自分の奇声で目が覚めた。重たい頭を持ち上げて、腹に食い込む二つのひざを確認する。
「おーっ、きーっ、てーっ、えーっ」
わららが俺の上で前のめりにトランポリンするたびに、2段ベッドがきゅいきゅい鳴る。俺の奇声もぎゅえぎゅえ鳴る。
「おっ、おきて、え、るかは、らっ、ちょ、やべ、てっ、くうれ、うっ…」
俺の必死のメッセージは楽しげなリズムに潰し出され、わららがきゅふきゅふ笑う。俺はぎゅえぎゅえ鳴る。
「あ、そうだ。今日がはじまるよっ」
突然どいてくれたわららがベッドからぴょんと降りてる間に、俺は解放された腹でふーと空気を吸う。ああ、これが音楽の時間やたら言われる腹式呼吸ってやつかもし――
「ぎゅえっ」
またまたがれた。しかも今度は手に凶器(いやただのカッターマットなんだけどわららが持てば何でも凶器)を持っている。昨晩恐ろしい手さばきで入れていた切り込みを開いて、俺の顔すれすれまで近づけてくる。隙間からわららの右のほっぺと目がのぞく。
「よ~い、カット!」
まつげが切り落とされそうな距離で切り込みが閉じた。ずるずる後ずさりしてピントを合わせると、濃い緑の上に修正ペンで今日の日付が書いてある。わららはその朝、ご飯を食べるときも歯みがきするときも弁当をかばんに入れるときもずーっと、その「よ~い、カット!てするやつ」を片手に抱えていた。
後ろからたったったったと近づいてくる足音が聞こえて、なんかあほみたいな足音だなとか思って、なんとなく宮部な気がして、でも宮部じゃなかったらあほみたいな足音て失礼だなって思って、肩をつつかれて振り返ると
「おーっす!」
宮部だった。
「おーっす」
何だか笑いそうになって、テンション高く答えてしまう。朝から宮部の出現率が高いのは、こいつが走るのが好きだからかもしれない。
「昨日な、すずき寝てたから知らねーけどな、ついに午後1時2分の乱に勝ったんだよ」
「…おお」
午後1時2分の乱ってのが何だったのか思い出すのに数秒かかった。
「やっぱ5時間目体育だと不利なんだけどな、でもチャイムぎりぎりまでグランドいれるし、俺ら5時間目でよかった!」
「そーだな」
何か変な感じがする。いや、確かに宮部はいつも通りなんだけど、でも何となくおかしい、違う、本当の宮部って――
「あのさ、」
「ん?」
即反応されて、一瞬言うか迷う。
「…700年後にさ、犯罪する予定とかある?」
「はんざーい?」
全部ひらがなで答えてくる。
「犯罪って~、あ。逆ギレとか!」
「それはちょっと違う」
狐さんの恋人を含む多くの命を虐殺する方法が、こいつの頭の中にいつ浮かぶんだろう。
「あ分かった。他のクラスのやつらの陣地を、途中で、1時10分ぐらいで奪うやつだ」
「それ、700年後もしてんのか?」
「してね~よ~」
急になぜか嬉しさ全開で答えてくる。
「俺らは最初に決まった陣地で、小っこい陣地だったらサッカーじゃないやつするし!」
「なるほど」
宮部との会話は50%理解できたら「なるほど」と言うことにしている。
「でも700年後だったら、すっげえじーちゃんになってるからなあ。やっぱゴルフとかすんのかなあ」
すっごい難しいことを考えてるような宮部の表情の隣で、俺はギリギリ気付かれないレベルまで笑いをこらえていた。
「すずきっ」
