンの輪郭が分かってくる。

 

 見極めなきゃ。わららの体から滴さんが抜けて、本物のわららが戻ってくるタイミング。睡眠薬を混ぜられる前に、わらら入りのわららを何とか引っ張り出す。そしたらもう無敵だ。わららは強い。そしたら家まで走って行こう。残り何時間かわからないけど、俺は上手に騙されることができないから。こんなにしつこく頭で育ってしまったこだわりを、もう逆走してでも果たしに行くしかない。

 

 だったら今日が勝負だ。

 

 

 

 

 

「おーっすすずき!」

 

 命日だろうがいつだろうが、現れるもん現れる。

 

「おっすー宮部」

 

 あまりにいつも通りなその姿が面白くて、俺は試しに言ってみることにした。

 

「実はな、今日でお前と会うのは最後なんだ」

 

「えっまさかすずき…実家に帰るのか?」

 

「え?」

 

 こっちが聞き返してしまう。なぜ実家。

 

「俺の実家は28世紀なんだ」

 

「ふー…うん」

 

「俺は7世紀先の人なんだ」

 

「ほー…おん」

 

「俺は未来人だ」

 

「えええええ!?」

 

 やっと反応してくれた。

 

「え、じゃあすずき、タイムマシン乗って帰っちまうのか?」

 

「あーたぶん」

 

 かなり適当に答えている。

 

「うわあ~俺も乗りたい」

 

「お前はもう死んでるよ」

 

「え」

 

 お前は犯罪を犯し、次々と人を殺し、最後には死刑判決を受ける…なんて告げるには似合わなすぎる。それはもう、別の人の話だ。

 

「だからまあ、今まで世話になりました」

 

「え、あ、そっか! もう会えねーのか」

 

 宮部が…子どもっぽい表情のまま固まってしまう。そしてその口やまゆ毛がしゅる~とへなっていく様子が、まともに見ると笑ってしまいそうだった。

 

「ああ…まじかよすずき…ええ」

 

 ありがとう宮部、こんなにも俺の未来人説を真に受けてくれるのはお前くらいだと思う。

 

「うう…あ、でもまたどーせ帰ってくるんだろ?」

 

「え、そーなのか」

 

 宮部の中で俺は今どんな設定になってるんだ。

 

「わかんねー。なんかそんな気がする!」

 

「そっか…、そうかもな」

 

 何の根拠も無いのに本当にそんな気がしてくるから、何だか笑けてしまった。

 

 

 

 

 

 見張りに行く。もう俺は執着することに決めている。何とでも言うがいい。…みたいなテンションで行ったはいいが、やっぱり前側のドアには近寄りがたく、結局昨日と同じ場所でだらだらたたずんでいた。今日はいきなり目の前の窓が開けられることも無く、和渕や滴さんに会うことも無く、4時間目まで計3回分の10分休みが過ぎていった。

 

 弁当の時間は長かった。チャイムが鳴ってすぐ廊下に出ると、一気に手洗い場に人口が集中する。やかん係りやパン係がせっせと同じ階段を下りていき、また上ってくる人とすれ違い、それぞれの教室へと消えていく。ウイルスは手についたウイルスを洗い流したりするのかなーなんて考えるとおかしくて、とりあえず俺は階段前の壁の角にもたれて、きゅっきゅと左右を見渡していた。

 

 再び廊下が俺一人になったころ、お昼の放送が流れ始めた。ちょうど廊下のスピーカーが見上げた先にあって、そこから聞いたことある曲やない曲ががんがん響いてくる。

 

 もし、どこかでわららを見逃していたら――そんな考えを打ち消したくて、俺は大音量のスピーカーをじっと見上げている。もし、教室の中からわららの笑う声が、ひとかけらでも廊下に届いてくれないかと、曲と曲の間にじっと耳を澄ます。

 

 結局そのままチャイムが鳴り、昼休みがやってきた。初めてわららに殺されかけた、午後1時2分の乱の昼休みだ。5時間目の体育に向けて、1組男子と2組女子が、それぞれ廊下に下りて教室を入れ替わる。