ちょうどラスト1個のシューマイを口に運んだところだった。弁当の時間、いきなり1組の教室に飛び込んできたわららは素早く俺の手首をつかむ。そしてそのまま俺を教室の外に引きずり出し、俺は弁当箱に残されたから揚げを想いながら、つかまれた手が一定の間隔で振動しているように感じた。わららは教室前の廊下を走り、階段前の廊下を走り、空いてる方の右手で男子トイレのドアを開け放った。俺はトイレの個室に押し込められる前に、口の中のシューマイをなんとか飲み込む。
わららの左手がふっと離れ、離れた部分がふっと冷える。目まぐるしい視界がトイレの景色に落ち着いたところで、俺はやっとこの状況を理解した。
「もしもし♪」
離した手をそのまま口にかざして、わららは電話の相手に声を送る。
「もしもし、とうもろこしの会の狐でございます」
「あたしはね~、わららですっ」
元気な女の子の声が男子トイレに響く。
「映画の件なのですが、よろしいでしょうか?」
「よろしいぞう!」
わららが狭いトイレの個室いっぱいに権威を示す。俺は1日ぶりに狐さんの声を聞いて、たぶんこのまま敬語を外せば子どもの声に聞こえるんじゃないかとか思っていた。
「わららさん、今からあなたに作っていただくのは、宮部さんを罰する、宮部さんを主人公にした、宮部さんに送る映画です」
なんか「スパゲッティーハンバーグ演説」みたいな名前のやつみたいだな。
「じゃあ今のみやべいを撮影して、700年後のみやべいに見せてあげたらいいの?」
「はい。しかし「宮部さんを罰する」ためには、宮部さんを苦しめる内容でなければなりません」
「でもあたしは、すずきを苦しめるために作られたんだよ」
それを聞いて少しうれしいなんて思っている自分を、だいぶ危険に感じた。
「あなたも彼を消した後は、別の誰かを苦しめることになります。私の恋人を苦しめた方だって、今頃は違う方を苦しめていらっしゃるでしょう」
狐さんの口調が内容によって全く変化しないから、余計に違和感を感じた。
「宮部さん自信の視点で展開される映画、つまり「ユメトム」です」
「あれ、ユメトムってゲームじゃないんですか」
「えっ…」
受話器から返ってくる反応を聞いて、一瞬別の人の声かと思った。
「えあっすいません。あの俺、このユメトムの主人公みたいな、やつです」
「失礼しました。ご一緒にいらっしゃったとは存じ上げず」
さっきまですらすら流れていた敬語が自分に向くと、急に変な感じがする。
「さきほどの会話も、聞いていらっしゃいましたか」
「えっとだから…700年後の方の宮部が、何か悪いことやらかした…ぽいから、そのユメトムを送って、罰、ゲーム、みたいな」
だめだ。どっかよその宮部さんだと思わないと真面目に話せない。
「じゃーあ、苦しめるためのユメトムだから、最初っからウイルスが入ってるってこと?」
「そうですね。わららさんは撮影とともに、ウイルスとして出演もしていただきたいと思っております」
「おおお~☆」
カメラマン兼女優を任されたわららは、狭いトイレの個室いっぱいにスーパースターのオーラを放つ。
「とにかく今日の放課後、宮部さんを主人公としたユメトムの撮影を始めてください」
「らじゃ!」
わららが頭の上でひじを直角に曲げる。たぶん敬礼のつもりだと思う。そして電話越しだから伝わってないと思う。
極秘の会話を終え男子トイレから出てくる男女二人組を、通りかかった和渕に目撃された。
「どうしたの?」
またわららがいたずらでもしてたの?って、そんな感じの笑った声で聞いてくる。目撃されたのが和渕でよかった。
「えーっと…」
あれ?と小さく声に出していた。和渕って、敵なんだったっけ?味方なんだったっけ?
「なんでもないよ」
わららが答える。そんなこと言うわららを初めて見た気がする。――確かに言わない方がいいのかもしれない。俺たちは700年後の宮部に罰ゲームを作ろうとしているのだ。そのことを俺が和渕に言って、和渕が28世紀のミヤベさんに言えば、ミヤベさんはそれを止めようとするかもしれない。プレイヤーが止めようとしたことに、俺たちは逆らえるのだろうか…なんて俺が思っているうちに、わららはとんとん走って2組の教室に帰ってしまっていたみたいだった。
「何か隠してますよね?」
「え」
かなり図星ですって感じの声が出たけど、俺が反応したのはそこじゃない。
「なんでまた敬語…」
「いや、こっちの方が威圧感でるかなって」
時々そんなことを言って微妙に笑う、和渕は昔からそうだった気がする。今はその威圧感が少しリアルさを増しているけど。
「うーん今さっき思ってたのは、和渕が敵なのか味方なのかみたいな…」
とりあえず正直に言いながら、どんどん声が小さくなっていく。
「それはバトルの形式によるんじゃないの?」
和渕が即答した。急にゲームの話に持ってくる。和渕はバトルで勝ってるときのテンションだった。俺もそのノリに押されて全部言ってしまおうかと一瞬思ったけど、それだと何だか負けた気もする。
「じゃあ…今は、敵なゲームで」
「りょうかい」
和渕がいつも通りに反応するたびに、やっぱ言おうかなって気持ちが胸の中にもくもく広がった。
5時間目が時間割変更で、弁当食った後なのに、2時間続けて数学だった。つまり2時間連続でマッシュマン(そう、それは数学の教科書に毎ページかかさず登場する、一度見れば二度と忘れられない強烈なインパクトを持つ解説キャラクター。人々は彼をこう呼ぶ、「スーパーゲジゲジマッシュマン」。初めてマッシュマンを目にした者は、その晩98パーセントの確率で夢に見るといわれ(俺もその一人だ)、ノートの隅などに少しでもマッシュマンの落書きをした者は、どんな成績優秀者でもその学期の通知表に「えんとつ」または「あひるさん」がつくという恐ろしい都市伝説もある…。)だ。今日もページの右下で「三平方の定理が使えるね!」とかアドバイスしてくれている。
ちなみに隣の2組も2時間連続社会になったらしいから、わららもうずうずしてたんだろう。帰りのあいさつが終わるや否や1組に飛び込んできて
「撮影はじめるよっ」
と教室の入り口で言い放った。そのまままた俺の手首をつかんで(机の上にかばん置き去りだ)、男子トイレのドアをばーんと開けたら掃除中で(中の人もびっくりしてたけど)、折り返し階段の前まで戻り、かつて体操服姿のわららを1時間待たせた、鈴木さんに睡眠薬を飲ませて気絶させた、4階の踊り場まで俺を引っ張ってきた。
「ユメトムって、どーやってとるの?」
少し息切れ気味に聞く俺に、
「わかんない♪」
わららはぴんぴんした笑顔で答えた。
「滴ちゃんに聞いてみよっか」
わららはしゃきんと受話器をセットし、滴さんに電話をかけた。便利だな、おててケータイ。
「もしもしあのね、撮影ってどうするのっ?」
「ふふっ映画でも撮るの?」
「うん! みやべいを罰する、みやべいを主人公にした、みやべいに送る映画☆」
わららは盗聴器で聞いたスパゲッティーハンバーグ演説を得意げにリピートする。
「何かゲティスバーグ演説みたいね」
そう、ゲティスバーグ演説だ。
「狐ちゃんって人が思いついたんだよ」
「…なるほど、狐ちゃんね」
「知ってるんですか?」
「あら、すずくんもいたの?」
今日は存在感が薄い。
「ちょっとね、ある意味恋のライバル♪」
「おお…」
声しか知らない二人が、名前も知らない恋人をめぐってライバル関係にあるらしい。
「分かった。止めないわ」
滴さんは止めないわと言う。何だか意味ありげな気がして、少し危機感を感じた。
「それじゃあわらちゃん、両人差し指を、まゆげの上に~はいっ」