 

「あ」

 

 声に出すと同時に、なぜか腹がぐうぅぅぅ~と鳴っていた。たんっと教室の小さな段差をおりる三つ編み姿は、白い制服に白い体操服を抱えて、そのままくるっとスカートをふくらませて行ってしまう。――たったそれだけのことなのに、俺ははあーと息をついて、しゃがみこんでしまいそうな両ひざに両手を置いて耐えていた。今滴さん入りわららが入っていった教室に、俺の体操服も弁当箱もあった。きれいに男女に分けられた教室の前で、何だか急に何も食ってないことを実感して、俺はまた、廊下に一人で立っていた。

 

 

 

 

 

 それからの事態は急だった。

 

 とりあえずこんな扉の真ん前にいても、教室から出てきた和渕に鉢合わせた後、どうしようもなくなってしまう気がした。1,2組の教室は校舎の端っこにあるから、外に行くにも他の教室に行くにも絶対に階段前を通るようになっている。俺はいろいろ見渡した後、いつもの4F踊り場の少し上まで階段を駆け上がり、そこの手すりに少しひじを乗り出して、斜め下のフロアを見下ろしていることにした。

 

 その定位置について間もなく、先に着替え終わったのはわららの方だった。どうしよう、とりあえずわららを追うべきなのかな。それとも和渕が来るまで待ってそれから――なんて考えるひまもなく、わららは予想外の方向に歩いてきた。

 

 慌ててその場にひゅっとしゃがむ。しゃがんだ階段の床からと、左耳に当たる壁越しに、とんとんと軽やかに足音が近づいてくる。息を潜めたいときに限って、息が足りなくなるような気がする。あと少し、踊り場の角を曲がればバレてしまうという位置で、迫る音はたんっと最後の一足を響かせて止まった。

 

 どく、どく、胸の鳴る音が、足音のようにすぐ耳元まで迫ってくる。こんな中途半端な段にいないで上まで避難してしまおうかと思ったが、そこまで全く音を立てずにいける自信もないし、わららに睡眠薬が入れられそうになったとき、ここまで一瞬で戻って来ることもできないだろう。でも今滴さんのいる踊り場は、このままだと下の階から丸見えになってしまう。

 

 そうこう考えているうちに、いきなり二つ目の足音が近づいてくる。俺はぎりぎりの勘を働かせて、その足音と同じリズムで上の階まで登ってしまった。少しのことでもすごく体力を使う気がして、向こうから見えないという安心と、こっちから見えないという不安が、とくとく胸を鳴らし続けている。

 

 二人は一言も交わさない。いくらここで耳をそばだてても、わららの戻ってくるタイミングなんてわからない。「でも」なんて言ってる時間がない。俺は壁から片目だけを覗かせて、踊り場の隅に立つ体操服の後姿を確認した。わららの頭は和渕の後頭部に隠れ、この角度からだと、和渕の首の影に少しわららの頬が見える程度だ。それでも見極めなきゃいけない。見えなくても、画面に変化が無くても、タイミングよくボタンを押さなきゃだめなんだ。

 

 もう体が隠れることを忘れている。飛び出していくことだけを考えている。ぜったい分かる。和渕より先に気付く。階段十数段分の差はあっても引き剥がす。こんなの腕次第だ。どれだけわららを見てきたと思ってるんだ。ふっと息を吸う、たんっと下ろした一段目から、踊り場いっぱいに音が響き、それからはもうどうにでもなれって勢いで階段を駆け落ちていく。踊り場に転がり込み、小さな左手を見つけ出し、それをつかんで思いっきり引っ張る。小さな腕だけど大丈夫だ、俺よりわららの方がぜったい強い。初めて首を絞められたときと同じ、白くやわらかい体操服の袖、体操ズボンにきゅっといれた背中から、二つの三つ編みがくるりと浮き跳ねる。

 

「わらら、」

 