「こう?」
わららが言われた通りに、右と左の人差し指をぴんと出して、まゆげの上に当ててみる。が、返事は無い。
「あの…わらら、手使っちゃったら電話できなくなるよ」
わららはは!って感じで目と口をまるくする。そしてまた両手をケータイフォルムに戻す。
「どう、涙でた?」
「でなかった~」
「そう…じゃあすずくんにやってもらってみて」
「すずきやって~」
「あ、はい」
俺はすでにナゾの受話器ポーズをしているわららの顔に、さらにナゾの人差し指をくわえることになった。まゆげに触れるとふわっというかさくっというか(クッキーみたいな表現だな)してて、少しハの字に当てると本当に悲しんでるみたいだった。
「あ」
一瞬だった。泣くというよりか、本当に涙を落とすって感じだ。頬の上をすっと伝って、一筋だけ線をいれる。そのまま当てていると2本、3本涙の線が流れていくので、俺は何だか心配になって指を離した。
「何か、目薬でうそなきするみたい!」
「ふふ、ウイルスの涙はまさに目薬の嘘泣きよ。それもただの目薬じゃないわ。例えばそれを宮部くんの両目にさせば、宮部くん視点の映像、音声、におい、味、感覚全てが撮影できる。それをユメトムにして現実世界の宮部くんの映像コード、音声コードにそれぞれつなげれば、立体五感対応の3D5Sユメトムが楽しめるってわけ」
お~と俺とわららの声が重なると、滴さんは面白そうにふふっと笑う。
「この機能はもともとターゲットの位置や行動を監視して、24時間逃げられないように見守ってあげるのが目的なんだけどね♪」
と、前科たっぷりの笑顔で説明してくれた。
「へえ~そっかあ~」
と、わららの目にも危険な色がかがやいていた。
「それとすずくん、」
ささやくような声だったので、俺は耳を受話器にひたっと寄せる。
「ユメトムが「ゲーム」だと思い込んでる子に限って、ウイルスに洗脳されちゃうのよ」
滴さんはふふんと笑い声を残して、そこで電話を切った。
「なんで知らなかったのかな~」
わららが自分のまゆげに指を当て、うんうん左右に上半身をかしげている。
「滴さんのほうが上司だからかな」
とか答えながら、俺はわららが、笑うのが専門だからじゃないかなと思った。
ずっとうんうんかしげているわららに代わって俺がまた両指を当ててみると、するするとほどけるように涙が落ちてくる。わららは自分の手をきゅっとあごの下で合わせて、ぽたりぽたり伝ってくる滴をキャッチしていた。…まゆにつばを塗るってのはほんとに効果があると思う。実際につば塗ったわけじゃないけど、何か有名な映画で周りの人がみんなもらい泣きしているときに、丁度お茶の入ったコップを持って冷えていた指をまゆに当てると、全然涙が出なかった。でも今はその指をわららのまゆに当てていた。
わららが悲しんでいる。どっからどう見てもそうだった。わららが全部、涙になって流れてしまって消えてしまうんじゃないかと思った。わららがその指をぎゅっと合わせても、すきまから涙がぽたぽた落ちて、全部廊下に染みこんで消えてしまう。手のひらに少し残った分も冷たくなって、蒸発してしまう。そうしてわららが、いなくなってしまうような気がした。
「あ~!」
そう言って笑ったわららの両頬に押されて、両目から一気にこぼれ落ちる。映画を見て泣く人だって、映画の撮影準備を見て泣きそうな人だって、みんな嘘泣きにもらい泣きしてるだけだ。
「すずき顔へん!」
…顔へん!って言われるとは思わなかったけど。
幸いなことに、宮部はひとり教室で黒板消しクリーナーの中身を水で浸したものもどきと格闘していた。おそらく掃除当番のじゃんけんで負けたんだろう。
「宮部」
「んー?」
「それ後で手伝うからさ、ちょっとこの、わららの持ってる目薬さして」
「目、目ぐすり刺すー!?」
そうか、こいつは俺みたいにこそこそ布団の中でゲームやって視力が悪くなって目薬をもらったことがないのか。…にしてもだ。