「なに?」

 

「来てくれ」

 

「いーよっ♪」

 

 階段を駆け降りる。スロープを駆け上る、帰りの坂道を駆け下りる。逃げろ逃げろ。あほほど宮部に会う道。わららが探検に行く分かれ道。死にかけた横断歩道。平らな道まで降りてくる。橋を渡ったあたりで俺の方がへばってきて、わららがうお~と抜かして俺の手を引っ張った。しんどい。全然とまってくれない。家から学校まで2キロだから50メートル走に換算するとえっと、2回で100メートルで、0.1キロで、それが2回で0.2で…あーいいやめんどくさい、とにかくめっちゃ走った。初めてわららが家の前までついて来た道。この家の子だと判明した玄関。うれしい。今日死ぬのに。もう何もかも大丈夫な気がする。

 

「ただいまっ」

 

「たはいあ…」

 

 息を切らしてへばり込む俺のずっと上で、わららの笑う音がお日様のようにぱあっと降ってきた。

 

 

 

 

 

 何も考えずに帰ってきてしまったから、俺は結局人生最後のお弁当を学校に置きっ放しにして来てしまった。数日ぶりに家に帰ってきたわららは、まるで修学旅行にでも行ってきたみたいにお土産話をする。

 

「あのね、滴ちゃんがすずきに会いたいっていうから、体代わってあげたの。そしたらね、ぜ~んぜん返してくれなくて、あたしずっとユメトムの外側を探検してたのよ」

 

 わららが両手を頭の上でさんかくにして、びゅんびゅん左右を交互に振り向く。うーん、探検のポーズかな。

 

「楽しかった?」

 

「うん! すずきは何してたの?」

 

「それは…ないしょです」

 

「え~ず~る~い~!」

 

「いや、うーん…」

 

 電話(家の)が鳴る。ナイスタイミングだ。番号を見ると和渕だった。今頃になって、5,6時間目をサボってきた罪悪感がじわじわする。

 

「すずき、ひっかかった?」

 

 第一声がそれだった。

 

「…へ」

 

「ドッキリなんだよ」

 

「…なにが」

 

「今日のこと」

 

 受話器の前で俺が固まっていると、和渕がするする~と種を明かし始める。

 

「滴さんの案なんだ。最後の数日ヒマだったら、すずくん悲しくなっちゃうでしょって。まあ滴さんはもうウイルスじゃないし、僕が協力しても問題なかったからね。それにすずきゲーム好きだし、現実世界がゲームみたいになったら、ていうかここもすでにゲームなんだけど、面白いかなーって思って」

 

 ドッキリ…ああ…通りであんなに楽しそうだったわけだ。滴さんも相当楽しかっただろう。

 

「じゃあ、滴さんがわららを殺そうとしたのも、和渕がなんか亡命した人どーのこーのってのも」

 

「嘘だよ」

 

 あれ、和渕の嘘ってすぐばれるんじゃなかったっけ。

 

「まあその辺の案はほとんど滴さんなんだけどね。面白かった?」

 

「面、白、か、た…」

 

 めっちゃ片言になる。

 

「いや、たぶん面白かったんだけど、なんか、まだ生々しいというか」

 

 この2日間の、どの俺を思い出しても、まだそのときの感じが胸に残っている気がする。あと数時間したら面白かったってって呼べてるかもしれない。

 

「やりすぎたかな」

 

「やりすぎだよ」

 

「やりすぎだったね」

 

「やりすぎくらいがいいんだよ」

 

 まだ頭に事実がきれいに納まってなくて、適当に受話器に受け答えしている。

 

「あ、戦ギス4って買った?」

 

「買ったよ」

 

「死ぬ前にやりたいんだけど」

 

「ふうん」

 

「や、だめならいいよ」

 

「せっかく愛しのウイルスを取り戻したのに、残り数時間ワクチンと過ごしていいの?」

 

「はー?」

 

 今さら予想外のことを言われて笑ってしまう。

 