「あの、刺すってそういう意味じゃなくて。塗るっていうか、落とすっていうか、まあ、さすんだよ」
「刺すのか…」
宮部が予防接種の前の俺みたいなテンションになっている。(俺は注射1回刺されるくらいなら目薬100回さす)
「はいみやべい、ぶーっしゅぶっしゅさしてね~♪」
わららはそう言って笑顔で両手を差し出す。彼女も分かっていないようだ。
「え、え、ていうかこれなんの薬っ?」
「これ、モテるくっ…ふす、り…」
途中で笑い出してしまう。何かあほみたいに楽しい。え、え、さす、え、とか言い続けてる宮部の両目(およびその周辺)に、俺たちは強硬手段でうそなきハイテク目薬をあびせた。すでに廊下まで追い詰められて、まつげまできらきら状態なった宮部を、たまたま空のごみ箱をきゅいきゅい揺らしながら2組の教室に帰ってきた鈴木さんが目撃した。
「は…」
鈴木さんが口をあける。
「あ、すずず木もじゃんけん、でごみ捨てってきたのか?」
たぶん、かなり可哀相な表情のまま話しかける宮部。
「いや、立候補」
鈴木さんがごみ箱をきゅいと揺らす。
「ともくんはどうしたん?」
浸透した偽名にぱっと目をかがやかせる(特に今はかがやきが増している)宮部。
「あー、あえっとーう、えのー、そのその、ね、これ、もてぐすり」
「もてぐすり?」
「め目薬で、これもてるんだよ」
「ふーん」
鈴木さんは宮部のセリフを吸収する能力がある。
「もててるん?」
「いやっ今、すー鈴木にもてててるん、よ」
「あー」
またごみ箱がきゅいと鳴る。
「そうやなあ」
答える鈴木さんの口元がふんわり笑っていた。ということに気付いたのであろう宮部の後姿を見て、気付いた。
わららが寝てしまってからのことだった。ううううう、ううううう、と振動音が鳴り出して、わららの右手がぶるぶると動いていた。わららの肩をつついて、ゆすって、呼びかけてみても、全然目を開けない。俺はうっすら胸をとくとく鳴らせながら、わららの両手をとり、初めてウイルスのケータイに一人ででてみた。
「もしもし、とうもろこしの会の狐です」
「あ、もしもしすいません、えっと主人公の、すずきです」
持ち主が寝ていても使えるみたいだけど、右と左の手を両方近づけると、どうしても中途半端に前かがみになってしまうようだ。便利じゃないな、おててケータイ。
「わららさんは眠っていらっしゃるのでしょう」
「あ、はい」
「3D5S撮影対応の目薬は、分泌するのに負担がかかりますから。目を休める必要があるのでしょうね」
「へ、…詳しいんですね」
「その手の情報は脳内にインストールされていますから」
狐さんがさらっと答える。それから少しして、また口を開いた。
「私の恋人も同じようなことを言っていましたよ。ユメトムは「ゲーム」だって」
「ああ…」
「でも違いました。彼に選択肢なんてなかった。ウイルスの恋人にされて、指名手配犯そっくりに整形されて、」
整形。落書き。指名手配犯。滴さん。恋人。おかしい。いやおかしくない。
「嘘泣きに泣かされて、安楽死を選ばされて…最初から、死んで終わるような映画だった」
嘘泣き。安楽死。宮部。ともくん。とーもくん。
「トーモ呼ばれる、彼に殺されたのです」
…繋がる。
「――ということは、とーもくんは、自分の奥さんのユメトムに侵入したんですか?」
「相手が誰かなんて関係ありません。より多くのコンピューターを自分の支配下に置く。それが28世紀の権力の持ち方なんですから」
受話器の中に空白が流れる。ずっと黙っていたら電話が切れてしまうような気がして、俺はあのとかえっととかつぶやいて繋いでおく。
「どうなさいました?」
「いや…、全く想像できなくて」
中3の宮部が遊び場をめぐって午後1時2分の乱を巻き起こしていたように、700年後の宮部はコンピューターの権力をめぐってウイルスを送りまくっている。