「でももしかしたら、和渕がワクチンってのも、最初っからドッキリだったかもしれない」

 

「ドッキリじゃないかもしれない」

 

「だから、分かんないから」

 

「分かんないから?」

 

「戦ギスやりたい」

 

「へへ、何それ」

 

 受話器から笑い声が漏れる。

 

「明日貸すよ」

 

「今夜死ぬじゃん」

 

「それもドッキリかもしれない」

 

「え、そーなのか?」

 

「さあ」

 

「ちょっと待って、どこまでがドッキリなの?」

 

「さあ」

 

「てかほんとに今日のドッキリだったの?」

 

「さあ」

 

 和渕の声が楽しくて弾む。

 

「じゃーね」

 

「あ、待って戦ギ」

 

 …切られた。ぷーぷーと鳴る受話器のリズムが、子どもみたいに勝ち誇っていた。

 

 

 

 

 

 最後の晩餐は中華丼だった。もしこれが最後の晩餐だよって母ちゃんに告げてたら、たぶん夏でも鍋を作ってくれたんじゃないかと思う。鍋して、おじやにして、さらにわらびもちも買ってきてくれそうだけど、さすがにお腹いっぱいだな。じゃあ明日のおやつでもいいよって言って、でも明日にはもう死んでる予定で…なんて想像してたら、今は目の前にある中華丼が一番ぴったりでうまかった。

 

 最後の風呂は俺が先だった。差し湯ボタンの人(マークに描かれている黒い棒人間)とも、もう今日でお別れだ。いや、お別れとも限らないのか。ドッキリかもしれないんだから。何だかそう思うと、ゲーム機の明るさボタンを上げたように、視界が一段階ふっと明るくなった。

 

 さて、本当にこの世界がドッキリだとしたら。

 

 わららはどうなるだろう。高校生になっても、まだこんな感じかな。どんな制服を着てはしゃぎ回っているだろう。かれしとかできるのかな。双子の兄弟に、あんな複雑な設定や仕掛けをして、楽しんでるような女の子に…あれ、そうなるとわららと和渕の連携プレーはすごすぎる。どうしよわららの彼氏が和渕だったら。なんかそれだけは嫌だな。

 

 和渕も相当だ。あの爪ライトの技術はどうしたんだろう。実は科学者なのかもしれない。あと指先で俺のちょん切れネクタイを修復したのもなんだ。実は超能力者なのかもしれない。俺の知らないところで勝手に能力つけやがって。俺にも伝授して欲しい。わららのせいで部屋中修復したいものだらけだ。

 

 宮部はいい。鈴木さんもいい。未来は見えている。あれ、その未来もドッキリかもしれない。宮部が鈴木さんにフラれるかもしれない。なんかそっちの方がリアルだ。どんまい宮部。まだ分かんないけど。

 

 俺は…何も考えてなかったけど、もしこのまま、高校生になって、未来になれたら――

 

 ゲームが作りたいな。思いつきだけど。いや無理かな。でも分かんない。まじで作ってるかもしれない。でも数学とかできなきゃだめかな。まあマッシュマン(そう、それは数学の教科書に毎ページかかさず登場する、一度見れば二度と忘れられない強烈なインパクトを持つ解説キャラクター。人々は彼をこう呼ぶ、「スーパーゲジゲジマッシュマン」。初めてマッシュマンを目にした者は、その晩98パーセントの確率で夢に見るといわれ(俺もその一人だ)、ノートの隅などに少しでもマッシュマンの落書きをした者は、どんな成績優秀者でもその学期の通知表に「えんとつ」または「あひるさん」がつくという恐ろしい都市伝説もある)と一緒に頑張れば何とかなるか。

 

 それだったら700年後はユメトム作ってることになるのかな。でもその未来予想自体がドッキリかもしれない。そもそもゲーム作ってるかも分かんない。とにかく全てが未知だ。

 

「はあ…」

 

 あったかいお湯の中から出たくない。あがって、服着て、布団に入れば、もう明日か死かを待つだけだ。あ、その前にゲームしよっかな。でも戦ギス4貸してくれなかったしな。まあ和渕が4に夢中になってる間に俺が1~3を極めておくのも手だ。そしてもし明日が来れば、4の攻略法を和渕に教わることで、俺が結果的に一歩リードしていることになる。最後に俺も自分の4を買ってレベルアップすれば、戦ギスシリーズトーナメント(俺たち発案)では1~4バランスよく和渕に勝てる気がしてきた。

 

 まあ、明日が来ればの話だ。

 

 

 

 

 

「すーずきっ、ゲーム終わり!しゅーりょ!ふぃにっしゅふぃにっしゅ!」

 

 風呂から上がってきたわららが、すごい勢いでゲームを終わらせにかかる。

 

「ちょっと待って今から保存…あ、なにここ裏ルート?」

 

「裏ルートじゃない!ただのみち、ぶち消しぶち消し!」

 

「えーでもまだ絶対30分経ってない」

 

「すずきタイマーずるするからだーめ!」

 

「いてえっ」

 

 たまたま電源ボタンにかかっていた指の上から、すごい圧力でわららにぐりぐり長押しされる。開放された指にはボタンの型がくっきり刻まれ、白くなった指に血を供給しようとする血管の動きまで感じられそうだった。

 

「…さみーな」

 

「寒いの?」

 

「いや、さみしーなって。でもさみしーて言うとまじでさみしいから、略してさみーなって」

 

 自分で何言ってんのか分からない。わららがちっちゃい手でいそいそ窓を開けると、夜っぽい風がふぁあっとたくさん入ってきた。

 

「これでさみい?」

 

「うん、寒い」

 

「凍え死ぬ?」

 

「いや、ぎり死なない」

 

 どうせなら本当に寒くなろうと、体が冷えるまでずっと外を見ていた。でももうわららを見る機会も無いんだと思うと、振り返ってあったかいほうを見た。

 

「最後にあたしの体でやってみたいことある?」

 

「えっ…ーと」

 

 おでこプリンタ、涙カメラ、睡眠薬、盗聴器、あとおひざスピーカーもあったな。爪ライトはだめだ、あれは目潰し用。手のクリーナーも前頭葉がただれる。

 

「じゃあ、おててケータイで」

 

「誰に電話するの?」

 

「わらら」

 

 わららの瞳が二、三秒だけまんまるになって、すぐにふふんと笑って細くなった。それからいたずらでもするように俺の背後に回ると、全身で背中に被さってきた。

 

「ぐあ」

 

「へへー」

 

 俺がわららをおんぶしているようで、わららが俺をだっこしているようで、でもそれにしては俺を押しつぶそうとする感じが強すぎて、結局わららが俺を痛がらせようとしていた。

 

 貝殻を耳に当てると海の音が聞こえるらしいが、おててケータイを耳に当てると冷蔵庫みたいな音が聞こえる。それにあったかい。冷蔵庫の裏側みたいだ。でもやわらかい。それじゃあ何だろう…

 

「もしもし!」

 

「あ、もしもし」

 

 突然右耳に大音量、それから小さく温度がかかる。

 

「うふう、すずき?」

 

「はい」

 

「こちらわららです☆」

 

「あーどうも、わららさん」

 

 電話では敬語が習慣になっている。

 

「すずきは今日死んじゃうの?」

 

「まあ、たぶん」

 

「えっへへーえ、こわいでしょ~」

 

「…うん」

 

 わららはいつもこんな息づかいだったのかな、鼓膜がひろう呼吸の一つ一つまでもが楽しそうだ。

 

「あのね、すずき」

 

「なに?」

 

「すずきが苦しんで嬉しいの、あたしだけだよ」

 

「うん」

 

「わっちくんもね、母ちゃんも父ちゃんも、みやべいもすーちゃんも、このユメトムのなかのぜ~んぶね、すずきのためにあるんだよ」

 

「うん」

 