「私だって、全く想像していませんでした」
恋人が死んですぐは、ただ悲しいだけだった。でもウイルスに関する知識をインストールしたら、少しずつ犯人の顔が見えてきた。犯人だけじゃない。他の被害者の顔も、その遺族の顔も、その悲しさも、許せなさも――
「トーモを殺す会。とうもころしの会です。くだらないでしょう」
ウイルスに感染した遺族の会は、凶悪殺人犯のトーモに死刑判決をくだした。それでもこの時代に、人を殺す方法はたった一つしかなかった。そしてその計画が今日さっき、あの目薬騒動によって始まっていた。
「今日の放課後に目薬を滴下した場合、撮影が始まるのは約3時間後。今日の夕方から明日の放課後まで撮り続けるとすれば、睡眠時間などを省いて約14時間分のユメトムとなります。明日の放課後までにお送りすれば、明後日の早朝にはなくなっているでしょう」
3とか14とかいう数字を追うのに必死で、「なくなっている」を「亡くなっている」に変換するのにしばらくかかった。要するに2日後の朝、わららは自分の頭目を殺しているということだ。
「…よく知ってますね」
褒め言葉でもないし、
「インストールされていますから」
謙遜でもなかった。
映画が完成したのは次の日俺が家に帰ってからだった…らしい。昨日は弁当中も放課後も俺を引っ張り出していたわららの姿を、今日は学校行ってから帰ってくるまで、帰ってきてからも数十分遅れてわららが帰ってくるまで見なかった。
「問題です☆」
ただいま☆の代わりに、わららは玄関から家中に響き渡る声でちゃーらん♪と出題した。
「主人公のみやべいは、いっちばん最後にどーなるでしょう?」
俺は自分の部屋からとたとた1階に降りながら聞く。こうやって聞くと、本当にそんな映画があるみたいだ。
「正解はねえ…」
まだ階段も降りきらないうちにわららがせかす。
「睡眠薬で死んじゃうの!」
足が止まる。
「3D5Sのユメトムでね、自分が死んでいく夢を見たらね、苦しくて、自殺して、正夢になっちゃうんだって~」
階段の下から2,3段目で、俺はかたまっていた。
「宮部は?」
「倒れちゃったよ。地面でばたばたして、息とかも苦しそうだった」
わららが白いまるい運動靴を脱いで、階段をと、と、とのぼってくる。三つ編みが元気よくはねる。
「くるしい?」
俺の首元でのぞきこむように首を傾げる。小さな声だけど、耳元に直接嬉しそうに聞いてくる。
「え…」
「あのね、狐ちゃんが教えてくれたの。友達とか恋人とかが死んじゃったらね、すっごーい苦しいんだって♪」
わららは階段の一段下でにっこりしている。そのにっこり顔に押されて、階段から落ちてしまいそうだった。
「わらら、それ…」
宮部が悪夢に死んでしまうように、ミヤベさんが安楽死を選ぶように、俺を「逃さない」ように、わららが消されないように――
「とーもくんに送ったらどうだ?」
「なんで?」
ふらんっと、わららは三つ編みごとかしげる。
「俺が、宮部が倒れてて、見てて苦しいから。わららの手柄だから、とーもくんに自慢したらいいと思う」
分からない、見てて苦しい、昨日まで目薬に頑張っていたような宮部も、本当に睡眠薬で人を殺せたわららも、その笑顔を引っこめさせようとしている自分も…
「そっかあ、ナイスあいでぃ~あだね☆」
ぱあっと光る目に目を合わせられなくて、うつむくようにうなずいた。
「とーもくん喜ぶかなあ~」
目だけじゃない。その手も、足も、三つ編みさえも、うつむいた視界にうきうき感を放ってくる。心臓が鳴る。聞こえてしまいそうだ。喉が赤くなってく感覚がする。
「待っ…」
「ん?」
わららの手首を掴んでいた。動脈でも押さえたら止まればいいのにと思った。
「…送った?」
「送ったよ」
双子だけど、俺より小さい手だった。