「みんなすずきのために作られてね、すずきのためにドッキリしてね、みんな、すずきの幸せを願ってるの」

 

「うん」

 

「でもね、すずきはず~っと幸せじゃないでしょ」

 

「うん」

 

「苦しいときもあるでしょ」

 

「うん」

 

「そのときはねえ、あたしが喜んであげる」

 

「…ありがとう」

 

 電話越しでよかった。直接言われたら、どうしていいのか分からない。

 

「ちょっとすずき、こっちみてっ」

 

 二人だけの部屋なのに、がんばってひそひそ声を出すわらら。

 

「あれ、電話なのに見ていいの?」

 

「だいじょーぶ、これはじゅわきから本物が出てくる設定!」

 

 そんなのアリかよ。聞いたことあるようでないようなホラーだな。

 

「ちょっとまってね」

 

 まだ忠実にひそひそ声をキープしつつ、でももう嬉しそうな部分はきゅいっと声になって、わららはまだ乾かないやわらかい髪の毛を、せっせと顔の前にかぶせてくる。何て言うんだろう、オールバックの逆だから、オール…あれ「前」って何だっけ。フロントでいいんだっけ。それかモヒカンのくるくるしてないバージョンか、とにかくわららが目指しているのは、最高に「こわい」ヘアスタイルだ。

 

「う~ら~め~し~や~」

 

 わららの視界が髪の毛で隠れているのをいいことに、俺はこっそり笑ってみた。濡れているのにさらさらとした髪の奥で、怖がっている俺の顔を期待しているわららに。

 

「こわいよ」

 

 そう言った声はいくらか微笑んでしまったけど、わららは一瞬でうらめしやヘアを元通りにし、一瞬でわらびもちスマイルを元通り咲かせた。それからわららはふ~♪とちっちゃく歌いながら、何やら座ったまま体をくねくねしたり、ねじねじしたり、ふりふりしたりしている。

 

「どーしたの?」

 

 わららはぴたっと動きを止めて、にやっと俺を見つめてくる。

 

「ほんとはこれ違反だからやっちゃだめだけど、やっていいよねっ☆」

 

「いいよ」

 

 何かも分からないまま俺は答えていた。たぶんすっごいいいことかすっごい悪いことかどっちかだ。わららは俺の両肩にとんっと手を乗せると、そのままハイハイでひき殺すように俺の上半身を床に倒した。

 

「えーあーうー」

 

 わららが今からどんな法律を破ろうとしているのかぐるぐる考えながら、俺は視界の80%を占めるわららの視線を避けようとする。

 

「問題です!」

 

 鼓膜破る気満々の音量で、わららは俺の耳に人生最終問題を出題した。

 

「いっっっっっちばん簡単に寝れる方法って、なーんだ?」

 

「え…羊数えるとか」

 

「ぶぶーっ」

 

「あ、あじゃあ、数学やる。絶対眠いって」

 

「ぶぶーっ」

 

「なんか、あれだ。飯くう、あ、弁当食って昼休み」

 

「ぶぶーっ」

 

「えっとじゃ、あーあれだ、そのみんなで体育館集まって何か薬物乱用とかに関するビデオを見るやつ」

 

「ぶぶーっ」

 

「あ~、じゃあぁ…」

 

 早く正解発表したそうなわららを、必死でつっかえさす。だってもしいっっっっっちばん簡単に寝てしまったら、もう永遠に目覚めなくて

 

「あ」

 

 突然口が丸く開き、それからじりじり口角を引いて閉じていく。その真上には同時並行で、「ぶぶー」の口が「にいー」に変わっていく。――ああ、これだから最後の最後まで、一秒先も分からない。垂れ下がる髪が俺の頬をつつく。あったかいのに背筋が凍る。腰にまたがる腰。手を押さえる手。視界いっぱいにわらら。だめだ、もう逃げられない。遂にわらびもちが俺の口を迎えに来て――

 

 

 

 

 

 目を開けると、三つ編みの女子がいた。

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