わららはうきうきしていた。制服を着替えながらふーくふくっワンピ~いスっすーとか口ずさんでいた。宿題をしながらさんぺっぽ~うの定理はねっ2じょたす2じょがナナメ2じょ~とか口ずさんでいた。ご飯を食べながらとうっふ~うふふ参上!とーっうふ(以下略)、母ちゃんに歌わんと食べなさいって言われていた。多分今頃もお風呂でシンガーソングライターになっているんだと思う。
俺は和渕に電話していた。もちろんおててケータイじゃなくて、2階の家電話で。歴史の年号はあんなに覚えられないのに、和渕の番号は指に染み付いていた。押したときの音も、かかるときの音も、何回くりかえす音も…
「もしもし」
和渕が言う声も。
「もしもし、あのさ」
明日俺んちでゲームする? 俺免疫バトラーズでレア細胞ダブったから、和渕のダブってるやつと交換しねーか。あとそれとさ、あれ片っぽが細菌役して対戦できるらしくて、俺も初めて知ったんだけど――
「明日宮部は死んでると思う」
こんなことを受話器に言うことは無かった。
「700年後の方の?」
「…たぶん」
睡眠薬に倒れる宮部の映像が、視界の遠くでくり返す。受話器の間に流れる空気の音に和渕の声が返ってくるまで、
「何ですずきが知ってるの?」
「死んでもらうための映像を送ったから」
「…プレイヤーのミヤベさんには、何て伝えたらいいかな」
「生きてないって言ったらいいと思う」
「でも今日の時点では生きてるんだろ?」
「明日死ぬんだよ」
1階からお風呂のドアが開く音がした。わららの歌ってる声までは聞こえてこなかった。
「明日死ぬのに、ミヤベさんだけ生きてても、ミヤベさんの思った通りじゃないと思う」
「ミヤベさんが死んだら、すずきも消えるんだよ」
「別にいいよ実感無いから」
自分で言っててわがままみたいだった。
「消えても、消えたときにもう俺がいないから。わららが消えたら消えたって分かるけど、俺が消えても分からないから。俺が消えても、わららはまた…」
分からない。現実世界で2人の人を死なせて、自分も一緒に消えて、したいことが分からない。俺はウイルスとか関係なく生きてきたのに、当たり前のように、この世界を終わらせようとしている。分からない。俺はいつから――
「それじゃあ、わららはよっぽど強力なウイルスだよ」
和渕の声はためいき混じりに聞こえた。電話越しだから伝わってないと思うけど、俺はそのまま壁にぶつかるくらい、あー…とうなずいていた。
俺たちは小学生のときから、けんかしたことが無かった。意見が違うことはときどきあっても、ぶつかり合うのは画面の中だけだった。
まだゲームは1日30分と決められていた頃。俺はボス戦でやられて、ゲームをぶち消しして、同時にすでに残り21分くらいになっていたタイマーもリセットした。そしてまたゲーム機の電源を入れて、30分に戻したタイマーを再スタートさせる。和渕はそれはずるいと言って、俺のタイマーを設定し直そうとした。でもゲームの中身進んでないんだからいいじゃんとかぶつぶつ言いながら、10分増えたタイマーでボス戦を再開していた。
和渕がちゃんと時間ぴったりに終わってみせると、俺は開き直って「この方法をくり返せば永遠にゲームし続けられる」と画面を見ながら自慢していた気がする(俺ってそんな小学生だった)。本当はもう和渕がやめた時点でやめたかったけど、30分(正確には40分くらい)のタイマーが鳴るまで、俺はずっと画面だけを見続けていた…なんて記憶も、和渕がインストールされたときに作られたデータなんだけど。
和渕と電話を切って、わららと入れ替わりで風呂に入って、上がってきたらわららは寝袋みたいに布団にくるまっていた。この頃は下の段がお気に入りみたいで、奥の壁側にきゅっと身を寄せてくっついている。歌ってないってことは寝てるのかな…なんて、ひらひらと湿った髪の毛を眺めながら思う。
「わらら」
呼びかけてみて、もし起きてたら、正直に言おうと思った。わららの入ったぐるぐる巻きの布団は、ずっとやわらかく上下しているだけだった。
俺が悲しんで、とーもくんが喜んでると思っている。――また嘘をついている。それでもやっぱり一晩くらい、その気持ちのまますやすや寝てもらった方がいいんじゃないかとか
「わらら…」
俺が言えないだけなのに。
ううううう、ううううう、ううううう、ううううう、ううううう、ううううう、ううううう、振動音が寝起きの俺に迫ってくる。俺は2段ベッドを降りて、5時半を指す時計を見て、下の段で振動しているわららの右手を見つけた。わららは目を閉じたままだった。
わららの目が覚める前に止まればいいのに――俺は繰り返す着信音を上からぎゅっと押さえ込んだ。振動が終わる。かぶせた手の下から、小さくもしもし?と聞こえる。
「…もしもし」
わららの右手を耳に持ってきて、まだ出しなれないような薄い声で答えた。受話器からふふっと笑い声がこぼれる。
「すずくん、お口忘れてるわよ」
「あ」
俺はわららの体の向こう側の手をとって、そっと口元まで持ってきた。
「すいません…」
「いいのよ。おはよう」
「あ、おはようございます」
朝から滴さんにあいさつするとは思わなかった。
「上手くいったみたいね」
「え?」
「とーもくんへの「罰ゲーム」」
俺は3秒くらい固まってしまった。
「知ってたんですか?」
「あたしとーもくんと仲良しだから」
滴さんの声が明るくなる。俺は口を閉じたまま目を伏せる。そうなんですかとか、ごめんなさいとか、そんなことを言うためにもうずっと口が開かないような気がした。
「…わららはどーなるんですか?」
「どーもしないわ。とーもくんが死んじゃって「きのこ」から開放されるだけ。すずくんに嫌われても正式に検出されないし、すずくんを逃してもそれを咎める理由が無い。もしすずくんを殺しちゃっても、ちゃんとリセットされた世界に再インストールされる。ただ――」
滴さんの声は微笑んだままだった。
「わらちゃんはもう、ウイルスじゃなくなるわ」
いつも俺より先に起きて、いつのまにか三つ編みにしている髪が、さらさらと背中の下に敷かれていた。いつも両側にぴこっと出している耳にも、数本、数束、重なり合ってかかっていた。伏せたまつげの中に、まぶたの隙間から、数ミリだけ潤った黒い目が俺を見ていた。
「あたしのため?」
小さな口びるが動く。枕の上の頭を微妙にかしげて、まわりの髪の毛がさわっとたゆむ。やっとわららと目が合った気がして、とくとく細かく鳴っていた鼓動がかえって静かになっていく。わららにも全部伝わっていた。俺はまだわららの両手を持ったままだった。
昨日まで極悪殺人犯の手下として働かされていた少女は、ある朝主人公の手によって救い出された…なんて、そんな設定のゲームじゃない。でも全てはゲームの中の話だ。俺が主人公で、わららは突然現れた少女で、この世界の何もかもがゲームの中の設定で――
「俺のためだよ」
主人公が個人的に、少女を手に入れたかっただけなんだ。
「ごめんなんて…思ってない」
にぎった両手をぎゅっとつかまえる。とらえた両目はそらさないまま。つかまっていないと、見ていないと、一人になっていまいそうだった――瞬間ぎゅわっと力が返ってくる。留まった視界がぐらりと回る。そのまま腰と背中と後頭部が一気に布団に受け止められ、一瞬つぶった目を開くと、天井バックにパジャマの肩から、数本数束の髪が俺の頬まで垂れ下がっていた。…逆転していた。
わららはつぶれるほどに捕まえていた小さな両手を放し、ゆっくり俺の首筋に添えてくる。まだ部屋も暗いのに、わららの笑った目と口だけははっきりきらきらする。俺は死刑判決でも受けるのかなと思ったけど、わららの目を見て、今気づいた。
――わららはもう、俺を殺してもかまわない。嫌われてもかまわない。もう消されることはない。どんな嘘も通用しない。
今気付いた、俺は…ウイルスを野生化させてしまった。